爆豪くんと院内で再会したのが水曜日。その翌日、実習を終えて割り当てられた更衣室で着替えをしていると、ふいにとんとんと肩を叩かれた。実習着を半分脱いだ状態で視線を遣れば、一緒に実習に臨んでいるクラスメイトが心なしか好奇心をのぞかせた瞳でこちらを見ていた。
「どうかしました?」
 なにか実習中に愚痴りたくなるようなことでも起きたのだろうか。そんな思いで首を傾げると、彼女はやけに親し気な笑顔を浮かべて私の名前を呼んだ。
「苗字さん、なんかいいことあった?」
「え?」
「先週くらいからずっと顔が死んでたけど、今週はちょっと顔に生気が戻っているから」
 思いがけず踏み行った話をされ、思わず返答につまった。すかさず「苗字さん、分かりやすいね」と彼女は笑った。
 ここでは私を下の名前で気さくに呼んでくれる人もいない。高校卒業と同時にこの学校の二年に編入してきた私は、本来であれば私は同学年のひとたちよりも年下だ。それでもヒーロー特待というだけで、私は何となく遠巻きにされ、微妙に距離を置かれてしまっている。最初のうちこそ頑張って馴染もうとも思ったけれど、今ではそれも諦めた。どのみち二年の学生生活だ。別に無理して仲良くなる必要もないだろう。問題なく単位を取得して資格を取れればそれでいい。
 今話しかけてきた彼女もまた、たまたま名簿の順が近かったというだけで一緒に実習をすることになっただけにすぎない。当然ながら、普段から親しくしているわけではない。同じ実習生同士いくらか言葉を交わすことはあっても、実習の時間外に食事に誘い合うような仲ではなく、こうして着替えの最中に彼女の方から話しかけてくることの方が珍しいことだった。
 それはなにも彼女に限った話ではなく、専門学校のクラスメイトのほとんどが私に対してはそういう距離のとり方をしている。連絡事項を私だけ教えてもらえないようなことはないのでこれといって不自由はないものの、雄英時代の和気藹々と共同生活を営んでいた友人たちとの距離感を思えば、やはりよそよそしさに寂しさを感じないわけではない。
 とはいえ、今ここで彼女相手に雄英時代の友達関係の再現をするつもりはない。
「ちょっと久しぶりの友達とごはんに行くことになって、それでですかね」
 当たり障りのない程度に返事をすると、そっか、と少しだけトーンダウンした返事が返ってきた。その声に、もしかしたら恋愛がらみの話を期待されていたのかもしれない、と一拍遅れて気が付くものの、どのみちそんなものはまったくありはしなかった。日々生きて学ぶだけでいっぱいいっぱいの今の私に、恋愛のような高等遊戯をしている余裕などありはしない。
 ふたりきりの更衣室に、束の間沈黙が戻ってくる。これ幸いとそそくさと着替えをしていると、再び「友達って雄英の?」と質問が飛んできた。
「そうです、高校の」
「すごいなあ、苗字さんと同じ学年の雄英ヒーロー科って、何かと話題性がある人たちが多かったもんね」
 感心するように投げかけられた言葉に、咄嗟に「はあ」と曖昧な返事をすることしかできなかった。
 雄英高校ヒーロー科は、それこそ世間的にかなり注目される特殊な教育環境だ。毎年全国中継される体育祭をはじめ、とにかくメディアの露出は多い。
 しかしメディア露出があるということは当然人気や知名度にも差があるということ。いずれプロヒーローになれば避けようのない厳しい現実に、私たちは高校一年のころから絶えず晒され続けてきた。
 私の知名度は、きっとA組の中でもダントツに低い。だから私のことは大して知らず、また知ろうと思うことはなくても、彼女たちはきっと私の友達たちのことなら知っているのだ。当たり前のように受け容れていたはずのことでも、ふいにその事実を突き付けられれば、何となく心がすかすかと心許なく感じられた。
 そんな心に気付かぬふりをして、私はようやく追いついた感情でへらりと笑う。
「まあ、でもそうですね。一年の頃から何かと騒動とかに巻き込まれることも多かったですし。そういう学年だったというか」
「そっか、あの代か。あれだ、拉致された男子がいる学年」
「はは……」
 その拉致された男子とごはんに行くんですよ、などとはさすがに言えるはずもない。言えば何かと詮索されるに決まっている。
