その日の勤務を終えて携帯を確認すると、彼から謝りの連絡が入っていた。
「さっきは嫌なこと言ってごめん、出過ぎたことを言いました。」
 いつものようなスタンプもなく、くだけた調子でもない文章だった。更衣室の中、私は思わず周囲に憚ることもなく大きな溜息をついた。
 喧嘩というには些細で、けれど看過するには大きなわだかまりだったと思う。多分、これから先もうまく付き合っていくためには、こういうわだかまりが生まれたときにはきちんと話し合いなり何なりしなくてはならないのだろう。
 けれど、そういう気分になれないのが正直なところだった。もちろんこちらが折れてやるのが筋だとまでは思わない。爆豪くんとの関係にやましいところもなく、ヒーローや看護師としての活動も職務の範囲内で最大限という程度だ。爆豪くんと同じマンションに住んでいることを隠していたのが悪いと言われれば理解できなくもないが、それでも今日の一件に関しては、私の方から謝る要素がひとつもなかった。
 が、こうも素直に引かれてしまうとこちらとしても、いつまでも怒りの矛をおさめないわけにはいかなかった。
「いいよ。こっちこそ爆豪くんが同じマンションに住んでること黙っててごめん。」
 最小限の文章を入力して送れば、すぐに既読がつく。けれど返信を待つのも億劫で、私は携帯をかばんに放り込み、再び大きな溜息をついた。
 なんだかむしょうに、雄英時代からの友人の誰かと話をしたいような、そんな気分だった。

 それからさらに数日後のことだ。私は相変わらず職場と自宅の往復のみの生活を送り、彼とは連絡だけとって顔を合わせない日々を過ごしていた。
 恋人ができたところで、顔を合わせなくても寂しくも何ともないのだということを、私はこの年になってはじめてひしひしと実感している。こういうところが恋人と長続きしない所以だと言われればそれまでなのだが、とはいえ仕事は充実しているし、仲のいい友人もいる。恋人は生活に彩りを加える程度の存在なので、いなければいないで不自由するということも特にない。
 ある晩、残業を終えてマンションに戻ると、ちょうどマンションのエントランスで爆豪くんと鉢合わせした。爆豪くんも勤務終わりのようで、何処となく普段よりも疲れた顔をしている。今日は救急で呼び出されるような大きな事件はなかったはずだから、恐らくは爆豪くんの苦手なファンとの交流イベントか何かだったのだろう。過酷な現場での勤務となれば、むしろ爆豪くんは活き活きしてくるタイプだ。
「久しぶり」
 声を掛けて近寄ると、爆豪くんは「うるせえ」と返事をする。大体いつも通りのリアクションなので私は文句を言うこともなく、その暴言を適当に受け流した。
「顔疲れてるよ。当ててあげようか? ファン交流」
「……」
「正解なんだ」
 やはり、と私がにやつくと、爆豪くんは舌打ちをしてこちらを睨んだ。いつもならばここでさらなる暴言が飛んでくるはずなので、今日の爆豪くんは私が思っていた以上に疲れているのかもしれない。
 郵便抜けをちらりと覗いた爆豪くんは、さっさとエントランスを抜けていこうとする。私は慌ててその後を追った。手に提げたコンビニ袋が揺れてがさがさと音を立てた。そのコンビニ袋と一緒に持った通勤用の鞄の重みで、私はふと思い出す。
「そういえば、職場で美味しいお酒もらったんだけど、爆豪くん飲む?」
「は?」
 爆豪くんが胡乱げな目をこちらに向けた。
「飲むなら持っていこうかと思って」
 そう言って私は鞄から紙袋を取り出して、それを持ち上げ爆豪くんに見せた。
 私はけしてお酒が好きというわけではない。それは職場でつい最近あった季節外れの懇親会のビンゴ大会で当てた高級な日本酒で、うっかり職場のロッカーに置きっぱなしにしていたものをようやく持ち帰ってきたのだった。
「どうせ私ひとりで飲まないし、爆豪くんが飲むなら爆豪くんちでこれで飲み会にしようよ」
「てめえがうちに来んのかよ」
「そう。夕飯も今日は買ってきたし、爆豪くんおつまみ作ってよ」
