日本のヒーロー界を──いや、もっと大きな「正義」そのものを牽引してきたオールマイトが、表舞台から姿を消した──引退した。
のちに神野の悪夢と呼ばれることになるその一夜は、私のような一介の学生の心にも大きな衝撃を伴い、深く刻まれた。
周囲のヒーロー科学生たちがヒーローのたまごとしてそれぞれ思いを新たにするなか、私もまた、ひとつの決心をする。それはヒーロー科の生徒としてはともすれば「正しくない」決心だったのかもしれないけれど、それでも──
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世間はまだまだ落ち着かないけれど、私たちの生活は何かに背を押されるように進んでいく。「神野の悪夢」によって幕引きとなった一連の事件においては、その渦中にあったといっても過言ではない私たち雄英高校ヒーロー科の生徒も、世の理の内側で暮らしている以上は寝て起きて、足を進めていくしかない。
というかむしろ、事件の最も中心にいた私たちだからこそ、前に進んでいく必要があるんじゃないだろうかと思わなくもないが──
そんなことを、予定きっかりの時間に我が家にやってきた先生の顔をぼんやり見ながら、私は細々と考える。
夏休みの家庭訪問は、娘を雄英高校という圧倒的な存在の庇護下に置こうという両親を持った私にとっては、入寮の意思確認というよりもただの四者面談に近かった。もともと私は高校進学と共に実家を出ている。女子高生をひとりで下宿させるよりも雄英高校の敷地内で生活させてくれる方が安心であることは、誰の目からも明白だった。
「入寮に先だって、何か言っておきたいことなんかはあるか。名前さんのご両親だけじゃなく、苗字からも」
ひととおりの説明が済んだところで、相澤先生が切り出した。それはあくまで形式的な質問だったのだろうとは思ったけれど、この場でその話をすべきかどうか悩んでいた私にとっては願ってもない切っ掛けだった。
「私、卒業後は医療系の専門学校に進みます。そこで看護師の資格をとって、看護師として働こうと思います」
相澤先生が、かすかに目を細めた。
私の言葉は脈絡があるようでいて、実際には唐突な話だっただろう。それでも話をするのならば今しかないと思ったし、実際、今ほどこの話を切り出すのに適したタイミングもない。
一学期と夏休みに私たちが向かい合わざるをえなかった事件を踏まえ、残りの夏休み、そして二学期以降、ヒーロー科の授業がよりヒーロー育成──自衛と対抗手段の獲得といった方向に舵切られるだろうことは私にも何となく想像がついていた。その進路から外れるというのならば、意思表明をするのは今しかない。
両親と相澤先生は、驚嘆の声を上げることもなく私を見つめていた。
「それはつまり、転科希望ということか?」
相澤先生の声には一寸の惑いもない。まるで何もかも予想していたこととでも言いたげなその言葉に、私はいえ、と首を横に振った。
「いろいろと調べてみて──もちろんまだ調べている途中ではあるんですけど。ヒーロー資格を保有しているといっても、その進路、就職先は多岐にわたりますよね」
慎重に言葉を選びながら、私は思考を言葉に変換する。
雄英のような超一流の高校から輩出されたヒーローならばいざ知らず、残念ながら現代のヒーロー飽和社会においてはヒーロー資格を持っているというだけでは職にあぶれてしまうのが現状だ。毎年多数社会に出てくるヒーローたちをみなサイドキックとして受け容れられるほどに経営の安定している事務所の数というのは、そこまで多くはないというのが実情としてたしかに存在する問題でもある。
そのあたりの需要と供給の問題については、今後ヒーロー育成機関の教育の質の向上という課題とともに偉い大人が問題解決に乗り出すのだろうとして。
そんな背景から、一部のトップ校出身者および実力をみとめらた者以外のほとんどの新ヒーローたちは、一般の企業に就職するか、あるいはヒーロー不足が嘆かれる地方へと就職することになる。
