自分で決めたこととはいえ、ヒーロー科のカリキュラムをこなしながらリカバリーガールについて勉強をするというのは、当初想定していた以上にハードな学生生活だ──ということを、身に染みてひしひしと実感している晩秋の今日この頃。
「うー、あー……」
 共有スペースの机に突っ伏し、携帯の画面をするすると撫でた。再生していた音楽を止めてイヤホンを耳から抜くと、遮断されていた環境音がたちまち耳に飛び込んでくる。
 いつもは誰からともなく人が集まるこの共有スペースにも、今は私しかいない。時刻はもうじき日付が変わろうという頃。先ほどまでは残っていた喧噪の残り香のようなものも、今はもうすっかり霧散していた。
 と、しばらくぼんやり呼吸をしていると、ふいにエレベーターがごうんと低い音で唸る音がした。ほどなくして、誰かが歩いてくる足音がひたひたと聞こえる。
 足音に耳を澄ませ、呼吸を浅くする。やがて共有スペースに姿を現わしたのは、もう随分前に「寝る」といって部屋に戻ったはずの爆豪くんだった。
 爆豪くんは、共有スペースで私がひとり教科書とノートを広げているのを見るや否や、
「何しとんだてめえ」
 と訝し気に尋ねた。普段以上に目つきが悪く見える表情は、眠気のためなのかむっつりと歪んでいる。
「リカバリーガールからの課題調べたりしてたらこんな時間になっちゃって、でもまだ授業の宿題が終わってなくて、今」
「なんでここでやってんだよ」
「自分の部屋だと誘惑が多くてはかどらないから」
 私の返事に爆豪くんは「要領悪すぎんだろ」と呆れたように吐き捨てた。実際私の要領が悪いのは事実だから、返す言葉などひとつもない。ただ諾諾と爆豪くんからの暴言を受け止めるのみである。
 ここのところ思うのは、雄英に入学できたあの瞬間の学力こそが私の人生の最大値だったのではないだろうか、ということだ。中学までは自分はそれなりに優秀な人間だったと思っていたけれど、この雄英高校に身を置き生活していると、いかに自分が凡庸な人間だったかを日々目の当たりにする。それは才能マンの爆豪くんとの比較だけではなく、たとえばクラスの中でも比較的成績が悪い方の上鳴くんなどと比較したところでも、やはり同じようなことを思う。
 人よりちょっと優秀なだけでは、優れたヒーローにはなれないのだろう。
 ヒーローは抜きんでた何かを持っているからこそ、ヒーロー足りえるのだと思う。
 そんなことを考えて、はっとした。最近は気を抜くとすぐに余計なことを考えてしまう。女子の中では一番一緒にいる時間が長かったお茶子ちゃんがインターンに出てしまって、なんだか自分だけが置いてけぼりを食っているような気分なのだ。私だって、私にできることを頑張ろうとリカバリーガールに教えを乞い始めたばかりだというのに。
 ふと見れば、爆豪くんがやはり訝し気な視線を私に向けていた。その視線と、それから自分の頭の中にふつふつと際限なく湧き出てくるネガティブな思考を振り払うように、
「爆豪くんは? 寝てたんじゃないの?」
 と私は尋ねた。夜間だから声はおさえているけれど、それでも極力明るい声を出す。そうすれば自然と後ろ向きな感情がどこかへ飛んで行ってくれると、そんなことを信じるように。
「寝てたけど喉乾いて起きた」
「なるほど」
 何かを察したのか私から視線をそらした爆豪くんは、そのままキッチンスペースへと踏み入る。
「そのままコーヒーいれてくれてもいいんだよ」
 冷蔵庫を開ける爆豪くんに声を掛ければ、
「は? なんで俺が」
 とすぐに切って捨てるような返事が戻ってくる。
「労わりの心があるのなら」
「ねえよ」
 もちろんそんなものを爆豪くんに期待していたわけではなかった。爆豪くんに限って、そういうサービスを快く提供してくれるタイプではない。大体、爆豪くんは仮免補習や自分の訓練などで日夜私などよりずっと頑張っている。そんな人に対して労いを求めるほど、私は厚顔無恥ではないつもりだ。
 それでも、爆豪くんの態度があまりにもすっぱりと切り捨てるような対応だったから、思わず私は口を尖らせた。
「少しくらい労わってくれてもよくない?」
「甘えんな」
 やはり取り付く島もないほどの潔い切り捨てぶりだった。思わず目を細めれば、爆豪くんはこちらに視線を寄越すこともなく、
「てめえが望んで忙しくしてんだろ。だったら人に労ってもらおうとしてんじゃねえよ」
 とごく当たり前のことを告げるように言った。
「──それもそうだね」
 そう答えるよりほかに、返す言葉などなかった。
 爆豪くんにとってはきっと、望む場所へいくため、なりたい自分になるため、そして自分の希望を叶えるための努力をするなんてことは、できて当然のことなのだろう。実際、爆豪くんは溢れる才能にあぐらをかくこともなく、日々努力を惜しまず生活している。
 努力ができることはそれ自体ひとつの才能だとはよく言ったものだけれど、爆豪くんを見ていると、なるほどたしかに彼はもっとも得難く尊いギフトをもらって生まれたのだろうと思わなくもない。努力する努力をせずとも、彼は息をするように努力ができる人なのだ。そしてそれを、当然のことと看做している。
 その爆豪くんの価値観を、彼はごく当たり前に私にも適用する。そのことを重く感じないわけではないものの、今こうして周囲と違う進路に向けて歩み始めた私にとっては、爆豪くんの不遜にも似た態度はありがたく、嬉しかった。
 同じ価値観を適用されることは、すなわち爆豪くんと同じ場所にいることをみとめられているような気がした。
 少しだけ胸が軽くなった気がする。椅子から立ち上がると、私もキッチンスペースへと足を向けた。ミネラルウォーターをごくごくと喉を鳴らして飲む爆豪くんの横で、ポットの電源を入れてお湯をわかす。
 爆豪くんに労わってもらわなくたって、自分でコーヒーくらいいれられる。
 労わられなければやっていけないのなら、きっとそもそもヒーローになんかなれっこないのだろう。
「頑張らないとな。そういえばインターン組も忙しそうにしてたし」
 仲のいいお茶子ちゃんと梅雨ちゃんの顔を思い出しながら、私は半ば独り言のように呟いた。
 ふたりとも最初は忙しいながらも楽しそうにインターンに行っていたのに、ここのところはふとした瞬間に表情に暗い影を落としていることも少なくない。プロの世界を垣間見ることで何かつらい思いをしていないのかと心配になるけれど、部外者の私がそんなことを聞ける立場にないことは分かり切っている。大体、プロの現場にインターンに行くというからには秘密保持などのレギュレーションだってあるだろう。迂闊に話を吹聴できないからこその悩みだってあるのかもしれない。
 結局、そうした悩みは自分で乗り越えていくしかないものなのだろうと思う。それでも私がふたりの力になりたいのならば、頼るに足るだけの立場と人格を得なければならないのだとも思う。
 爆豪くんがチッ、と小さく舌打ちをした。インターンの話が面白くなかったのか、あからさまに顔がいらいらしている。
「補習組も忙しそうだね」
 フォローのつもりで言った言葉は、どうやら火に油を注いだだけのようだった。途端に爆豪くんが目をかっと怒らせる。
「忙しくねえわ! てめえ喧嘩売っとんのか!?」
「うわ、ちょっと、夜遅いのに大声出しちゃだめだよ」
「分ーっとるわ!!」
 絶対に分かっていないだろう声量で怒鳴った爆豪くんに呼応するように、ポットの湯が沸きピピとアラームが鳴った。

