episode 10

 朝の雨が降り続いていたので、体育館への渡り廊下の屋根の下で待ち合わせをし、そこでそのままお昼ご飯を食べることにした。本当は校舎の中のどこかの空き教室がよかったのだけれど、無理を言って影山を召喚しているため、私が少しでも体育館に近付いた方が感謝の念を表せるような気がした。
 私より少し遅れてやってきた影山に、今日二度目の挨拶をしてから深緑色のゴムマットの上に腰をおろす。この土砂降りなのに、アスファルトの通路の上に敷かれたマットは意外にも濡れていなかった。
「で、なんだよ、話って」
 早々にそう切り出した影山は、いつものように大きくて武骨なお弁当箱を開く。事前に三十分と制限時間を設けられてはいたものの、本当に三十分しかくれないらしい。二年来の友人が悩んでいるというのに、血も涙もないのだろうか、と考えて、すぐに気づく。いや、影山にとってのバレーの前では二年程度の友情は紙切れと同じようなものということか。

 登校してくる途中のコンビニで買ったスティックパンの袋を音を立てて開く。雨のせいでなんだかパンまで湿気っているような気がしてうんざりした。
「なんだよっていうか、まあ、受験勉強のこととか色々──ね」
 とはいえ実際のところ、朝話した以上に話したい悩みなど特にはなかった。しいて言えば、すでに受験を意識してピリピリし始めている進学クラスの空気に、元々普通クラスだった私が馴染めていないということくらいだろうか。
 しかしそれだって、別に影山に相談するほどの話でもない。少なからず受験を意識しているのは私だって同じだ。そして高校三年の女子は大抵、自分に余裕がなくともクラスで表面上友達と仲良く青春するくらいの世渡りスキルは持っているのである。なんとなく教室全体が息苦しいというだけで、とりたてて不自由はしていない。

 だからわざわざ影山を呼び出して話すことといえば、ただの近況報告とかバレー部の話を聞くとか、変わり映えのしない内容だった。それこそ、これまでの二年間で散々、嫌というほど繰り返してきたような内容の焼き直しだ。
 けれど今の私にとってはその『話し尽くした話』こそが一番、しみじみと嬉しかった。

「そういえば、今年に入ってから影山ファンに突撃されることもなくなったよ」
「まだそんなもんに絡まれてたのか」
「時々ね、それもなくなったけど」
 昨年のはじめ、新入生の女子たちが何度か私を襲撃してきたことを思い出す。襲撃されるたび、私は懇切丁寧に噂を否定し続けていた。しかしそれと同時進行で影山が女子からの告白をばさばさと切り捨てまくっていたので、私の説明はどうにも一年生女子からは信用されていないようだった。

 てっきり今年の春にも同じことが繰り返されるだろうと思っていたのだけれど──予想に反して、今のところ今年の新一年生からの襲撃はない。時折探るような意味深な目で見られることはあるけれど、あくまでもその程度だ。 
「二年越しにやっと、私と影山が付き合ってないってことが周知されたのかな?」
「さあな」
 当事者であるはずの影山は至ってクールに返事をする。影山は告白こそされても、謂れのない襲撃には遭っていないのでその辺りの危機管理意識に乏しい。
「もしくは影山の人気に翳りが? 日向くん身長伸びたしモテるらしいし」
「あいつが? ありえねえ」
 混ぜ返すと、今度はさっきよりも食いつきよく否定された。これは多分、影山人気が下火になったことに対してではなく、単純に日向くんがモテるという事実を認められないのだろう。そうはいっても日向くんがモテるようになったのも事実なので、私はぽん、と影山の肩を叩いた。
「まあまあ、そう僻まないでよ」
「僻んでねえ!」

 ──と、そんな調子でとりとめもなくどうでもいい話をし、六本入りのスティックパンが半分にまで減ったころ。
「なんか、こうやって話すの久し振りだね」
 ざあざあと振り続く陰雨を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「そうか?」
「そうだよ。って言ってもクラス替えしてからまだ一か月しか経ってないけど」
 首を傾げている影山に苦笑する。この微妙な、かつ絶妙な話や感覚のかみ合わなさも久し振りだ。

