episode 9

 はああ、と長くて重い溜息を吐き出し、濃い灰色に濡れたアスファルトを睨みながら早足に学校へ向かう。
 ゴールデンウィークの最終日だというのに、生憎の雨だった。それもばけつをひっくり返したような豪雨である。こんな悪天候の日にわざわざ出かけるなど──それもくたびれたローファーで外出するなど愚の骨頂としか思えないのだけれど、残念ながら私はその愚かしいと分かり切っていることを率先して実践していた。
 土砂降りの中、防水性の低い制服に身を包んで学校へ向かっているのは、ひとえにゴールデンウィーク中に設定された対センター試験用の講習を受けるためだった。

 一か月前、私と影山は無事に高校三年生に進級した。影山の成績は私たちの学年の中ではかなりの底辺を這っており、正直にいえば進級が危ぶまれるほどであったのだけれど──そこはバレー部、いつもどおり部内勉強会を実施してなんとか難を逃れた。影山の進級には私も及ばずながら多少の手助けはしたので、少しくらいは感謝の礼があってもいいと思うのだけれど、例のごとくそんなものはなかった。ジュースを一回おごってもらっただけだった。

 そんな影山の進級事情はさておき──私はというと三年生では進学クラスに籍を置くことになった。
 烏野高校は普通クラスと進学クラスに分かれており、一年生以外は前年度の成績と本人の希望を加味した上でどちらのクラスになるのかが決定する。諸般の事情から三年生で進学クラスになることを私は義務付けられていたのだけれど、めでたくそれをクリアし、今年は晴れて進学クラスの一員である。
 まあ、そのせいで普通クラスの影山とはクラスが離れてしまったのだけれど、そこはそこ、言っても詮無いことである。進学クラス入りを目指すと決めた時点から、普通クラス希望の影山とはクラスが離れてしまうことは分かっていたので、そこは諦めがついている──けして慣れたわけではないけれど。

 そんなことを考えつつ、通学路を歩いていると。
「おい」
「うひぃっ!?」
 傘で視界が狭まっているところに不意に声を掛けられたので、思わず情けない叫び声をあげた。危うく傘も鞄も放り出すところだったけれど、すんでのところでそれは踏みとどまる。
 ばくばくと鳴る心臓を押さえながら声のした方を向くと、そこにいたのはジャージ姿の影山だった。

 いつものようにやたらとどでかいエナメルバッグを肩から提げた影山は、私の叫び声に驚いたのか何故か私と同じくらいびっくりした顔でこちらを見ていた。ジャージと同じ真っ黒の傘をさしているせいですぐ隣に立っていたのにも気が付かなかった。心臓に悪い。
「なんだ、影山か。おはよう」
「おう」
 短く挨拶を交わす。
 方角的に、そして時間的に、影山も今から学校に向かうのだろう。もっとも講習を受けに行く私とは違って影山は部活に行くようだけれど。用件はどうあれ、目的地は同じなので、自然と並んで歩きだした。

「今年は合宿昨日までなんだっけ?」
「合宿所の清掃だってよ」
「そんなの休み前に済ませておいてくれればいいのにねえ」
「その分一日早く合宿始まったけどな」
「そういう風に帳尻を合わせるんだ」
「そういうそっちは」
「私? 私は今から講習ですよ。受験生なもんで」
「大変だな」
「……そんなこと言って、一応影山だって受験生じゃん。スポ推受けるって言ったって一応筆記試験はあるんでしょ? 大丈夫なの?」
「試験はあるけど、そこ推薦受けたひとつ上のユースの知り合いが、『よっぽど馬鹿じゃなきゃ余裕やで』っつってた」
「影山よっぽどの馬鹿じゃん、やばいじゃん」
「よっぽどではねえ」
「それはどうだろう。うん、ちょっと自己評価が高いんじゃない? 多分だけど、そして言いにくいけど、残念ながら影山はその『よっぽど』の方だよ」
「そんなことねえよ。つうか勉強もしてる」
「それもあやしいもんですわ」

 クラスが離れたせいでここのところは影山とも何となく疎遠である。けれどこうして話していると、そのブランクは特に感じられなかった。まあまだクラスが離れて一か月、ブランクなんてほどの期間は空いていないのだけれど。

 傘からはみ出して水浸しになっている影山のエナメルバッグをちらりと見る。一年のころから変わらない、部活に必要なものだけを詰め込んだ影山のかばん。
 影山も受験生である──それはたしかに事実。しかし、そうは言っても影山にとっては受験勉強と同じくらい、いやそれ以上に部活が重要なわけで──ただのしがない受験生である私と同列に語ってはいけないことは分かっている。影山に対してあんな風に嫌味っぽいことを言ってしまうのは、自分の受験勉強に自信がないことのあらわれにほかならなかった。
 知らず知らずのうちに溜息をつく。休み中までこうして足しげく学校に通っているというのに、その結果が影山に絡むだけなのだから笑えない。いや、本当に笑えない。
 影山がどうしたんだよと言わんばかりの視線をこちらに向けるので、先ほどまでの遣り取りを棚に上げ、私は情けなく、
「かげやまぁ……」
 と声を上げた。途端に影山が一歩後ずさる。
「ウワッ、何だ、その顔」
「聞いてくれる? 影山、私の話、聞いてくれる?」
「聞かねえ」
「模試の成績が……全然伸びない……」
「聞かねえっつってんだろ!」
 影山の返事を無視して話し始める私に影山が怒鳴った。割と大きな声だったけれど、こうもざあざあと雨が降っているのでいつもほどは声が通らなかった。それをいいことに私は続ける。
「聞いてよ、影山にしかこんな話できないし、ねっねっ?」
「……」
 影山が黙り、切れ長の目を眇めて私を見る。それを承諾の合図と受け取り、私は話し始めた。