 自分のマグカップにインスタントのコーヒーをいれると、再び共有スペースのテーブルに戻る。課題は半分ほどまで終了している。このまま頑張ればあと一時間もかからずに終えることができるだろう。
 音楽を再生しようとスマホに手を伸ばしたところで、爆豪くんもキッチンから出てくるのが見えた。てっきりそのまま自室に戻るのかと思い視線で追っていると、爆豪くんはカップ片手に携帯をいじりながらエレベーターホールとは反対方向の私がいる共有スペースへと向かってくる。そのままテーブル近くのソファーに腰をおろした爆豪くんは、テレビをつけることもなく、どかりとソファーに座って携帯をいじり続けている。
 私はぱちくりと瞬きをして、爆豪くんをじっと見つめた。
 普段ならば誰よりも早く部屋に戻って就寝する爆豪くんが、こんな夜更けに私と一緒に共有スペースにいる。何をするともなく、ただ無為に時間を潰している。
 一体どういう風の吹き回しなのだろう。
「爆豪くん部屋戻んないの?」
 恐る恐る声を掛けてみると、爆豪くんはぎろりとこちらに視線を寄越す。
「俺がどこで何してようが勝手だろ」
「いや、うん。別にかまわないけど」
 おかしなこともあるもんだと思って、とは言わなかった。言えばまたぞろ機嫌を悪くされることは目に見えている。爆豪くんがどういうつもりなのかは私にはよく分からないけれど、爆豪くんだってたまにはそういう日もあるのだろう。変に話しかけてきたりしない分、爆豪くんがそこにいてくれた方が監視されている気がして課題がはかどるような気すらする。
 耳にイヤホンを挿すのはやめ、かわりに寮内に満ちた静謐に耳を傾ける。シャーペンを握りなおして課題と向き合うと、不思議と先ほどまでよりも集中して問題を解いていくことができるような気がした。

