喫茶店の外ではしんしんと雪が降っている。上空からちらちらと舞い降りてくる雪のかけらをぼんやり見るともなく眺めていると、先ほど私も鳴らした喫茶店のドアベルがちりんと鳴る音がした。その音に視線を出入口に転じれば、爆豪くんが肩の雪を払って入ってくるところだった。
「爆豪くん、こっち」
手を挙げて声を掛けると爆豪くんがこちらに気が付いてやってくる。羽織ったコートの襟元から、今日の空の色と同じ雄英の制服のグレーがのぞいていた。
「どうだった?」
爆豪くんが椅子に腰かけるのも待たず、忙しなく私は尋ねる。爆豪くんは常のようにはんと鼻を鳴らした。
「余裕」
「はー、よかったねえ」
思わずほっと息を吐き出すと、爆豪くんは「俺が落ちるわけがねえ」と平然と言った。
昨日はヒーロー国家資格の結果発表の日だった。誰ひとり欠けることなく卒業まで漕ぎつけることができた私たちA組は、先月の末に全員そろって試験を受けているのだ。例年、雄英高校からの卒業生といっても全員が全員受かるわけではないこの試験、落ちれば当然ながら就職が一年先延ばしになる。
私たちの代は一年次に仮免許を取得しているので、落第したからといって卒業できないわけではない。しかしながら本免許を持っていないとなると、卒業後できることにも制限がつく。試験に落第したものはもれなくサイドキックよりも一段下のインターン同様の見習い的ポジションで一年を過ごし、翌年の試験に備えることになる。
実際には無免許だからといってもそこまでサイドキック一年目と裁量の差はない。しかし当然ながら給料は各段に減るし、何より雇用主にあたる事務所の責任者ヒーローから一年間「次に落ちたら面倒見切れないぞ」という厳しい目で見られ続けることになる。そんな事態になることだけは是が非でも避けたいところだった。
爆豪くんは春からの就職先での研修のため、昨日まで泊りがけで不在にしていた。だからみんなが試験の合否を確認する場に彼は不在で、私たちのクラスでは爆豪くんの合否だけが不明なままになっていた。
そんなわけで、先ほど研修先から帰ってきた爆豪くんと、私は今こうして駅の近くの喫茶店で落ち合ったというわけである。私は私で春から通う予定の専門学校の入学準備に慌しく、ちょうど寮を出てきたところだった。たまたま時間があったのでこうして喫茶店で待ち合わせに至ったのだった。
「私も無事に合格しまして。いやー、よかったよ。せっかくリカバリーガールから既定の単位をもらえることになったのに、これで肝心のヒーロー試験の方に落ちてたら目も当てられなかったし」
私の場合、落第だった場合はほかのみんなよりもさらにひどい。私はあくまでもヒーロー科卒の特待扱いで、専門学校には二年次からの編入という扱いだ。そして特待を受けるには最低でもヒーロー資格を保持しているか、取得見込みでなければならない。だからもしも今年試験に落ちていれば、その時点で編入自体がなかったことになってしまう。せっかくリカバリーガールからの厳しい指導を二年半もみっちり受けてきたというのに、それでは何もかも水の泡になってしまうところだった。
「春になったら、みんなはもう就職かぁ……。なんか三年間あっという間だったよね」
運ばれてきたコーヒーに口をつけて言えば、爆豪くんはどうでもよさそうに一瞥だけ寄越す。
「爆豪くんは東京だよね。関東組はなんだかんだ顔を合わせることもありそうだけど」
「てめえだって東京だろうが」
「そうだけど、私は就職じゃなくて進学だし」
「ちんたらしやがって」
「まあ、回り道ではあるのかもね」
けれどそれも分かり切っていたことだ。みんなと同じまっすぐのルートでは、私はみんなと同じ場所にはきっとたどり着けない。多少回り道をして、多少時間をかけて、そうやって自分の武器を増やしていかないことには私はきっといつかみんなから置いて行かれてしまうから。
