もともと爆豪くんに近づくためだけに私と知り合ったのだから、その計画が瓦解した今、彼は本来の生活に戻っただけだと考えるのが妥当だということは分かっている。実際そうなのだろうし、爆豪くんから聞く限りでは騒動を事件化することはなく、内々に──具体的にいえば書面での謝罪と今後あらゆる迷惑行為をしないことの誓約、そして金銭的な取引で、すべては解決されたらしい。今はもう、事件自体が過去のことになっている。
それでも未だ私が後味悪く感じてしまうのは、彼や彼を雇った編集の人間にとって、ほかでもない私が爆豪くんに近づくとっかかり──隙だと思われていたことを、改めて実感してしまったからだった。
どれだけ自分にできることをと頑張ってみたところで、私では爆豪くんの横に対等に並び立ってはいないのだと、そう突き付けられた気がした。
もちろん私ごときが爆豪くんと対等、同じ立場にあるとまでは驕っていなかったにしても、自覚していることと他者から無理やり突き付けられることではまるきり意味も重さも違う。
私じゃ爆豪くんと対等に歩んでいる資格ないのだろうか。
そんな考えが今更胸の中を暗雲のように覆って、このところはめっきり気が塞いでいる毎日なのだった。ただ、気が塞いでいる理由はそれだけでもないのだが──
「いや、でもそれは爆豪も悪くね?」
「え?」
唐突に問いかけともつかない言葉を投げかけられ、私ははっとして顔を上げた。
目のまえの彼──およそ三年ぶりに顔を合わせる上鳴くんは、学生時代と変わらずあんまり威厳のない顔で、焼き鳥の串にかぶりついていた。
そう、私が今日一緒にお酒を飲んでいるのは雄英時代の同級生のひとり、上鳴電気くんだった。上鳴くんの就職した事務所も都内にあるが、私の勤め先の病院や爆豪くんの事務所があるエリアとはやや離れており、これまで現場で一緒になったことは一度もない。
高校時代もそう特別親しかったわけではなく、間に爆豪くんを挟んでなんとなく一緒にいることも多いというような──そんな微妙な距離感だったのが私にとっての上鳴くんだった。
その上鳴くんと私が、どうしてふたりでお酒など飲んでいるのかと言えば単純な話だ。もともと爆豪くんと上鳴くんがお酒を飲む約束をしていたところ、爆豪くんが緊急の要請で出勤しなければならなくなり、たまたま直前に爆豪くんと仕事先で一緒だった私が「てめえ代打で顔出しとけ。アホもてめえが行くなら文句ねえだろ」と強引な流れで代打を押し付けられてしまったのだった。
勤務を終えてから急いで爆豪くんに指定された待ち合わせ場所へ行くと、そこには学生時代とちょっとも変わらず元気のいい──そして学生時代よりもちょっとだけ落ち着いた上鳴くんが、マスクと帽子という簡単な変装をほどこした上で、私を待っていたというわけだ。
ともあれ、積もる話もそこそこに、話題は今もっとも私が頭を悩ませていること──すなわち先日の爆豪くんとの一件についてへと移っていた。
店内は全個室になっているので、ほかの客たちの声はほとんど聞こえてこない。私たちの声もおそらくどこにも届いてはいないだろう。そう思うと、こうした込み入った話をするのにも幾らか気が楽になる。
「俺も同じ業種だし、爆豪とは同期でもあるし、ってことでその辺は多少事情は聞いてたけど」
と、上鳴くんはそう言ってひと口ビールのジョッキをあおる。
世間にはほとんど漏れていない事件にもならないような話であっても、さすがに同業者の間ではある程度の噂にはなっているらしかった。そのことすらヒーロー業界の噂に疎い私には初耳だが、今は自分のアンテナ感度の低さをどうこう言っている場面ではない。
「個々人の考えは別として、業界全体の風潮としては、まあ爆豪と相手方がどっちも悪いみたいな感じかな。詳しいことは俺も聞いてないけど、爆豪のやつガチの新米時代にそこそこその編集長に最悪な仕打ちをしたとか何とか」