近年、ヒーロー資格保有者を一般企業で雇用しようという流れができつつある。これまでは芸能界など一部業種に限られていた露出が、だんだんと増えつつある。医療の現場におけるヒーロー試用もその一環だった。
「神野のニュースをテレビで見ていて……それで、私思ったんです。私は悪と戦うヒーローではなく、誰かを救うヒーローになりたい。そしてその願いをかなえるには、きっと個性にたよったヒーローとしての能力だけではいけないと思うんです」
自分の個性と、これからヒーローとして世で求められていくであろう個性。
そのギャップを考えたとき、私にはきっと、ヒーロー一本で夢を叶えることはできないのだろうことが、ほかの誰よりも自分自身でよく分かっていた。
私が誰かを救うには、ヒーローとしての力を行使するだけでなく、それ以外の武器が絶対に必要になるはずだ。多分、相澤先生もそれは分かっているのだろう。だからこそ、雄英高校ヒーロー科という華やかな経歴を棒に振りかねない私の進路希望について、真顔を崩すこともなく淡々としている。
「お前──いや、親御さんの前で失礼しました。名前さんも知っていると思うが、ヒーロー科は卒業と同時に即現場に出られるよう、かなり過密かつ専門的なカリキュラムを組んでいる。正直、大学進学や専門学校への進学となると、相当厳しいぞ」
相澤先生の忠告は予想の範疇だ。私ははい、と頷く。
「分かってます。雄英のここ数年のヒーロー科卒業生の進路を見ても、ほとんど百パーセントがヒーローとして就職だってことも」
そもそも雄英高校に入学するということ自体が相当の難関なのだ。雄英高校の生徒である私が言うのは口幅ったいものがあるものの、しかしそれは純然たる事実である。雄英高校ヒーロー科に入学できるのであれば、きっと全国どこの高校にだって入学できるだろう。そのくらい、雄英のヒーロー科は名実ともに最高峰の教育機関である。
雄英ヒーロー科を卒業し、そのままプロヒーローとして活躍する──これこそが現在日本のヒーロー志望者にとって、もっとも華やかな経歴であることは言うまでもない。
「お前が言っているのは、簡単に言えば邪道だな。邪道をいくにはかなりの胆力が必要になる。その覚悟はあるのか」
相澤先生の発したその問いへの返事なら、ちゃんと胸の中に用意してある。
「頑張れるところまでは頑張るつもりです」
絶対なんて言葉は使うべきではない。
絶対なんてものがこの世のどこにもないことを、私たちはオールマイトの引退をもって目の当たりにしたのだから。
私の返答に満足したのかどうなのか、相澤先生は頷くことも何か発することもせず、そのままつと私の両親へと視線を転じた。
「と、いうことですが」
「娘の進路は全面的に娘と学校にお任せしていますので」
父が言い、母が頷く。
ようやく相澤先生も頷いて、それをもって我が家の家庭訪問は時間終了となった。
見送りは結構、と相澤先生が言い切ったので、玄関の外まで先生を見送ったのは私ひとりだった。玄関を開けて一歩外に出れば、夏の盛りの太陽がかんかんと私たちを照らす。途端に相澤先生がうんざりした顔をした。保護者の視線から外れたことで少し気が緩んだのだろう。
「相澤先生」
車に乗り込もうとする相澤先生を呼び止めれば、先生はやはりうんざりした顔でこちらを振り向いた。
「なんだ」
「爆豪くん、大丈夫ですか」
私の問いかけにも、相澤先生は眉ひとつ動かすことはしない。私もまた、できるだけ平常心を保ったままで先生を見た。
爆豪くんは先日の神野の一件の最重要関係者である。私たちは皆、多かれ少なかれ敵連合の脅威にさらされ被害を出したりもしたけれど、実際に連合に拉致され首魁である死柄木弔と言葉を交わしたのは爆豪くんを置いてほかにいない。
現在は連合から身元を奪還され、メディカルチェックと事情聴取を経て自宅で軟禁状態だと聞いている。
「大丈夫──だけど、わざわざ俺に聞かなくても、自分で爆豪に連絡とればいいだろ」
相澤先生が言った。
「私もそう思うんですけど、爆豪くん、連絡しても全然返信してくれないんですよ。拗ねてるんだろうとは思うんですけど」