「あまつさえつまみまで要求すんのかよ」
「そうだけど」
 爆豪くんにしては珍しく畳みかけるような言い方だった。いつもならば一発「帰れ」「うぜえ」「来んな」で終わるところが、やけに回りくどいことをする。不思議なこともあるものだと爆豪くんをまじまじと見つめれば、ややあってから、
「男いる女がほかの男の家にふらふら上がんなよ」
 爆豪くんがぼそりと発した。
 その言葉に、はっとする。
「た、たしかに……」
 言われてみればその通りだった。びっくりして爆豪くんを見ると、爆豪くんは呆れた顔をこちらに向けている。
「てめえ気付いてなかったのかよ」
「彼氏いない生活長かったから、そんな感覚すっかり忘れてた……」
 同じマンションに住むようになってからというもの、一緒にごはんを食べたりお酒を飲んだりするのも圧倒的にどちらかの部屋で済ませることが増えていた。それは互いに「こいつとならふたりきりでもどうともならない」という安心感と信頼を拠り所としたものだったが、ともかくそういう機会が増えていたせいで、私はすっかり爆豪くんの部屋に上がるということに対して遠慮のようなものがなくなっていた。
 言われてみればたしかに、彼氏持ちの女が、友達とはいえ男のひとのひとり暮らしの部屋にお酒を持って上がり込むというのは、あんまりよくないことのような気がする。
 というか、実際よくないのだろう。それこそ彼にばれたらいよいよ怒られる。
 鞄の中にお酒の紙袋を戻し、私はごめん、と一言告げる。
「ごめん、爆豪くん。いらない気を遣わせたね」
「は? 俺がてめえごときに気なんか遣うわけねえだろうが」
 そっけない返事が返ってくるけれど、それは必ずしも爆豪くんの本心というわけではないのだろう。爆豪くんが私なんかよりも余程、きちんとした「常識」にのっとって私たちの関係の在り方を決めているのは明らかだ。
「爆豪くんには悪いけど、この美味しいお酒は彼氏と飲みます」
「最初からそうしろクソが」
 先にエレベーターをおり、爆豪くんと別れる。
 エレベーターの扉が閉まり切るのを見送り、自分の部屋に向かって急ぐ。
 吹く風の冷たさのせいか、なんとなく胸がすかすかするような気分になったことに気付き、どうしようもなく寂しいような気がした。

 ★

 翌日、私は休日出勤の代休としてもらった平日の休みを、久々にお茶子ちゃんと一緒に過ごしていた。私の部屋にお茶子ちゃんを招いてのお茶会は、私が持て余していた日本酒を出してきたことによって、昼日中だというのにお茶会から飲み会へと中身を変えていた。なんとも堕落した休みである。それでも私もお茶子ちゃんも私もここのところは忙しい日が続いていたから、たまにはこういう日があってもいいと思う。
 お茶子ちゃんの所属事務所のヒーローにチームアップの要請があったことを受け、しばらくの間お茶子ちゃんもボスに随伴し、関西のヒーロー事務所まで応援に行っていたらしい。その間もちょこちょこと連絡はとっていたものの、こうして顔を合わせるのは初夏のころ以来だった。今はもう落ち葉もほとんど地に落ちるような季節である。
 日本酒をお湯で割ってちびちびしていたお茶子ちゃんは、ほんのりと赤らめた頬をぷっと膨らませ、まるで学生時代のような幼い怒った顔をつくる。じとりとした目は、怒っているというより酔いのためだろう。
「ていうか彼氏できたとか聞いてないよー」
 すでに数回目になるくだりだが、お茶子ちゃんも私もそれなりに酔っている。会話がループしていることに気付きつつ、それでもずるずる話を続ける。
「もう、名前ちゃんいっつも何も教えてくれないんだから。名前ちゃんと会うたび、私『言ってよー』って言ってる気がするよ」
「ごめんごめん、なんかね、顔を合わせてれば話すんだけど、わざわざ連絡することでもないかなって」
「連絡することでしょ、それは」
 おどけるように軽く肩を叩かれ、私とお茶子ちゃんは揃ってへへへと笑った。この遣り取りもすでに数回目だが、何度やっても楽しいのは楽しいので構わない。