「そうなの……?」
「まああいつは、三歩歩けば恨みを買い、十歩歩けば炎上する男だから……」
「なんていう不名誉な言われよう」
「彼はそういう男なのです」
南無。と上鳴くんが合掌して見せる。
つまるところ、此度の騒動の根っこの部分は爆豪くんと向こうの責任者による個人的なトラブルに端を発するというのがすべてなのだった。最終的に事務所が話をつけるというのを爆豪くんが嫌がったのも、大体の理由はそのあたりにあるのだろう。自分のせいで巻き起こしたトラブルの尻ぬぐいを事務所にさせるというのは、あのプライドの高い爆豪くんにとってはさぞ不愉快な事態だったに違いない。
個人的なトラブルがあわや紙面をにぎわす事件の一歩手前にまで発展してしまうというのが、爆豪くんという人間の在り方を端的に示しているともいえる。
「とにかく、そういう感じなのが俺が聞いたところでの大体の流れだな。苗字にとって正直喜ばしくないのは分かるけど、お前についてはそもそも名前すら出てないぜ。ま、もともとが内内で済ませた話だからそれも当然かもしれねえけど──」
上鳴くんはそう言って──それからまた大きくビールをあおり、続けた。
「ただ、やっぱりお前の名前が迂闊に出ないようにって根回しはあったんじゃねえかなと、ここ数年めきめきと頭が良くなっている実戦派の俺なんかは思うわけ」
どこか得意げな顔をして言う上鳴くんだった。彼の近年のヒーローとしての働きについては私も聞き及んでいる。学生時代にはけして座学を得意としなかった上鳴くんも、この五年の実戦経験を踏まえ、昔よりずっと視野は広く、思考は深くなっているはずだ。
その上鳴くんが言うのだから、きっとそうなのだろう。彼ほどの思慮はなくても、私もまたそう思うのだった。この現代社会において、もっとも情報に通じたヒーローたちの間ですら登場人物のひとりである私の名前が広まらないというのなら、それはやはり、そうすべしと誰かが策を打ったからにほかならない。
「元はと言えば爆豪が恨みかった週刊誌だろ? 爆豪がそこと揉めなきゃ、そもそも苗字が巻き込まれることなかったわけだし」
「巻き込まれたというか」
私が迷惑を呼び込んだというか──そう言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
私はあくまでも自分が彼に接触をはかられたところを起点に物事を考えている。自分が当事者になった瞬間を、此度の事件のスタートに設定している。
けれど爆豪くんやほかの人たちにとっては、今回のことはもっと以前──爆豪くんが恨みを買ったというその瞬間に端を発しているのだろう。そこをすべてのスタートとして考えてみれば、なるほどたしかに私は巻き込まれた側ということもできる。
「それ分かってるから、爆豪も苗字に対してキレるにキレらんなかったんだろ。そうじゃなきゃあいつがキレねえはずがない」
私が爆豪くんに迷惑を掛けたと思っているように。
爆豪くんもまた、私を自分のトラブルに巻き込んだという自覚を持っている。本来であれば無関係だったはずの私を、それも私の私生活を侵食し、対恋人としてかなり心の内側までを明け渡すような遣り方を許したうえで巻き込んでしまった。
そう思っているから、爆豪くんはこうして迷惑を掛けられたにも関わらず、私に対して怒り狂うこともなく、半ば何もなかったかのように振る舞ってくれている──
「いや、分かりにくいよ……」
思わず、がくりと項垂れた。
爆豪くんが分かりにくい人だということはすでに重々承知している。承知した上で私は爆豪くんの友達をしてきたつもりだったし、「分かりにくい」ことを分かったうえで、私は爆豪くんのことを分かろうと努めてきた。
けれどこれはさすがに、あまりにも分かりにくすぎるのではないだろうか。
