リカバリーガールのもとでのアルバイトは自由度が高い。シフトについてもそうだが、時間がないときには短時間で片づけられるだけの仕事を片づけて終了、その分だけの自給をもらえることになっている。反対に比較的スケジュールに余裕がある時期は、しっかりシフトを入れてもらっている。
本来であれば私のような助手などいなくても、リカバリーガールの仕事には何の支障もない。だから言ってみれば、私のバイトは完全にリカバリーガールの厚意のうえに成り立っているものなのだ。私の自給は雄英高校の経理から出ているとはいえ、そもそもこんな自由なシステムはリカバリーガールが長年かけて積み上げた信頼と実績があるからこそだった。
「それでは、次は来週の水曜に来ます」
「実習の方は大丈夫なのかい?」
「その日は午後から学内なので」
次回の約束を確認してから、私は医務室を辞する。廊下を早歩きで抜け、すでに薄紫色に染まった屋外へと急いだ。
厳重なセキュリティで守られた正門を抜けると、すでに門の前には見慣れない高級車が一台とまっていた。それが爆豪くんの車であることは事前に聞いていたので、私は早足で車の左側の助手席へと駆け寄る。高級車は高級車でも国産のものに乗っているあたり、何となくセンスが爆豪くんっぽい。
私が助手席に乗り込むと、爆豪くんは挨拶もそこそこに「遅ェ」と一言文句を言った。爆豪くんから連絡をもらって急いで出てきたのだが、それでも雄英の敷地はやたらに広い。待たせてしまったのは事実なので、そこは素直に謝った。
謝りながらシートベルトを締め、シートの位置を前方にずらす。爆豪くんがアクセルを踏み込み、車は静かに発進した。
夕方の退勤ラッシュのためか、大通りは軽く渋滞していた。今更爆豪くんを相手に間が持たないということもないのだが、それでもやはり落ち着かない気分になる。
「お店決めてる?」
窓の外をゆっくりと流れていく景色を見ながら尋ねた。大して緊急性も重要性もない質問には、車内という密室で爆豪くんとどのような距離感をとるかを決める意味合いくらいしか含まれていない。
人の運転する車に乗るのは久しぶりのことだったし、同年代の運転する車に乗るのははじめてのことだった。その荒々しい仕草や口調と反して、爆豪くんの運転は非の打ちどころもないほどに安全そのものだ。
「てめえと飯食うだけでなんで段どりしなきゃいけねんだよ」
爆豪くんの返事はそっけない。とはいえそれも予想の範疇だったので、取り立ててがっかりすることもなかった。何も言わずに車を発進させたので、もしかしたら行先が決まっているのかもしれないと思っただけのことだ。
「そうだよね。じゃあどこにしようか……。やっぱりヒーロー的には個室ありのお店のがいい?」
「別にどっちでもいい。どうせまだそこまで顔売れてねえし、普段マスクつけてる」
「あ、そっか」
そういえば爆豪くんのヒーロースーツは学生時代から目元をしっかり覆っている。プロともなれば多かれ少なかれ顔を隠している場合の方が多いのだろうから、まだサイドキックであることと合わせても、私が思うほどには爆豪くんの素性が知られているわけではないのかもしれない。
もちろん雄英時代には散々体育祭などで素顔が公開されているのだが、私たちが雄英高校を卒業してからすでに一年以上が経過している。卒業してサイドキックをしているかつての雄英生よりも、現在素顔で公共の電波に乗っている在校生の方が顔が知られているというのは、不思議な話ではあるものの十分にあり得る話なのだった。
ともあれ、爆豪くんの言葉によればどうやらそこまで周囲の目に過敏になる必要はないらしい。人目がないに越したことはないが、だからといってプライバシーを重視した高い店に行く必要はないということだろう。
「じゃあ折角雄英の近くにいるし、高校のときにたまに行ってた定食屋とかでいいんじゃない? あそこ夜はすいてるよ」
私の提案に、爆豪くんは「ん」と低く短く応える。それが承諾の意であることを示すように、車はその高級な外装に似合わない路地へとゆるく侵入していった。
入った定食屋は高校生時代に通った記憶と寸分たがわぬ佇まいで営業していた。店内には常連客と思しき男性客がひとり、据え付けのテレビを見ながら生姜焼きをかき込んでいる。案内もされないので適当に壁際のテーブルにつくと、すぐに水がなみなみ入ったピッチャーとおしぼりを供された。
「カキフライ定食」
「ヒレカツ定食サラダと白米大盛り」
メニューも見ずに注文を済ませると、ようやく一息ついた。爆豪くんも私も、注文するものは高校時代から変わっていない。そのことが何となく嬉しかった。
「それにしても本当に久しぶり」
プラスチックのコップの水で口を潤し、切り出す。久しぶりだからといって爆豪くん相手に緊張することもないけれど、雄英を卒業してからというもの、こうして誰かとプライベートでふたりで食事をすることすら久しぶりだった。複数人でならばたまには声を掛けられることもあるものの、一対一で楽しく食事をするような相手は今の私にはいない。直近だとバイト終わりにリカバリーガールと食事に行ったのがせいぜいだった。