「ってことは、一緒にごはん行くって子もプロヒーロー?」
「そうですね。まだサイドキックですけど」
「いやあ、すごいねえ。何がすごいって苗字さんの人脈がすごい。私の友達にもヒーロー科卒はいるけど、プロヒーローなんていないもん。さすがヒーロー科の中のヒーロー科、雄英卒のエリートだね」
 自分の顔に貼り付けた笑顔が、ぱりぱりと乾いていくような気がした。
 世間の多数から悪意なく放たれる言葉は、時として意図なく私を傷つけようとする。雄英ヒーロー科卒は、プロヒーローは、彼女たちと同じ世界、同じ人種の人間ではないとでも思われているのだろうか。
 雄英ヒーロー科卒だから、私は彼女たちとは一緒になれない。けれど雄英時代の友人たちのように「すごい」ヒーローじゃないから、私は結局「すごい」人たちと同じでもない。それなら私は何なんだろうと、そんなことをまったく考えないわけではない。
 それでも落ち込むほどではなかった。
 こんなことで傷ついていられるほど、私の心は脆くも柔らかくもない。そんな柔な心ならば、雄英時代にとっくに捨て去ってしまっている。
「そうですね、母校の名前に泥を塗らないよう、私も実習頑張ります」
 貼り付けたままの笑顔でそう言って乗り切れば、クラスメイトの彼女はけらけらと「苗字さんって本当まじめだね」と笑った。

 明けて金曜日。その週の実習をつつがなく終え、帰り際に提出物もあらかた提出し、ようやく夕方を迎えた。爆豪くんは夜からしか身体が空かないというので、実習を終えてから約束の時間までのあいだ、短時間ではあるけれど私はリカバリーガールのところに顔を出すことにした。
 入学前から分かっていたことではあるものの、実習中はとにかく実習のことだけで生活がいっぱいいっぱいになってしまう。実習の期間中はどうしてもバイトの頻度も減らさなければ課題が追い付かず、実習と課題の合間に無理やりに暇をつくってはバイトをねじ込む方法でどうにか生計を立てていた。親からの仕送りも一応はあるものの、そちらにはできるだけ手をつけないようにしている。
 リカバリーガールのもとでの助手のバイトは、そういう意味ではかなり融通が利く。在学中から卒業した現在でも、私はリカバリーガールにはまったく頭が上がらない。
 春といえば新入生。そろそろ今年の一年生たちが戦闘訓練で最初の怪我をする頃だった。
 私たちの学年──というより私たちのクラス、もっといえば緑谷くんと爆豪くんほどではなくとも、この時期の一年生はのびのび個性が使える環境と、最初の頃に周囲にインパクトを与えたいという虚栄心から、とかく怪我が多い。例年この時期のリカバリーガールは小言も仕事の量も増える。
 そんな覚悟をしつつ保健室に入ると、思った通り、リカバリーガールはカーテンで仕切られたベッドサイドで治療の真っ最中だった。聞こえてくる「チュー」という声を聞きながら、保健室のすみのロッカーから白衣を取り出し羽織る。この白衣は「そうしていないと学生に間違われるから」と卒業時にリカバリーガールが贈ってくれたものだった。
 私がバイトで来る日には、たいてい私にまかせるための仕事として、薬剤の補充やもろもろ整理しなければならない書類などが私の机に山積みにされている。それらを席について片づけていると、ほどなくして治療を終えたリカバリーガールが戻ってきた。ベッドの上の生徒は疲れで眠ってしまったらしく、すでにぐうぐうと寝息ともいびきともつかない音が聞こえている。
「お疲れ様です、リカバリーガール」
 椅子から立ち上がり声を掛けると、リカバリーガールがこちらに視線を寄越し、それから少しだけ驚いたように「おや」と呟いた。
「珍しいね。あんたがまともな恰好してるよ」
 揶揄するように言われ、なんだか恥ずかしくなる。いつもの私の恰好はといえばシャツにジーンズ、もっと悪いときにはほとんどジャージみたいな恰好をしている。ここに来てしまえば高校生ばかりなのでそんな適当な恰好でも浮かないし、上から白衣を羽織れば下に何を着ていようが大して関係ない。
 しかし今日は薄手のセーターにタイトスカート。靴だって少しヒールがあるものを履いている。目ざといリカバリーガールでなくても、いつもと雰囲気が違うことくらいは分かりそうなものだった。