 テーブルの上のさきいかにお茶子ちゃんが手を伸ばす。その手には見慣れない指輪がはまっていて、お茶子ちゃんはお茶子ちゃんで忙しいなりに充実した日々を送っているのだということを示しているようでもある。
「爆豪くんは?」
 ふいに、お茶子ちゃんが尋ねた。ぼんやりとテレビを眺めていた私は「え?」と聞き返してから「ああ、爆豪くんね」と我ながら頼りない返事をした。手に持っていたグラスをテーブルに戻し、私はひとつ溜息をつく。
「爆豪くんは元気だよ。マンション一緒だからエレベーターとかで顔合わせるし、あと現場もちょくちょく一緒になる」
 それだけの説明でお茶子ちゃんは何かを察したようだった。お茶子ちゃんもグラスを置き、カーペットの上で膝を抱えてこちらを向く。なんとなく目を合わせられずに、私は視線を下へと下げた。カーペットの上には最後に彼がうちに来た時に置いていった旅行誌が、片づけるのを忘れたまま無造作に放り出されている。
「名前ちゃんと爆豪くん、前みたいにふたりでごはん食べたりしてないの?」
 お茶子ちゃんが尋ねた。お茶子ちゃんは私と爆豪くんの関係が純然たる友情だということをよく知っている。だから恋人がいるとかいないとかというのは、私たちの間には本来大した問題ではないことを分かっているのだ。
 ただ、それがある種特殊な環境によって培われた理解だということも、今の私は分かっている。世間一般の男女の在り方とは微妙なずれを持っていること、そしてそのずれを正した世間に流通する常識を、私の彼と爆豪くんはどちらも備えていることも。
「最近は全然。なんか、爆豪くんの方が私の彼氏に遠慮してくれてるというか、そういうところちゃんとした方がいいって思ってるっぽくて」
「けじめだね」
「私は正直、どっちでもいいと思うんだけどね」
 それが本音だった。私本人の意志を貫くのならば、彼がどう言おうが構わず爆豪くんとの友情を継続していきたいと思う。順番で言えば先に構築されたのは爆豪くんとの関係で、彼との関係は後から出てきた、いわばぽっと出の存在に過ぎない。
 けれど多数決で考えたとき、こんなことを思っているのは私ひとりだ。私の彼も、爆豪くんも、それは正しくないというのだろう。二対一で、私の意見が、気持ちが、採用されることはない。
 お茶子ちゃんは黙って私の言葉を待っている。正座にした足を組みなおし、それから私は胸のうちをぽつりぽつりと打ち明けた。
「高校の頃は全然そういう恋愛の話とか縁がなくて、専門の頃もそれどころじゃなかったけど──でも就職してからはわりと恋愛の話とか、爆豪くんにしてきたから──だからこう、いろいろ知ってる分だけ爆豪くんも気を遣ってくれてるのかなとは、思うんだよね」
「爆豪くんが気ぃ遣うの?」
 問われ、私は頷く。もしかしたら爆豪くんにその気はないのかもしれないとは思うが、私からしてみればやはり、気を遣われているという感覚があるのが正直なところだった。
「爆豪くんに恋愛の話するときって、まあうまくいってるときは全然そんな話しないから、大抵うまくいかなくなったときに話すんだけど。そうすると毎回、まただめだったよーって話して、そんで次こそはってなるじゃない。だから爆豪くんとしては、異性の友達である自分がそばにいない方がいいとか、そういうこと考えてるのかなって、ちょっと思う」
「ええ? 爆豪くんに限って──」
 とお茶子ちゃんは言いかけて、しかしすぐに言葉を翻した。
「ってこともないか。爆豪くん、すごくいろいろ気が付くし」
「うん。そうなんだよね」
 粗野粗暴な言動が目立つせいで誤解されがちではあるけれど、爆豪くんは天性の視野の広さがあるから人よりもずっとよく色々なものを見て、色々なことに気が付いている。爆豪くん自身がその「気付いたもの」を記憶の中に留め置くか、あるいは何か干渉するかは別として、こちらが驚くほど些細なことでも、爆豪くんはよく見ているし気が付いている。