 ★

 幼いころから医療職者になりたかったわけではなかった。だからといってヒーロー志望の子供だったわけでもない。
 私の個性は「移動」──いわゆるテレポーテーションだ。実生活においてもかなり有用な個性であることは言うまでもないけれど、この個性を利用できるとしたらやはりヒーローになるのがもっとも世のためだろうと、昔からそう言われることが多かった。
 手で触れたものを、物質の質量や成分を問わず最大で一メートル先に移動させることができる。自分自身も一メートルの範囲内ならば移動できる。
 ただし自分以外のものを動かすにはかなりの体力を消耗する。安易にヒーローになろうと決めた私は、入学早々に壁──個性の強力さが私という人間の能力の限界によって足を引っ張られるという、何とも無様な結果にぶつかった。

「爆豪くんがヒーローになれたとしてさ」
 課題が終わったところで、マグカップに残っていたコーヒーをひと飲みにして、私は口を開く。
 しかし思考を声にした瞬間に、爆豪くんから「あ゛ァ!?」と喧嘩腰の相槌らしきものが返ってきた。深夜に聞くにはあまりにもどすが利いた声に、油断しきっていた私は一瞬びくっとしてしまう。爆豪くんはまったく意に介した様子はない。
「なったとしてじゃねえ。なるんだわ」
「ああ、なるほど。じゃあ、爆豪くんがヒーローになって、それで私もちゃんと現場に出られる看護師になって」
 そんなふうに仮定を前置きして、私は視線を宙へと遣る。
 自分の未来に確固たる自信と揺るぎない指針を持っている爆豪くんはさておき、私がこのままちゃんと自分の望む進路を歩めたとして。リカバリーガールからの指導に音を上げず、ちゃんと彼女の期待する水準までの成績をおさめることができたとして。
 ──私が誰かを救えるだけの人間になれたとして。
「私と爆豪くんも、現場で一緒に救出とかすることになるのかなーって。そういうことを最近ちょっと考えるようになった」
「そりゃ活動範囲が近ければそういうこともあんだろ」
 これもまたごく当たり前のことを言うように、爆豪くんは静かに言った。
 爆豪くんにとっては当たり前のことかもしれない。当然のように努力を重ね、努力に見合う結果を求め続けている彼にとっては、プロになった後のことまでもがきっとすべて、当然掌中にすべき事柄としてはっきり見えているのかもしれない。
 爆豪くんのことが、時折とても眩しくて──私は羨ましくて仕方がなくなる。
「やっぱすごいな、爆豪くんは」
 思わずこぼれたそんな言葉に、爆豪くんははんと鼻を鳴らす。
「つーかそんなビジョンもなかったのかよ」
「それを言われると痛いんだけど」
 ひとつひとつの言葉を聞くにつけ、自分が今までどれほど甘っちょろい心持でここにいたのかが浮き彫りになっていくような気がする。進路をこれと定めてようやく、みんなと、爆豪くんと同じラインに立てたところなのだ。みんながもう春には立っていた場所に、私は今ようやく追いついた。
「やっとね、私もやっとそういう将来のビジョンっていうの? そういうのが最近見えるようになったかな」
「遅ェ」
「技の名前から何から全部準備してた爆豪くんと比べればね」
 リカバリーガールからの指導は厳しい。生徒たちに優しい看護教諭ではない、指導者として同じ医療職者を育てているときのリカバリーガールの目はどこまでも熱く厳しく、真摯だ。
 その目に応えたいと思う。多忙ななか私のために時間を割き、私を一端に育ててくれようとしている熱意に応えたいと思う。自分自身の中にようやく芽生えた展望を叶えたいとも思う。
 それに、爆豪くんから当たり前に向けられるハードルを越えたいと思う。
 こうして夜中の空気を何も言わず分かち合ってくれる爆豪くんの分かりにくい優しさに報いたいと──、そう思った。

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