「時間がかかっても、やりたいことをするために、やれることをするって決めたからね」
私がそう言うと、爆豪くんは「分かり切ったこと言ってんじゃねえ」と私の言葉を一蹴した。
★
あれはまだ、ヒーロー免許の試験前のことだ。
「問三、外来診療時に患者の個性が暴走した際の対処は」
「えーっと、院内対応チームのヒーローに応援要請」
「鎮圧後は」
「市町村の警察署と……ヒーロー協会の支部に速やかに連絡、だっけ」
「患者がこどもの場合」
「個性福祉事務所にも連絡」
爆豪くんが舌打ちをする。それは私が彼の出した問題に正しく解答できたときの合図だと知っているから、私はほっと安堵の息をついた。
共有スペースのほぼ真ん中。私たちの遣り取りを眺めていたクラスメイトたちは、「大変そうだねえ」とまじりけなく本音の労いの言葉をかけていく。
高校三年の冬休みを目前にした、十二月のこと。卒業前のヒーロー資格試験だけでなく、それとは別に私にはリカバリーガールとの口頭試問も控えていた。
ヒーローの資格試験については基本的な技能はすでにみな習得しているので、試験はどちらかといえば筆記と実技の中でも配点が高い応用課題の部分の対策が重要になってくる。そちらは昼間にみんなで試験準備に取り組み、夜にはこうしてリカバリーガールとの口頭試問のための準備をするのが三年生になってからの私の日課のようなものだった。
「それにしても爆豪が苗字の試験勉強をそんなちゃんと手伝ってやるとはなー」
すぐそばで私の参考書を眺めていた上鳴くんがしみじみ言う。
「ま、爆豪の勉強にもなるしいいんじゃねえの? 爆豪って実技はトップクラスだけど、こういう状況判断とかは結構特攻型じゃん。視野広いくせにもったいねえよ」
「は? うるせえわ」
瀬呂くんの言葉に爆豪くんがじろりと睨む。
「まあ、知識として頭に叩き込んでおけばいざというときにストッパーになるものはあるかもしれねえもんな」
「つーかそういうの専門入ってから勉強することじゃねえの?」
横でテレビを見ていた切島くんが会話に加わる。私がリカバリーガールに個人的に指導を受けていることはもはや周知の事実だが、それでもその内容や、進学にあたってのこまごまとした内容まではみんなは当然知らない。その辺りのことまで知っているのは進学する本人である私と相澤先生、そして何かと勉強を手伝ってくれることの多い爆豪くんくらいのものだった。
「そうなんだけど、リカバリーガールって業務のなかに病院の慰問とかも多いでしょ。そうすると、こういう本来進学先で学ぶべきことも、流れで教えてもらえることが多いんだよ。だから一応頭に入れておかないといけないんだよね。口頭試問の範囲、二年半で教わったこと全部だから」
「うわ、えげつないな」
「レジュメとかないんだっけ」
「そう。一子相伝の口伝みたいなもん」
「ますますすげえ」
感嘆と呆れがいりまじる声を受け、私は苦笑するしかなかった。私のまとめたノートを手にして出題係をしている爆豪くんは、そんな私たちをどうでもよさげにぼんやりと眺めていた。
夜も更け始めると共有スペースに人影もだんだんと疎らになっていく。
寝る前に外の空気を吸うため外に出ようと玄関に向かうと、意外にもそこで爆豪くんと鉢合わせになった。すでに夜もかなり遅い時間だが、出で立ちから見るに爆豪くんはひとっ走りしにいくところらしい。いつも早寝な爆豪くんにしては珍しいことだった。
もしかしたら試験が迫っていることで何かしら思うところがあるのかもしれないと、そんなことを思ってみたところですぐにその考えを頭の中で打ち消す。爆豪くんに限って、今更試験ごときで心を揺らすこともないだろう。