 クラス替えから一か月。まだたった一か月。私の教室は影山の教室の隣の隣で、廊下や体育館ですれ違えばお互い言葉も交わす。傍目にはそれほど私たちの仲にそれほどの変化はないように見えるのだろう。というか影山だって特に変化は感じていないかもしれない。
 それでも私からしてみれば──やっぱり、あんまり話さなくなったという感覚は強かった。そしてそれは私にとっては結構、いやかなり、寂しいことでもある。

 さっきの私の言葉に対する影山の返事にしても、多分、影山は私なんかいなくたって平気なのだろう。そりゃあ高校一年で友達になるまではバレー以外は抜けてるなりにやってきたのだし、『影山係り』の私がいなくたって大概のことは影山は自分で何とかできてしまう。ここ二年ほどは、たまたま隣に仲がよくてちょっとお節介な女子がいたから使っていたに過ぎないのだと思う。
 だけど私は違うのだ。多分、私は影山が思っているよりずっと、影山の友達というポジションを居心地よく感じてしまっている。高校に入って以降、一番仲がいいとすら思っていた影山が同じクラスにいないことを、寂しく思ってしまっている。

「影山ロス──かな……」
「は?」
 私の頭の悪い発言に、影山は顔を顰めるどころかついには冷ややかな目で私を見た。
「もしくはホームシック……」
「俺はお前の家じゃねえ」
「ホームシックの『ホーム』を『家』と訳すのは誤りでは?」
 受験生らしからぬ頭の悪い会話である。影山の英語苦手は受験生になっても健在であることを思いがけず証明してしまった。
 もしも将来的に影山が世界の舞台でバレーをするようになったとして、ここまで英語が壊滅的で果たして大丈夫なのだろうか。バレーの才にほとんど全振りしているといってもいい影山の能力値を思い、一抹の不安を覚える。まあ、そうなったら苦手な英語すら「バレーのために必要な技能」として、驚異的な集中力を発揮して修得してしまうのかもしれないけれど。あるいは英語が堪能なチームメイトに面倒を見てもらうとか。そちらの方がありそうだ。
 まだ見ぬ将来──受験よりもさらに遥か先の未来に思いを馳せていると、影山がゆっくりと口を開いた。
「いじめられてんのか、お前」
「え? なんで?」
 私が影山の未来に不安をおぼえていた隣で、影山も影山で私の現状に不安を寄せていたらしい。もっともそれは、私の妄想以上に杞憂であったけれど。

 困惑する私に、影山は食後の菓子パンを取り出しながら言う。しかし影山、本当によく食べるな……。
「なんでって、クラスに友達できねえからそんなこと言ってんじゃねえのかよ」
「エッ、うわ、もしかして影山に友達がいるか心配されてるの? 私」
 衝撃だった。これでも友人はそこそこにいる。そりゃあ誰とでも仲がいいというほどではないし、ほかの女子に比べたら交友関係は狭い方なのかもしれないけれど、少なくとも影山に──交友関係の狭さが猫の額ほどしかない影山に心配されるほどではない。
 影山が私のことを心配してくれるというのは純粋にありがたいのだけれど、こと友人関係ということになるとなんだか複雑な気分だった。

 とはいえ、まったく的外れというわけでもないのがつらいところなのだけれど──と、心の中で溜息をつきつつ。
「友達はねー、いるよ」
 と改めて返事をする。そう、友達はいる。
「じゃあいいじゃねえか」
「でも、影山はいないから」
 影山が黙った。私も黙る。

 今年度に入って一か月。新しいクラスにはそりゃあ友達もできた。昨年まで普通科クラスだっただけに、今年のクラスには話したことのないクラスメイトは多いけれど──それでもまあ、孤立するようなこともなく、そこそこに馴染んでいると思う。
 お昼ご飯を食べる相手も、移動教室で一緒に移動する相手も、二人一組を作れと言われたときに声を掛けてくれる相手だっている。友達がいないわけじゃない。
 だけど、影山はいない。

