episode 12
ゴールデンウィークの最終日だけあって通りには人が溢れている。すれ違う人たちを観察しながら、私ははぐれてしまわないよう影山のシャツの袖をつかむ。歩幅を合わせられるようになったとはいえ、影山はまだ、同行の女子を気遣えるほどではない。
「うー、まだこの人の多さには慣れないなあ……うっかりすると人に流されそうだよね」
苦笑しながら言うと、影山は眉を顰める。
「は? 体幹が弱ェんじゃねえか」
「いや、まあそもそも鍛えてもいないし、そりゃあ影山に比べれば弱いんだろうけど」
というか人の交通量が多いだけの話であって、別に私の体幹がどうとか、そういう問題ではない気がする。歩幅を合わせられるようになっても影山のそういう根本的な部分は変わらない。
それでも影山がやめろと言わないのをいいことに、私はそのまま影山の袖口を握ったまま歩くことにした。なんだか散歩されている犬のような気分だ。
「影山って、もし手つないで歩いてもあんまりいい雰囲気にならなさそう」
正直に言うと、影山は怪訝そうに私を見た。
「手なんか繋がねえ」
「そういう話じゃなくって──ていうか三年間も友達なのに、私影山から恋愛系の話、聞いたことないんじゃない?」
気が付いて驚いた。今まで相手が影山だということで何となく恋愛の話はしてこなかったけれど、よくよく考えれば三年で一度もそういう話をしたことがなかったのだった。意識したことがないからまったく気が付かなかったけれど。
恋愛系の話は本来、中高生、そして大学生の話題の鉄板とでもいうべき話題のはずだ。私だって学校でもバイト先でもサークル先でも、とにかく場所を問わずによく話を振られる。生憎と私には人に披露できるような恋愛話がないのが申し訳ないところだけれど、それでもこれが鉄板の話題だということくらいは分かっていた。
ちなみに──恥ずかしながら、私の初恋はまだ訪れていない。齢十七にして初恋もまだ未経験だ。そんな経験値の女子というのは、今時天然記念物並の希少生命体だと、高校時代から周囲には散々ぱら揶揄され続けてきた。
告白したこともなければ告白されたこともない。私と影山の間に恋愛の話題が出なかったのは、私自身恋愛というものにあまり現実味を感じておらず、ひとごとのように捉えているからなのかもしれない。
合コンにつれていかれたりサークルに入ってみたり──生まれ育った宮城を遠く離れて環境が変わったことで、今後そういう感情を誰かに抱くかもしれないという期待もある。一方で影山とつかず離れず、面白おかしく友達でいることの楽しさを思えばそういうものはまだなくてもいいかなとも思う。恋人ができてしまったら影山──異性の友人と今までどおりにお互いの部屋に出入りすることがなくなるのだろうから。
だから今は恋人はいらないし──影山にもそういう人が現れなければいいのになと思う。
まあこれは内緒だけれど。
「恋愛の話なんて面白くも何ともねえだろ」
私の事情とは関係なく、影山が実に影山らしいことを言う。影山イズム全開。
「まあ、そこは主観によるとしか言いようがないから何とも。私はそんなに嫌いじゃないよ。それに同年代と仲良くなると、この手の話題って避けられないことない? 恋愛観って結構、その人の人となりが分かったりするし。家族のこととかよりもパーソナリティの深いところには踏み込まないでいられるし」
「そういうもんか? 別に、んなこと知らなくてもいいだろ」
「そうかなあ。もしかしたら男子はそうなのかな。女子は何人か集まれば自然とそういう話が始まるけど」
もっとも趣味を通じて知り合ったとか、そうとも言い切れない場合も多いけれど。しかし学校や職場で知り合った程度の共通項では、やはり遅かれ早かれそういう話になる気がする。あくまでも経験則だけれど。
影山はやはり私の意見には納得していないようで、むっつりとした顔で言う。
「大体、俺と名字はそんな話しなくても問題なかっただろ。そういうことじゃねえのか」
「お互いそういう話には縁がないからねえ」
尤もらしく頷くと、しかしこれには影山は意外にも、不本意そうな顔をした。なぜ。影山も私と同じで、恋愛経験値が最初の村を出てすらいないようなレベルだということくらいは、悪いけど察しがつくぞ。
「お前よりは俺のが上だろ」
「いや、私は自分のことを恋愛音痴だって自覚してるけど──影山だって大概じゃない。何を根拠にそんなたわごとを」
「告白された回数」
「あっ」