「拗ねてる、か」
相澤先生が、少しだけ笑ったような咎めるような、よく分からない顔をして、それから
「お前、同級生のことそんなふうに言ってやるなよ。爆豪の立場がないだろ」と私を窘めた。
「あ、はい。すみません」
「まあ、今はいろいろ爆豪も思うところがあるんだろう。どうせ寮に引っ越すことになれば毎日顔を合わせるんだから、適当に気にかけてやってやればいいよ」
「はい、そうします」
荷物は早めに送るように。そう言って車に乗り込んだ相澤先生は、静かに発進した車に揺られてあっという間に見えなくなった。車の見えなくなったあともしばらく先生の車が去っていった方角を眺めていたけれど、やがて私も暑さに耐えかね部屋の中へと取って返した。
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私と爆豪くんの関係を説明するのは中学生にひとけたの足し算をさせるくらい訳ない。友達。ただその一言さえあれば、すべて過不足なく事足りる。
ただ、赤の他人にはこれで事足りるところが、爆豪くんという人間をよく知っている人間であればあるほど、その「友達」というワンワードが胡乱なものに聞こえるらしいのだ。そのせいで私と爆豪くんの間には常に怪しげな視線が付き纏う。
というのも、爆豪くんというのは天上天下唯我独尊を地でいくような高校生なのだ。その実力はプロヒーローの目から見ても将来有望と折り紙付きなのだが、それ以上に厄介なのは彼の自尊心の大きさである。
彼はほかの誰よりも自分の力を適当かつ正確に把握している。性格に多少の難はあるものの、爆豪くんはいたって優秀な高校生だった。だからこそ、対人関係にはおいては大いに誤解を招きやすい。中学までの友人が友達というよりも取り巻きと呼ぶにふさわしいような面子だったことは、何となく風の噂で聞いた話である。
ともあれ。
そんな爆豪くんではあるけれど、正しい取り扱い方法さえ心得ていれば友情を築けないわけではない。男女の別があるので互いに無二の親友というほどではないけれど、それでもクラスの中だったらそれなりに親しい方──一緒にお弁当を食べたり勉強を教えてもらえる程度には、私は爆豪くんと親しくしているはずだった。
まあ、今現在連絡をガン無視されているのでそれがすべて私の勘違いだった、というのもまったくない話ではないけれど。
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引っ越しの日は晴天だった。
相澤先生からの耳が痛いお話を受け、ついで爆豪くんの分かりにくすぎる感謝の気持ちの表明など流し見、ようやく部屋の片づけに着手する。
とはいえ私は大して私物が多いわけではないのであっという間に部屋をととのえる作業が終わってしまい、どうにも時間を持て余してしまっていた。
ほかの女子たちはまだ引っ越し作業を終えていない。仕方がないので水回りの勝手確認を目的に階下の共有スペースに下りてみると、そこにはどうやら同じく暇を持て余しているらしい爆豪くんが、ひとり携帯をいじっていた。
すすすと近寄ると、爆豪くんは私の登場に気付き「部屋戻れよ」と鼻を鳴らして一言発した。
「別にいいじゃん。片づけ終わって暇なんだよ」
「暇だからって下りてくんな」
「爆豪くんも暇なんじゃないの?」
「一緒にすんな」
しかしどう見ても暇している爆豪くんである。これ以上問いただして怒らせても面白くないので、ひとまず共有スペースの冷蔵庫に入れておいたお茶を取り出し、私もソファーに腰をおろす。寮の中はまるで寮全体が慌ただしくしているように小さな生活音で満ちている。
「夏休みの課題終わった?」
適当に話を振ると、「とっくに終わったわ」と返事が返ってきた。正直返事が返ってくるとは思わなかったので、おや、と思う。
「私、まだ数学が残ってるんだよね」
「どうでもいい」
「計算問題っていつでもやれると思ってるとなかなか手を出すのが億劫で」