 この二年間の高校生活、私はかなりの時間を影山と過ごしている。週に何度かは一緒にお昼だって食べていたし、私がほかに仲良くしていたのが私を含めての女子三人グループだったため、二人一組を作るような機会があれば特に何を考えるまでもなく私は影山と組んでいた。
 文化祭のグループだって一緒だったし、修学旅行のグループも一緒だった。学校外で遊びにいくのだって、影山とはカラオケもボーリングも買い物も行った。影山の試合の応援にもいった。
 悩みがあったら大抵は影山に一番に相談してきたし、面白いことや楽しいことも共有してきた。まあ、それが多少私から影山への一方通行だった感は否めないものの──それは影山の性格による事情なので致し方なく、とにもかくにも、私と影山はただの友達以上に親密な友人関係を築いていたのだ。

 それゆえに、昨年までは特別意識していなかったというだけで私はすっかり、影山と一緒に行動するのに慣れてしまっていた。『友達と』ではなく『影山と』。もしも去年までと同じように今までずっと仲が良かった女子の友達がクラスにいたとしても、影山がいなかったら、私は恐らく今と同じような気持ちに陥っていただろう。
 交際説をはねのけてまで仲良くしていたのは伊達じゃない。噂を立てられて距離をとるでもなく、付き合っていないと言い続けてまで友達でいたのはそこの居心地の良さを私が知っていたからだ。影山の隣という、コミュニケーションスキルの極端に低い友人の一番の友人というポジションを、私は自分が思っていたよりずっと気に入っていた。それを今年のクラス替えで思い知らされた。
 間違いなく、私は今、『影山ロス』だ。

「なんか、こうやって疎遠になっていくのかな、私たち。だって今はクラスひとつ挟んだ距離だけど、それなのになんか──なんか、寂しいし。これで別々の大学に入ったら、私たち友達でいられなくなっちゃうんじゃないかな」
 なんだかもの悲しい気持になってしまい、思わずぽつりと漏らした。

 影山のことに限らず、色んなことがきっと、こうやって過ぎ去っていってしまうのだろう。もしかしたら今こうして寂しいと思っている気持ちだっていずれは風化していくのかもしれない。思い返せば小学校や中学校を卒業するとき、私はそこまで悲しい気持ちにならないこどもだった。
 校内のほとんどが同じ中学に進学する小学校の卒業時はともかく、中学のときだって別段悲しくはなかったのだ。こういうものなんだな、と思っていた。いつまでも中学生でいることはできないし、そんな人はどこにもいない。みんな高校生になる。だから私も、楽しく充実した高校生活を送りたいと──これといって執着も未練もなく、あっさり高校生になった。シフトした。

 けれど今は、小中学生だったころの自分のように『そういうものだ』と思えないのだった。それは大学入試がこれまでのように生温い試験ではないからかもしれないし、高校生活が小中学生の頃に比べて楽しかったからかもしれない。それは分からないけれど──とにかく、今私は猛烈に寂しかった。きっかけは影山だけれど、それだけではなく。正確には影山を中心とした高校生活がゆるやかに、しかし確実に終わろうとしていることが寂しかった。

 天気とシンクロするように、どんどんと気分が沈んでゆく。ネガティブなことを考え始めるととことんネガティブになっていくのは私の悪い癖だ。
 そんな『影山ロス』に陥った私の頭を、影山が軽く叩いた。
「なに呑気なこと考えてんだよ」
「の、呑気……!? このシリアスな空気を呑気!? どういう感受性してんの!?」
 思わず叫ぶ。今この流れで『呑気』なんて言葉が出てくることが信じられなかった。他人の機微に鈍感なところがある影山といえど、さすがに私が感傷に浸っていることくらいは察することができると思ったのに。というか分かりやすくへこんでるのに。