「それならそれで、一言くらい何か言ってくれれば……そしたらこう、私ももう少し自責の念が軽くなったり……は、するわけではないけども……」
それでも、多少気持ちの持ちようは違っただろうと思うのだ。実際に起こったこと──私が爆豪くんに迷惑を掛けたという事実も、そのことを私が少なからず心苦しく思うことも、何も変わることはないのだとしても、爆豪くんも私と同じように申し訳なさのようなものを抱いていると知っていたのなら、多分もっと、何かが違った。
爆豪くんに対する態度が、少しは変わったかもしれない。
大きなため息をついて、私はウーロンハイをごくりと飲む。その様子をまじまじと見ていた上鳴くんが、「つーかさ」とだしぬけに切り出した。
「苗字でも爆豪のこと分かりにくいとか思うんだな」
しみじみと言われ、私はおもわずどろんとした瞳を上鳴くんへと向けた。
「そりゃあ思うよ。だって爆豪くんだよ?」
「お前ら大体お互いのこと何でも分かってんのかと思ってたわ」
「そうだったらもっと話がはやいんだけどねえ」
むしろ分からないことの方が多い。普段の何でも率直に口にする態度のせいで忘れがちになるかけれど、爆豪くんは時折こうやって何も言わずに感情を心のうちに秘めていたりする。その事実を思い出すにつけ、私は爆豪くんのことを分からないのだと思い知らされるような気分になることなど、きっと爆豪くんは気付いていないに違いない。
自分が一番爆豪くんのことを知っているのだと──そんな驕りを抱いてしまう程度には、私は爆豪くんと仲がいいから。だから時々、失念してしまう。
「爆豪くんみたいにすごい人の考えることなんて、私には分かんないよ」
歴然たる彼我の差は、学生時代から何ら変わることはない。
私がどれだけ必死になって努力をしようとも、同じ時間だけ、私以上の努力を爆豪くんは積み重ねてきている。友人として近づけば近づくほど、そのことをひしひしと感じずにはいられない。
もちろん、上鳴くんやお茶子ちゃんにだって同じことは思う。結局雄英高校を卒業して五年が経っても、私はあの頃の劣等感から抜けきることができないのだ。
「お前って、優秀なわりには昔から卑屈な」
ま、爆豪の考えてることなんて俺にも分かんねえけど。
上鳴くんが何気なく言った言葉で、私の心の奥底はつんと沁みるように痛む。果たして私が優秀だったことなどあっただろうか。中学生の頃まではたしかに私は優秀だったのかもしれないけれど、それももう今となっては遠く過ぎ去った過去の話だった。
「優秀じゃないよ」
ぽつりと、私は答える。
「本当に優秀だったら私も今頃、みんなみたいにヒーロー専業でやっていってたし」
「え、苗字って専業でやってけねえと思ったから看護師の資格とったの?」
ぽかんとした顔をして言われ、私はうん、と頷いた。
「そうだよ。知らなかった?」
「知らんかった。ふうん、そっか。ってか、俺以外のやつもそういう話はあんま知らねーんじゃねえの?」
「言われてみればたしかに、あんまり人に話したことはないけども」
というより、あまり積極的に人に話すような話題でもないと思っていた。前向きに頑張っているみんなの前で自らの劣等感や焦燥感の話をするのは気が引けたし、優しいみんなならば「大丈夫だよ」と言ってくれそうなことくらい容易に想像がつく。
あの頃、ヒーロー科の生活と進学のための勉強の両立はけして容易なことではなかった。そんなときに優しいみんなから「大丈夫だよ」なんて言われたら、それこそ楽な方に流されてしまってもう戻れないような気がしていた。
私が進路の話を積極的にしていた相手といえば爆豪くんくらいのもので、だから今にして思えば、あの頃私が進路について思っていることや悩んでいることを知っていたのは、爆豪くんとリカバリーガール、それに担任だった相澤先生しかいなかった。上鳴くんの言うとおり、ほかのみんなはきっと、私がより高みを望んで進学を希望していたと思っていたとしても何もおかしなことはない。