「私だってこれでも妙齢の女子ですから、いつもくたびれた恰好ばっかりしてるわけじゃないんですけど……」
「恰好もそうだけど、顔も髪もだよ。特にこのところは身なりに全然かまっていなかったじゃないかい」
「え、ばっちかったですか!?」
「清潔感と着飾ることは別さね」
 清潔感はちゃんとあるよ、と言われ、心底ほっとした。無免許とはいえ医療者のたまご。清潔感がなくては何事も始まらない。
 リカバリーガールが自分の机についたので、私も合わせて椅子に腰をおろした。リカバリーガールに代わって書類に捺印していきながら、
「実はこの間、実習先の病院で爆豪くんと会いまして」
 と口を開く。
「爆豪って、あの爆豪勝己かい」
「そうです。あの爆豪勝己。なんでも爆豪くんの事務所が私の実習先と近かったみたいで、偶然たまたまばったり」
「へえ、それはまた珍しいこともあるもんだねえ。大体あの子が病院に来ること事態珍しいだろうに」
「それは上司に口うるさく言われたみたいです」
「だろうね」
 リカバリーガールが呆れたように、そしてどこか懐かし気に目を細めて笑った。在学中の爆豪くんはそれなりの頻度で保健室のお世話になっていたのだが、治療が済めば注意もそこそこに聞き流してさっさと保健室を出て行ってしまうのが常だった。保健室を訪ねてくるにしても、余程のことがなければ自主的にはやってこない。
 リカバリーガールの教え子として、自主練や授業のない時間はほとんど保健室に常駐していた私もまた、そういう爆豪くんをよく知っている。だからリカバリーガールの今の表情には、さもありなんと思わざるをえない。
「はあ、それじゃあ今日は爆豪と?」
「そうなんです。さすがに実習終わりのよれよれで爆豪くんに会いに行くわけにもいかないので、今日はちゃんとした恰好してきました」
「だったらこんなところで油売ってる場合じゃないよ」
 今にも私を追い出さん勢いのリカバリーガールに、私は「大丈夫ですよ」と慌てて答えた。私があまりにも余暇で遊ぶということをしないのを、リカバリーガールは内心苦々しく思っているのだ。
「待ち合わせまではまだ時間ありますから。それに爆豪くんの仕事が長引くかもしれないって連絡があったから、仕事が終わり次第雄英まで迎えに来てくれる手はずになってます」
「あんた今をときめく若手ヒーローを足に使ってんのかい」
「いやー、さすが名だたる一流事務所からご指名引っ張りだこだった人は経済力が違いますよね……私なんてこんな苦学生なのに、爆豪くん絶対いい車乗り回してるんだろうな……」
 もちろんそんなものはただの予想でしかないけれど、何となく、この予想は当たっているような気がしていた。大体あの爆豪くんに限って、周囲が思っているよりランクが低い車や衣装を身に着けているとも思えない。
 片や充実した日々とそれに見合った収入を得ている新進気鋭の若手ヒーロー、片や名門高校を卒業しても日々這いつくばるようにして実習に励む苦学生。望んで選んだ進路とはいえ、かつての級友とここまで格差が開いてしまった事実はやはりそれなりにショックでもある。
 いや、格差にショックというよりも、自分の甲斐性のなさ──無力な人間であるという事実こそがショックなのだ。力を持っている人間への羨望は、うっかりするとそのまま無力な自分への失望に変換されかねない。
 そんな私の内心を察してか、リカバリーガールが「何をくよくよしてんだい」と檄を飛ばした。
「落ち込んでる時間なんかないさね。学校卒業までのあと一年、どれだけのものを学べてどれだけのものを吸収できるかはあんたの頑張り次第。落ち込むくらいなら、あんたもきりきり頑張りな。そんでさっさと一端になって、車だって何だって好きなもんを買えばいい」
 さすがにすでにその道の権威となっている人の言葉は重みが違う。目指すべき高みからのありがたいお言葉に、私はひれ伏すような気分で返事をした。
「そうですね、まずは免許取るところからだけど」

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