 信じられないという思いを込めて影山を見つめる。影山は呆れたような顔で言った。
「まだ卒業まで半年以上あんのに、すでにそんなこと考えてどうなるんだよ。そもそもお前、受験受かるかも分かんねえのに」
「ひっどい、自分が推薦で楽々コースだからってそんな、そんな下々の民を嘲るような真似がよくもまあできたもんだね」
「つーかお前、大学行ったら友達やめるつもりなのかよ」
「え」
「東京の大学行くんだろ。俺も東京なんだし、そしたら今と変わんねえだろ」
 その言葉に、「まじか」と呟く。
 
 影山の受験大学が東京の大学であることは割と早い段階で聞いていたのでもちろん知っている。その話を聞いた時には話して方向音痴の影山が東京砂漠で自活なんてできるものかと笑ったりもした。しかし私の進学先が東京で影山の進学先も東京で──けれど同じ大学に進学するわけでもないのだし、なんとなく、疎遠になるのだろうなと思っていた。
 影山は見ての通りのこの性格だ。近くにいなくなった私のことなどものの数秒で忘れるに違いない。もしかしたら大学に進学して最初のうちは何度か遊んだりもするかもしれないけれど──それだって、夏を迎えるころにはほとんどなくなるのだろう。だって影山はバレーで忙しいのだし。

 というようなことを、密かに私は思っていたわけで。だからこそ、感傷に浸ってセンチな雰囲気を醸してしまったり、むしょうに泣きたくなったりしていたわけで。
 影山からの言葉は、正直予想外だったし──単純に、嬉しかった。
 ぽかんとしてる私に、影山はなおも呆れ顔で言う。
「うちの母さんなんて『名字さんも東京の大学だったら心配ない』とまで言ってんだぞ。お前頑張れよ」
「影山のお母さん……!」
 息子と違ってなんて感じのいいお母さんなんだ。今度こそ私は盛大に感動する。
 影山のお母さんとは何とか会ったことがある。影山のバレーの試合を応援に行ったときに会場で鉢合わせたり、三者懇談でちょうど私と影山が前後だったり。あとはたまたま雨の日に傘を忘れた影山を来るまで迎えに来ていた影山のお母さんが、ついでに私のことも車で送ってくれたり。
 中学時代から部活以外のことをそう熱心にやってこなかった影山には、家に連れて行って遊ぶような友人は少なかったらしい。女子の友達など言うまでもない。影山のお母さんは、だから私のことを随分と気に入ってくれて、顔を合わせるたびになんだかんだと話しかけてくれるのだった。

 しかしまさか、影山家の家庭内での会話でまで私の進路の話が出ているとは思わず、それには素直に驚いた。驚くと同時に、ありがたくもある。そして不甲斐なくもある。
 影山は私と、大学に進学してもこのまま友達でいてくれるつもりだったのに、私ときたら勝手にしょんぼり落ち込んで、情けないったらない。どうしてもっと前向きに、粘り強く頑張ろうと思えないんだ。何が何でも頑張ってやろうと思えないんだ。それでもお前は二年間影山を見てきた人間なのか。

 なんだかむくむくと元気が湧いてきた。先ほどまでの落ち込んだテンションはどこへやら、今はもう、受験勉強へのモチベーションが今までの最高潮を迎えている。あの影山にここまで言わせておきながら弱気になるなんて、そんなのは私らしくはない。
 そんな気合十分な私を見て、影山が意地悪くにやりと笑った。
「ま、お前が試験落ちてこっちの大学通うことになったらそういうわけにもいかねえかもしんねえけど」
「そんなことにならないように頑張るし! ていうか影山東京で友達できなさそうだし!」
「うるせえよ」
 言いながら影山が立ち上がる。つられて私も立ち上がった。昼食のために買ったパンはすべてたいらげ、雨はいつのまにか上がっていた。
「ありがと、なんか気合入った」
「そうかよ」
「やっぱ持つべきものは影山だね」
「意味わかんねえ。話し終わったなら戻るぞ」
「ああ、うん。はい」
 体育館に向かう影山の背中は、なんだか去年までよりしっかりして見えた。

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