「いつでもやれるもんは先に片づけとけ」
「そうなんだよね、反省」
不格好な形ながらもぎりぎり成立している会話を交わしていると、ああ爆豪くんちゃんと戻ってきたんだな、とそんな気分になる。爆豪くんとの会話は大抵いつもこんな感じで、それでも互いに気を遣っていないのがよく分かるぶんだけ却って私にとっては話しやすい相手だったりする。
爆豪くんの方はどうか分からないけれど、一応は会話に付き合ってくれているのだから嫌がられてはいないのだろうと思う。
私たち以外が下りてくる気配はなく、エレベーターが動く気配もない。
多分、当分は私と爆豪くんのふたりきりで誰もここには来ないだろう。
そう思い、私は口を開いた。
「二学期から、リカバリーガールのところで勉強することになったんだ」
やにわに切り出すと、この日初めて、爆豪くんの目がきちんと私の方に向いた。赤い瞳をふちどる目が、本当にわずかにだけれどはっと見開かれる。
「──なんで」
「思うところあって、卒業したら医療系の専門に進むことにしたんだ。それで、リカバリーガールのところで勉強するとそれで専門の単位いくつか免除されるらしくて」
それもこれも、相澤先生が調べてくれたことだった。騒動の後始末やら入寮の準備やらで先生も忙しかっただろうに、この短期間の間に驚くほどの情報を集めてくれた先生は、それをまとめてメールに添付して送ってくれていた。多分、学校で話すとなると人目を集めてしまうからだろう。私がまだ進路のことをクラスの誰にも話していないことを気にかけてくれたのだと思う。
相澤先生の調べてくれたところによれば、専門学校の中にも多少はヒーロー科からの受験を受け容れているところがあるらしい。そしてそういう場合、普通科とヒーロー科では授業のカリキュラムが違うことを理由に、単位の取得方法も融通がきくらしいのだ。
リカバリーガールのように現場に貢献し、新人育成にも貢献してきた人には、独自に単位付与の権限が与えられている。彼女と連携している専門学校では、その単位次第で本来三年かかるカリキュラムでも二年次からの編入が可能になるということだった。
「リカバリーガールって本当にすごい人だったんだね、びっくりした」
もちろん彼女がすごい人だということはよくよく身に染みて知っていたけれど、私の個性は医療系ではない。だから何となくすごい、くらいの感覚しか持っていなかった。しかしどうやらリカバリーガールは医学の世界ではかなりその名を轟かせる権威らしい。
伝えたかったことが一段落したところで、私はそっと爆豪くんの表情をうかがう。先ほどは多少驚いた顔をしていた爆豪くんだけれど、今はいつものようにむっつりとした顔で私の方を見ていた。
「ヒーローなんねえのかよ」
爆豪くんが問う。ヒーローへの道が切り開かれ、自分でも努力を惜しまない爆豪くんにしてみれば、私の選択はもしかしたら理解が及ばないところにあるのかもしれないと、その時はじめて私は思った。
けれど爆豪くんの目を見て、それがただの杞憂であったことを知る。
爆豪くんの目は、私の個性や私が感じ取ったあらゆる物事をすんなりと見抜いているような、そんな目だった。そのうえで私の思い描く進路を否定はしていない。ただ、ヒーローにならないのか──ヒーローになることを諦めたのかと、それだけを問うている目だった。
「ヒーローにはなるよ。せっかく雄英に入ったんだし、かりに将来的に諦めるようなことがあったとしても、今はまだ諦めるほどの何かを経験したわけでもないし」
私の言葉を、爆豪くんは黙って聞いている。
「でも、爆豪くんみたいにヒーロー一本というか、ただヒーローになるだけで世のため人のためになれるわけではなさそうだなって思って」
「クソ雑魚の考えそうなこったな」
「クソ雑魚言わないでよ。将来現場で鉢合わせしても救けてやんないよ」
「ハッ、てめえに救けられるようなへま、絶対しねえ」
爆豪くんが低く笑った声が広い共有スペースに波のように広がって、それで私はようやく、自分の進路に自信を持つことができたような気がした。