 だから私に久しぶりに恋人ができたとなったとき、爆豪くんは爆豪くんなりに色々と考え、こちらの事情に合わせて対応してくれているのではないだろうかと思うのだ。私の友人としての爆豪くんは、そういう人だった。
 不器用で、乱暴で、けれど根っこの部分の繊細で優しい部分はちゃんと感じられるような、そういう人。
 はふうと息を吐き出して、お茶子ちゃんは眉を下げた。
 お茶子ちゃんにも私が胸のつかえのように感じているものが分かるようで、私は少しだけ気が楽になったような気持ちになる。悩ましいのは彼が爆豪くんに関わること以外の部分ではすこぶるいい人であるということ、そして爆豪くんのことを理由に別れたりなどすれば、きっと私が何も語らずにいたところで、聡い爆豪くんにはすぐに破局の理由がばれてしまうだろうということだ。
 大体、別れに踏み出すだけの理由があったり、何かの決断を迫られているというわけでもない。爆豪くんとの友情を継続させるために恋人と別れるなんてことが、どれだけ馬鹿らしくて現実的ではないことかも分かっている。
「名前ちゃん、はからずも友情と恋愛の二者択一をせまられている二十三の冬──と?」
「そこまで大きなテーマではないけど」
「でも、そういうことじゃない?」
「そうなのかな……」
 そう言われれがそうであるような気もするし、そんなふうに世間一般で論じられるようなところに落ち着くものでもないような気もする。結局のところ、私自身何をどうしたいのか、何を解決したいのか、それすら分かっていない。
 周辺にある様々なことは全部分かっているはずなのに、一番肝心なところが分かっていないのだ。
「実際、友達と恋人って難しいよね」
 私に同調するように溜息をついたお茶子ちゃんの、お茶子ちゃんらしからぬ一言に、私は思わず首を傾げた。
「……お茶子ちゃんはそういう時、一も二もなく友達選ぶって思ってたけど」
 実際、私の知るお茶子ちゃんという女の子は、とにかく情に厚く仲間思いの優しい子だ。私自身、何度お茶子ちゃんの優しさに救われてきたか知れない。
 けれどお茶子ちゃんは困ったように笑って手を振った。
「だって恋人、友達ってただのカテゴリやん。比べるものじゃないっていったって、それにしても漠然としすぎじゃない? 誰かと誰かって個人の名前を出すならともかく。いや、それでもそれはそれで選べないけども」
「たしかにね。友達って言ってもいろいろだからね」
 言われてみればそれもそうだった。ヒーローとしては自分との親密度で助ける対象や選ぶ対象を決めてはいけないと分かっているけれど、公の立場ではなく私の立場として考えたとき、どうしたって誰かの中からひとりを選ぶという作業をするのなら、その人個人の特性や自分との親密度、関係性を除外して考えることはできない。
 それこそ、ひと口に友達といったって、お茶子ちゃんと爆豪くんでは違う。
「『友達』と『恋人』って言われたら、私も『友達』をとるような気がするし、なんとなくそうしなきゃいけないような気がするけど、でも実際、『恋人』を選ぶ人だってたくさんいるよね。それが悪いことではないんだし。だけど──」
「けど?」
 言いかけて口をつぐんだ私に、今度はお茶子ちゃんが首を傾げる番だった。私は、
「ううん、何でもない」
 と慌てて笑って誤魔化した。

 友達とか恋人とか関係なく、『爆豪くん』と『彼』だったら、私はどちらを選ぶのか。
 ほんの一瞬だけれどそんなことを考えてしまった自分に、他でもない自分が一番驚いた。これまで考えなかった問いは、もしかしたら考えないようにしていただけなのかもしれないと、その瞬間はっと気付く。
 そしてその問いに対する答えがどうなのか。それがあまりにも自分の中ではっきりとしすぎていることに気付き、私は少しだけ自己嫌悪で落ち込んだ。

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