「元気にしてた?」
「普通」
「普通ってことは元気ってことだね」
「普通は普通だろ」
「じゃあ元気じゃないの?」
「普通だっつってんだよ! 普通に元気だわ!」
「元気なんじゃん」
爆豪くん節全開の会話も、爆豪くんにとっては腹立たしいだけかもしれないが私には久しぶりすぎて楽しさしか感じられない。
周囲から見れば私が一方的に怒鳴られているだけでも実際には私の方が面白がって爆豪くんに話しかけているということは、実は高校時代にもわりとよくあったことだった。自分で言うのもなんだけれど、私は結構気が長く、ついでにいえば直接的な暴言の類もあまり気にならない。なので爆豪くんのようなタイプと話すのが苦にならないのだ。
爆豪くんもそのことは分かっているようで、だから散々怒鳴られてもにこにこしている私を眺め、ふんと面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「てめえは相変わらずうぜえ顔してんな」
「そう?」
「鏡見てみろ」
「うーん、生まれつきだから自分ではあんまりよく分かんないなぁ」
爆豪くんの暴言は適当に聞き流し、ふと視線を据え付けのテレビへと向けた。テレビの中ではここ数年で一気に知名度を上げた某ヒーローが、火災現場からこどもを救出するシーンが繰り返し放送されている。
数度の大きな事件を経て、現在は私たちが高校生の頃に比べればいくらか凶悪犯罪も減ったらしいけれど、それでもやはりヒーローの仕事がなくなることはない。人災や天災がなくなることもなく、極悪人がこの世から絶えることもまたない。
女性の店員が定食の盆を運んできた。私の目のまえのカキフライ定食よりも遥かに量が多そうな爆豪くんの前に置かれた大盛のヒレカツ定食に、思わず食べてもいないのに胃が「うっ」と呻く。
ヒレカツ定食に箸を伸ばしながら、やはり私と同じくテレビにちらちらと視線を遣っている爆豪くんに、「やっぱ同業者の仕事ぶりは気になるもの?」と尋ねた。
「他人の仕事になんざ興味ねえよ」
「ふうん」
「けど情報は集めておかねえと、何かんときに判断が鈍る」
それもそうだろうと思った。近隣の地区で活動しているヒーローとは現場がかぶることだって少なくない。ヒーローは個人プレーでの仕事も多いものの、大規模な現場や各々の個性・特性によっては即席のチームアップも必要になる。そういうとき、自他の能力を少しでも広く知っておくことはプロとして必要な下準備だ。
在学中からその粗野粗暴な振る舞いとは対照的に、爆豪くんはめっぽう頭のきれる怜悧な生徒だった。だからそうした事前の準備も常に万全を怠らない。ただ、やはり在学中と比べると、テレビ画面に向ける視線にはいっそう鋭さが増していた。同じヒーローとしての資格を持っていても、未だ学生の身分の私と、一足先にプロの世界でもまれている爆豪くんとでは、自然と目に宿るものの切れ味に違いも出る。
その切れるような鋭さに、改めて爆豪くんがプロの世界の人間なのだと認識する。
「爆豪くんに限らずだけどさ、たまに自分の友達がテレビに映ってるのとか見ると、うわーすごーい、本当にヒーローだーって気持ちになるよね。すごい素人くさい話だけど、自分が知ってるのとは別人に見えるっていうか」
「てめえだって免許持ってんだろ」
「持ってるけど、使ってないし」
そもそも現場で働いていなければヒーローの資格・権利を行使することもない。日常生活においてあくまでも個人の責任の範疇かつ非営利目的であれば、個性を使用することは公然と認可されている。普通に生きているだけならばヒーローの資格など必要としない。
だから逆に言えば、ヒーローとしての資格がなくても大抵のことはできるのだ。
ヒーローでもない人間がヒーローの資格を持っていたところで、それは周囲から遠巻きにされる理由になるくらいで、これといった恩恵を受けるわけではない。そのことを、私は今ひしひしと実感している。
しかし折角の爆豪くんとの食事である。鬱々とした方に思考と気持ちが流されそうになるのに気付き、私は慌てて話題を変えることにした。
「ていうか、爆豪くんがまさかこんな近くで働いてるって思わなかったよ。なんかもっと治安悪そうなところにいるのかと思ってた」
こんな近く、というのは私の実習先の病院から見て「こんな近く」ということだ。あのあたりは駅の北側には教育施設、南側には閑静な住宅が広がっている。爆豪くんの勤め先の事務所は病院の隣駅といっていたが、そこも治安の程度は病院周辺と大差ない。私が住んでいるのも同じエリアだ。
「てめえ俺のこと何だと思っとんだ」
「だってあの辺、そこまで治安悪くないでしょ。だからあんまり凶悪犯罪とかないかなって思って」
まだ高校に在学していたころ、爆豪くんが今の事務所の内定をもらったときに、爆豪くんの就職先がどんな事務所であるのかネットで調べたことがある。爆豪くんの事務所は依頼に応じて幅広く仕事を受けるが、その中でも特に対敵任務を得意としている。というより爆豪くんがそういう事務所を就職先に選んだというべきだろう。