上鳴くんの誤解に苦笑する。何も言わないことで誤解を生むのは、なにも爆豪くんの専売特許ではなかったということだ。
「なんだか今になって言うのは恥ずかしいものがあるけど──だって私、みんなみたいにすごい『個性』じゃないからね。移動するしか脳がないなら、移動した先で何をするとか、そういう『個性』とはもうひとつ別の技能がなくちゃ仕方がないでしょ」
「あー、なるほどな。それで」
「そうだよ」
私は頷いた。
できることが少なすぎるから、手札を増やしたかった。こどもでも分かるような、至ってシンプルな理屈だ。本当にただそれだけで、私は自分の進路に見切りをつけて方針転換を決めたのだ。だから上鳴くんやほかの誰かから感心してもらえるような、崇高で意識の高い思いを持ち合わせていたわけではない。それは今も変わらない。
「けど、あの頃の俺からしてみれば、やっぱ苗字はすげーって思ったね」
それでも、上鳴くんは言った。
「だって雄英、授業ついてくだけでも相当きつかったじゃん。雄英のヒーロー科にいるやつなんてどこの中学でもかなり優秀だったやつばっかのはずだけど、それでもみんな結構必死だったっていうか。俺も実際、相当必死だったし。苗字の場合はそこにさらにリカバリーガールとのなんか修行? みたいなのまでしててさ。俺も頑張ってたし、ほかのやつらも頑張ってたけど、その中でお前が劣ってたとか、多分俺含めて誰も、一度もそんなこと思ってねえよ」
あくまでも世間話や思い出話の延長として、上鳴くんは学生時代の話をしているに過ぎないのだろう。だいぶお酒も進んできて、どこまでが上鳴くんの本気の言葉なのかだってあやしいくらいだ。
けれど私は、ぐっと唇を噛み締めて視線を下げることでしか、その場でじっと自分を保っていることすらできなかった。
少しでも気を抜いたら最後、うっかり泣き出してしまうような気がしてならなかったのだ。
雄英を出て、専門を出て、社会に出て、三年。高校時代のことなどすでに遠い昔のようなものだし、私にとっての雄英ヒーロー科はすでに過ぎ去った時間のなかにあるものでしかない。それなのに、こうしてあの頃の自分の劣等感や焦燥、そして周囲との力量の差ゆえに感じた孤独のようなものを今更ゆっくりと溶かされたことで、どうしようもなく切なくて、悲しくて、そして嬉しかった。
爆豪くんと、みんなと対等であったと言ってもらえることが。
私には、自分が想像していたよりもずっとずっと嬉しかった。
「そう、かな」
やっとの思いでそれだけ発した言葉に、上鳴くんは大袈裟に何度も頷いて見せる。
「俺の目から見れば、苗字なんて才女よ、才女。つーか、そうじゃなきゃ爆豪がつるむなんてなくね? あいつって自分にも他人にもちゃんと厳しいし、周りにも相応のレベル求めてくんじゃん。俺から見れば、おまえらふたりが一緒にいるのは、なんつーか優秀なやつ同士がつるんでる感じだったよ」
「あはは、何それ」
「いや、まじだって。だからさ、ちゃんと対等に見えてたし、多分それは──爆豪も同じだろ」
そうだろうか。
上鳴くんの言葉を疑っているわけではないけれど、もう何年も自分の中に染み付いた感覚をすぐに上書きすることもできず、私はそうだったらいいのに、という何とも頼りなく曖昧な希望ばかりを胸に抱く。
対等だったらいいのに。
友達として、ひとりの人間として。
私はずっと爆豪くんと対等でありたいと、対等であろうと思って努力をし続けてきた。
もちろん努力をする最大の理由は「誰かを救けたい」というヒーローとしての根本的な欲求ではあるけれど、それと同じくらい、私はきっと、顔を合わせていなかったときですら、爆豪くんと対等に隣にあれるようなヒーローに、人間に、なりたかった。