三年になってからの模擬試験の結果では、筆記試験は言うまでもなく、実技試験においても爆豪くんの成績はつねにクラスの上位だ。一年の頃に目立った協調性の無さは、今は爆豪くんの強味を打ち消すことをしないままでかなり均整がとれてきている。
爆豪くんは私を一瞥すると、しゃがんで靴ひもを結び始める。私も自分のスニーカーに足をつっこみながら、
「いつも手伝ってくれてありがとうね」と爆豪くんに声を掛けた。
「どうしても自分ひとりだと集中力切れやすいし、ほかのみんなを巻き込むのは忍びないから、爆豪くんが手伝ってくれると助かるよ」
試験を控えているのは私だけではない。リカバリーガールの口頭試問を受けるのは私だけだけれど、それでもヒーロー資格の試験という最大の難関が待っているのは全員同じだ。自分の試験勉強をしなければならないクラスメイトを私の勉強に付き合わせるわけにもいかない。
「俺はいいのかよ」
「爆豪くんは大丈夫でしょ。試験、絶対落ちないだろうから」
「当たり前だわ」
自分でいいのかと問うたわりに、爆豪くんの返事は不遜だ。思わず笑ってしまった。こちらとしてもそんな爆豪くんだから試験勉強の手伝いを頼める。
「てめえこそ、んなクソちょろい試験落ちたら殺す」
じろりとこちらを見た爆豪くんは、そう言って面白くなさそうに舌打ちをした。とりあえず話しかけてみたものの、もしかしたら今の爆豪くんはあんまり機嫌がよくなかったのかもしれないと、私はようやくそのことに気が付いた。さっきまで共有スペースで勉強を見てもらっていたときにはそんなことはなかったはずなのだけれど、この短時間の間に一体どういう心境の変化があったのだろうか。
ふうむと考え、私は内心で首を傾げた。大体、リカバリーガールの口頭試問がけして容易いものではないことは勉強を手伝ってくれている爆豪くんだってよく知っている。
「ええー、ちょろくないよね? さっきの話聞いてなかった?」
「聞かんでも知っとるわ。二年半の内容からどっから何が出るか分かんねえ口頭試問だろ」
「そうだけど、結構難しくない?」
「難しくねえよ」
あっさり言われ、脱力した。そりゃあたしかに爆豪くんにとっては難しくなんてない試験なのかもしれないとは思うが、爆豪くんと私ではそもそもの搭載スペックが違うことくらい、爆豪くんだって重々承知しているはずだ。私は爆豪くんとは違う。大抵のことは一度聞けば覚えられる爆豪くんと一緒の基準で考えられても困る。
けれど私が反論しようとしたタイミングで、再び爆豪くんが口を開いた。
「進学っつったって、てめえがそもそもそうでもしねえと碌に使えねえやつだから、自分で決めて進学することにしたってだけだろ。口頭試問なんざそのためのハードルのひとつでしかねえ。てめえの実力不足を補うことの、それのどこが大変で偉いことだよ」
言葉は荒いが口調は淡々としている。けして声を荒げることはなく、ただ爆豪くんが思ったことをそのまま口にしているだけのように聞こえた。
思ったことをオブラートに包むこともなく。歯にもの着せぬ物言いというのは、多分こういうのを言うのだろう。思わず溜息がこぼれた。
「本当にさ、爆豪くんさ」
「あ?」
「もう少し言い方とか覚えたほうがいいよ。本当に。社会に出る前に」
そうでないと余計なアンチがつくよ──そんな思いをこめ、私は爆豪くんに万感こめた溜息をつく。ただでさえコミュニケーションに未だ若干の不安を残す爆豪くんなのだ。今後は必要以上に発言に気を遣っていかなければならないというのに、これでは優秀な成績で試験を突破したとしても、本来不要だったところに足を引っ張られることも十分あり得る。
たとえそれが正しい言葉であったとしても、歪曲して受け取る人間はどこにだっている。
ただ、私は爆豪くんの友達だから──少なくとも爆豪くんの今の言葉に、悪意のようなものは微塵も含まれていないということを察することくらいはできるのだった。