警察の中でも刑事課強行犯係と連携するような仕事が多い事務所は、仕事柄あまり治安が良くない場所かその周辺に事務所を構えていることが多い。そうなればいつ呼び出しがかかるか分からない所属ヒーローもまた、その周辺に居を構えることが多い。
「去年までは都内のもっとクソみてえなとこに事務所があったけど、今年になって移転した」
舌打ちをして爆豪くんが言った。
「え、移転? なんで?」
「チンピラ相手にすんのは三下ヒーローどもの仕事だろ。でけえのは案外ああいう静かなとこで動いてたりすんだよ」
「ええー、そういう怖いこと言わないでよ。治安のよさを重視してあの辺に部屋借りてるのに。何のために高い家賃を払ってるんだか……」
思わずこぼれたぼやきは、しかし間違いなく本心から出たぼやきだった。
治安がいいというのは取りも直さず土地代が高いということでもある。今の家の家賃は、正直私が払えるぎりぎりの金額だ。治安の良さ、交通の便、そして女子の独り暮らしのために備えるべき最低限のセキュリティを満たそうと思うと、あっという間にそれなりの金額に膨れてしまう。
それでも背に腹は代えられない。ヒーローの資格を持っているとはいえ、その資格・権利を使うことなく生活している私は現在ただの無力な女子大生に過ぎない。そもそも私の個性は戦闘向きではないのだ。あらゆる犯罪の被害者にならないためにも、できる限り万全の対策はすべきである。
しかし爆豪くんの返事は、私の戦闘力のことや地域の犯罪発生率などとはまったく無縁なものだった。
「てめえ、家あの辺なのかよ」
思わぬ言葉を投げかけられ、私はわずかに首を傾げて返事をした。
「ああ、うん。そうだよ。病院のふた駅となりの──」
答え終えるより先に、爆豪くんが「チッ」とこれみよがしな舌打ちをする。
「え、何ですか」
「てめえごときが俺と同じエリアに住んでんじゃねえ」
「同じ──あ、爆豪くんもあの辺に住んでるんだ。そうなんだ、奇遇だね。やっぱ職場に近いところに住もうと思ったの? たしかに富裕層多いし、爆豪くんなら住んでてもおかしくなさそうだけども」
事務所が移転したのが最近のことというから、それに合わせて引っ越しをしてきたのだろうか。あるいは元々この辺りにマンションを借りていて、わざわざ事務所まで通っていたのだろうか。いずれにせよ、私には家賃を払うのでいっぱいいっぱいな立地でも、爆豪くんならば平然と家賃を払えてしまうということだ。
高級な車に乗り、多分だけれど立派なマンションに住んでいる。社会人二年目とは思えないような暮らしぶりは、苦学生極まる私とは雲泥の差だ。
「爆豪くんはすごいね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「まだ社会人二年目なのにかっこいい車乗って、いいところに住んで。なんか、着々と将来のセルフイメージ達成してるって感じだ」
「てめえだって自分で決めたルート乗ってんだろ」
「それはそうなんだけど。なりたい自分にちゃんと近づいてる爆豪くんはすごいなって思うし──」
そこで私は口をつぐむ。
すごいなって思うし──思うし、それに。
「──それに、やっぱ人と違う道を行こうって思うと、簡単じゃなくて頑張り甲斐があるね! って思って!」
喉元まで上ってきていた言葉はどうにかぐっと飲み込んで、代わりに前向きな、自分を鼓舞するような言葉を無理やり口にする。顔にはお茶子ちゃんを見習った、精いっぱいできる限りの笑顔。笑っているやつが一番強いと、そんなことを教えてくれたのは果たして誰だっただろうか。
今発した言葉はけして本心とばかり言い切れないような、私らしくもない前向きな言葉だ。前向きで健気で、それでもって多分、どこか現実逃避のにおいを帯びた言葉だった。目のまえにある暗い感情を見て見ぬふりして、明るい未来が約束されているように信じ込む、そんな子供の言葉。
けれど今ここで本心を口にしたところで何がどうなるというのだろう。爆豪くんが掴み取った場所は爆豪くんの努力によるもので、爆豪くんが得た現在は爆豪くんだけのものだ。私が妬み羨んだところでそれが私のものになるはずもない。爆豪くんの持っているものがほしいわけでもない。こんな感情に爆豪くんを巻き込むのは、それこそ口にするのも恥ずかしいような醜態だろう。
それに何より、頑張っている爆豪くんを前にして、私はこれ以上の醜態をさらしたくはなかった。
高校在学中にも情けなく怪我して、不甲斐無く泣いて、補習を言い渡されみじめな顔をしているような、そんな顔ならばこれまでどれだけだって爆豪くんには見られている。けれど、今こうして弱弱しく挫けそうな、それでいて求める心ばかり肥大した自分を見透かされるのだけは、何が何でも絶対に嫌だった。
同じ場所で努力してきたことがある、互いの成長を知っている友人だからこそ、そんな姿を見られるのは絶対に御免だ。私にだってちっぽけながらプライドというものがある。
ここのところはたしかに、自己肯定感が地を這うような有様だったけれど。それでも、だ。