「聞いてくれるね。よしよし、さすがはわが友影山──実は受験勉強が思うように成果を出してないんだよね……ほら、私一年の終わりに部活を引退したじゃない? あれから結構ちゃんと勉強してたと思うし、そのおかげで今年は進学クラスなんだけど──なんかここにきてちょっと頭打ち気味っていうか、平たく言えばスランプというか……」
「……勉強しろよ」
「ウワッ、やだやだ、影山からそんな言葉を聞きたくない! 影山にだけは勉強しろなんて言われたくない!」
「あぁ!?」
 ヒステリックに否定する私を影山が威嚇した。いたいけな女子を威嚇するな。

 もちろん影山の言葉に正当性があることは重々承知している。というか、私レベルの学力の人間が勉強で躓いたとて、それは『もっと勉強する』でしか解決しないことは私だって分かっているのだ。下手の道具調べではないけれど、勉強法を変えるとか、参考書を変えるとか──そんなレベルには私は到底達していない。
 私が今、影山に求めているのは慰めの言葉や励ましの言葉であって、そんな分かり切った正論の言葉をもらいたいわけじゃないのだ。友人として、私がこの後の講習を受けるにあたって高いモチベーションを持つことができるような、そういう気の利いた言葉を期待していたのだ。

 しかしながら、よくよく考えてみるまでもなく、影山にそんな小粋な発言ができるとも思えなかった。影山のコミュニケーション能力の低さは折り紙付きだ。それは最高学年になった今年も変わらない。いや、さすがに一年生のはじめの頃の影山と比較すれば、そのコミュニケーションスキルは格段に向上しているのだろうけれど──それはあくまで情報交換や共有の能力が向上しているというだけである。繊細な悩み相談などにまで対応するほどのアップデートは、残念ながらまだしていなかった。
 そんなわけで、自分から話を聞いてくれと頼んでおきながら、すでに私は影山からありがたいお言葉を賜ろうという気持ちは一切なくしていた。我ながら甚だ失礼なやつである。影山のことを言えない。

 すでにさっきまでの会話に飽きていた私だったけれど、私がもうめちゃくちゃなことを言わないと判断したのか、影山はにやりと笑って──全然面白くないことを言った。
「せっかく親の説得できたのに受験落ちたら元も子もねえな」
「すぐそういう嫌なこと言う」
 影山にしてはなかなか的を射た嫌味だった。眉をしかめて鼻を鳴らすと鼻で笑われる。

 昨年の今頃の悩みの種だった進路についての両親との意見の食い違いは、三年生に進級する際に一応の終結を見た。というのも『三年生で進学クラスに入ることができたら、東京の大学を志望校にしてもいい』という条件を出され、それを見事にクリアしてみせたからだ。もっとも、第一志望の大学以外は宮城県内の大学を受験することなど、ほかにも小さな条件は色々出されているのだけれど──ともかく、一番の難題はクリアできていた。
 そのことを知っている影山は、先ほどの意趣返しとばかりにそこをついてきたのだった。なかなか痛いところをついてくる。さすがに知り合って二年にもなるとお互いに相手の弱点はよく把握しているし、嫌がらせもそれなりに効果的な手法をとってくる。逆もまたしかりだが。

 影山からの精神攻撃に、私は何度目かの溜息をつく。溜息をつくと幸福が逃げるというのが本当ならば、私はとっくに不幸のどん底だ。
「──言われなくても分かってるよ、私の頑張りが足りてないってことは……影山がバレーで推薦もらえるのは影山が並外れて頑張ってるからっていうのも分かるよ……でもなんかちょっと、今は正論で言い返されるとくじけるから」
「……」
「せめて面倒くさいと思うのを顔に出すのをやめるくらいの努力はしてほしい」
 せっかくちょっとセンチな雰囲気を出したのに、影山のうんざりした顔でそれも台無しだった。せめて人の話を聞こうとするポーズくらいは見せてくれ。コミュニケーションの場を成立させる努力はしてくれ。

 と、そんなことを話している間に学校についた。雨天だからなのか、校内はやけに静まり返っている。ゴールデンウィークだろうが部活は活動しているし、こうして三年生向けの講習だってあるのに。

 部室に向かう影山とは校門をくぐったところで別れた。別れ際、影山に声を掛ける。
「影山、今日のお昼一緒に食べようよ。私の講習午前で終わるし、午後は自習しようと思ってお弁当持ってきてるんだ」
「は? いや部活」
「じゃあお昼の休憩のちょこっとでいいから」
 部活といえど、お昼の時間がそう大きくずれることもあるまい。
 影山は暫し何故か疑わし気な目を私に向けていたけれど──しかし最終的には頷いた。
「絶対ちょっとで済ませよ」
「五時間くらい話聞いてほしいんだけど」
「無理に決まってんだろ」
「じゃあ三十分くらいに圧縮するから」
「まあ、そんくらいなら」
 じゃあ昼休憩になったら連絡する、と言い残し部室棟へと去っていく影山の後ろ姿を見送る。影山に話したとおり成績のことで若干メンタルが落ちていたけれど、それも影山のおかげで多少は上向きになった。

 昼休みを楽しみにしながら、私も講習の教室へと足を向けた。

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