「まあでも、実際そうなんだよね。爆豪くんの言ってることは正しい。それは私も分かってるよ」
私の返事に、爆豪くんはむっつりとこちらを見る。
「足りない部分を埋めてるだけのことだからね。もとから足りてるみんなから褒められるようなことじゃないってことは分かってるつもり」
それは今に限った話ではなく、この三年間ずっと思い続けてきたことだった。雄英ヒーロー科に入学することと、雄英ヒーロー科卒の肩書にふさわしい人間として世に出ることはまったく違うのだ。私がその肩書にふさわしい人間になるためには、人よりも遠回りをして、人よりも一層努力を重ねなければならない。
その道を選んだのは他ならぬ自分だ。
「分かってるつもりだし、自分にもそうやって言い聞かせてきたんだけど──でもやっぱ、みんなにああやって言われると、そんな当たり前のことも忘れちゃいそうになるね」
クラスのみんなは、爆豪くんも含めて全員やさしい人たちばかりだ。誰もがトップヒーローになる素質を持った、優秀な個性とすぐれた人格を持っている。だから私のように「足りていない」人間のことも、仲間として対等に扱ってくれる。私の努力を、努力した分量を、ちゃんと認めて誉めてくれる。
その努力が何のための努力で、報われた結果が何なのか──結果よりも過程を大切にしてくれる。
だから、忘れてしまいそうになる。
「ありがと、爆豪くんに勉強手伝ってもらっててよかった」
爆豪くんのおかげで、自分が何のために努力をしているのかを忘れずにいられる。爆豪くんが冷えた目で私を見てくれるから、みんなの優しさに甘えてしまいそうになる心を奮い立たせることができる。
「れ──」
何故かぽかんとした顔でこちらを見ていた爆豪くんが、やにわに発した。
「れ?」
「礼なんか言ってんじゃねえぞ、クソが!」
「はあ?」
まさかお礼を言って怒鳴られるとは思っていなかった。思わず私も声を荒げる。すると騒いだりして何事か、とぞろぞろみんなが玄関に顔を出すので、爆豪くんは余計に不機嫌になってみるみる眉間のしわを深くした。
「つーかてめえ、俺の時間割いておきながら試験に落ちたらコロス!」
吐き捨てるようにそう言って玄関を出ていった爆豪くんに、ひょこりと覗いた上鳴くんが「なにあのキレ逃げ?」と本気で理解不能というような顔で呟いた。
★
しんしんと降る雪を眺めながら、この高校三年間の思い出をひとつずつ検めるように思い出していく。正直にいえば楽しいことばかりではなかった。自分の至らなさをかなりの頻度で思い知らされ、幾度心が折れそうになったか知れない。というか心が完全に折れたことも一度や二度ではない。
「本当にあっという間だったなあ……」
「通過点が過ぎたくらいだろ、どうでもいいわ」
「通過点かあ……」
心が折れても、身体が悲鳴をあげても。
それでも、何とかここまでやってきた──スタート地点に立つところまで来ることができた。
春になれば爆豪くんやみんなは社会人として、新米ヒーローとして、華やかだったり堅実だったり、それぞれにデビューを飾ることになるのだろう。同じ学び舎を出たはずなのに、私とは随分と違う世界にみんなそれぞれ羽ばたいていく。
けれどそんなことで腐っていたって仕方がない。私はみんなとは別の道を歩むと二年前に決めてしまったし、そのことを今更嘆くつもりもない。
やりたいことを、やれることを、きちんとやっていく。
ただそれだけのことだ。そしてそれだけのことを着実にこなしていく大変さと重要さは、雄英高校の三年間で嫌というほど学んだ。爆豪くんや、クラスのみんなからも教わった。
「なんかあれだね、爆豪くんが友達でよかったよ」
「うるせえわ」
照れも衒いもなく、いつもの調子で返事をする爆豪くんに、ふっと笑って私はまた視線を窓の外に投げた。