言われて思い出す。そういえばそうだった。影山は全日本ユース選抜選手で、しかも顔が整った──いわゆる『残念なイケメン』というやつだった。如何せん自分のそばにこの顔があることに慣れすぎて、そのことをすっかり失念していた。
途端に影山が誇らしげな顔をする。いや、意地悪な笑みといった方が正しいか。私を見下すようなその顔に悔しくなって、私は鼻を鳴らす。
実際告白したこともされたこともない私よりは、数え切れないほどの愛の告白を受けてきている影山の方がそりゃあ経験値がたまっているのは事実だった。悔しがったところで言い返せない。とりあえず地団駄を踏んでおいた。
「ばたばたすんな、街中で」
「だって悔しいんだもん。影山だって別に付き合ったこととかないでしょ? それなのにモテるってだけで偉そうにされてさ。そもそも顔がよくてモテるのなんて、影山の頑張りじゃないじゃん。影山のお父さんとお母さんの功績じゃん」
「じゃあお前もモテればいいだろ」
「なんでそんな悲しいこと言う?」
モテたいと思ってモテられるものなら誰も苦労しない。いや、別に不特定多数にモテたい、ちやほやされたいというわけじゃないけれど。
しかしモテるモテないは別として──私は他者の感情についてとやかく言えるような人間ではないし仕方がないとして──人を好きになったことがないというのはやはり、年頃の女子としてどうにも落ち着かない。みんなが当たり前に経験していることを自分だけ経験していないわけだから、置いて行かれたような気分になるのも仕方のないことだ。だからこそ、同じような人種であるところの影山とばかりつるんでしまうというのもある。
「今更だけど、影山って女子のこと好きになったことあるの?」
「ない」
「即答だね」
間髪を入れず返ってきた返事に思わず笑ってしまった。
薄々そうだろうなとは思っていたけれど、やはり影山は私の期待を裏切らない。今まで確認したことがなかったけれど、確認するまでもないことだった。そうだ、影山はバレーのことしか考えていないのだから、女子の誰それが好きだなんてことを思う余裕はないはずだった。たしかバレーを始めたのが小学二年のころだったはずだし、小学校の低学年までの初恋を済ませるようなませたタイプとも思えなかった。
しかし、これではっきりしてしまった。ここにいるのは未だ初恋も済ませていない、いわば現代における超希少種の大学生が二名。折角こうやって希少種が揃っているのだから、誰かしらが私たちのことを保護でもしてくれたらいいのに。三食お昼寝つきで。ゆるい感じで。
それかいっそ、私が好きになりそうな人を見繕ってほしい。バレー一筋の影山と違って、私は別に好き好んで恋をしたことがないわけじゃない。いい人がいたら初恋くらいさっさと済ませていたものを。
と。
そんなしょうもないことを考えているうちに、手に持った携帯が目的地に到着したことを告げた。携帯をかばんに戻す。
幸いにして、昼時を過ぎたおかげでパン屋はそう混んでいなかった。時間によっては店の外まで長蛇の列ができると聞いていたからラッキーだ。何せ影山がたかがパンのために列に並ぶとは思えない。行列のできる店というのを伏せていたのは、単純に影山が嫌がりそうだったからだ。
店は、都会の中にありながらも緑に覆われてしっとりとしたたたずまいだった。大きくとられたガラス窓からは店内の様子を窺うことができる。テーブル席にも空きが見えた。
「イートインもあるらしいけど、食べていくよね?」
「だな。まだ昼飯食ってねえし」
「楽しみだなー」
うきうきと心を躍らせながら店の扉を押す。途端、ふわりと香ばしいにおいが私たちを包んだ。
「うーわっ! もうめっちゃいいにおいする! 香ばしい! この香ばしいにおい!」
あたたかな黄金色のにおいに、つかんでいた影山の裾をつんつんと引っ張る。ずらりと並べられたパンはどれも美味しそうで、見ているだけで幸福な気分になった。ふわふわとした気持ちで店内に足を踏み入れる。
「パン屋なんだから、そら香ばしいにおいくらいするだろ」
呆れたように言う影山に、私はすぐに噛みつく。
「香ばしさのグレードが違うって話よ! うちの実家の近くのスーパーに併設されたパン屋がフェルトだとすると、ここのパン屋はシルクみたいな!」
「布で表す必要あんのか……?」
「ともかくパン! 明日の朝ごはんと今食べる用!」
「腹減ったな」
手にしたトングをカチカチと鳴らして笑う。影山はまた呆れたように私を見たけれど、それと同時に影山のお腹が鳴った。
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