爆豪くんが彼の日常に戻り、私は私で日常へと戻る。
そんなふうにして数か月が過ぎ、夏が終わり秋のにおいが濃くなったころ、私の身辺にもひっそりとした変化があらわれた。
およそ数年ぶりに、私に彼氏ができたのだ。
出会いは私の職場である病院。外来の患者として来院していた彼がたまたま私の目のまえでハンカチを落とし、それを私が拾ってあげたのがきっかけだった。その場はそれきり別れてしまったけれど、後日病院のロビーで再会して連絡先を聞かれ、それで連絡先を交換した。
三度目のデートのあとに告白されて、今に至っている。付き合って大体二か月。ナンパから始まった、どこにでもあるような話だった。
その彼氏は、すでに勝手知ったるというような顔で我が家のソファーにどっかりと座ってビールを飲んでいた。すでに外で夕食は済ませている。勤務終わりに待ち合わせてのデートはたいてい夕食を済ませ、我が家にふたりで帰ってくる。爆豪くんほどではないにせよ私も一応ヒーローなので、あまり開けっぴろげに異性関係を公表することはできない。
この頃は海外セレブよろしく派手な異性関係を全世界に発信するタイプのヒーローもいるにはいるが、若手にはそうした自由は許されないのが常だ。そうした宣伝行為は独立してからのみ許される、いわば実力と人気を兼ね備えたヒーローの特権のようなものだった。
さておき、彼氏である。その彼氏はソファーに身を沈め、のんびりと缶ビールを煽って言った。
「へえ、あの爆心地とねえ」
彼の視線は私と、それからニュースにチャンネルを合わせたテレビとをゆっくり行き来している。テレビにはつい最近あった崩落事故の救助にあたる爆豪くんたちヒーローの姿が映し出されていた。話の流れで「爆豪くん、いつものことながら派手な仕事ぶりだなあ」とコメントしたところで、私と爆豪くんが知り合いであるという話に発展したのだ。
あくまでも爆豪くんのプライバシーに配慮したうえで、私は世間話程度に自分と爆豪くんが高校在学中からの友人だという話を披露した。まさか「マンションのエレベーターでずっと上まで上がっていけば爆豪くんに会えるよ」とも言えない。
相変わらずテレビをちらちら眺めるように見ながら、
「名前がヒーローっていうのも未だにぴんと来ないけど、あの雄英の卒業生なんてもっとぴんと来ない」
彼が言う。
「まあ、雄英の中だったら全然目立たない方だったからね。個性も派手な戦闘向きじゃないし」
卒業してから何度口にしたかしれない台詞をここでも口にして、私もココアのカップ片手にソファーに腰をおろした。今夜は休みといってもいつ呼び出しがかかるか分からない待機日なので、彼と一緒にお酒を飲むこともできない。ココア片手に彼の隣に掛ければ「いつ呼び出しかかるか分かんない仕事は大変だな」と他人事のように言われた。
雄英の中では目立たない方、というのは間違いなく事実であり、なおかつ私の本心でもある。けれどその言葉を、彼はただの謙遜としか受け取っていないようだった。またまた、と笑って彼は私を肘でつつく。
ヒーロー業界とは無縁の大学院生の彼にとって、雄英卒であるということだけでもすでに普通とは違うことという印象があるのだろう。そういう見られ方をするのは専門学生時代をはじめ、雄英卒業以来幾度も繰り返してきたことだ。だから今更どうと思うことはない。
けれど、爆豪くんと一緒のときにはその手の窮屈さを感じずに済むのにな、と比較して思うことはある。言っても仕方がないことだが、思わずにはいられなかった。
そんな思いが、余計なこだわりのようになって言葉として口をついて出る。
「だけど、ヒーローっていっても私は看護師の方が比重重いし。あんなメディアでばりばり取り上げれらてるようなタイプとは違うの、知ってるでしょ」
「それでも爆心地と友達なんだろ? 爆心地って孤高のイメージだったから、なんかいろいろ意外だな」
「孤高……まあ、そうだね。たしかに和気藹々ってタイプではなかったけど」
「若手だけど独断専行っぽいところもあるしなー。まあ、それでどうにかなっちゃうからいいんだろうけど」
そう言って、彼はまた視線をテレビへと戻した。私は喉元まで出かかった反論の言葉を飲み下し、それを胃の中に落とすようにココアをひとくちごくりと飲んだ。
たしかに爆豪くんは自分勝手なところも大いにあるけれど、彼の独断専行で窮地に陥るようなことは私の知る限り卒業以来一度だってなかったはずだ。爆豪くんは常に周囲の力量を把握するよう努めているし、そのうえで自分がどう立ち回るのが正しいかを理解するのも早い。もしも彼が周囲とちぐはぐな動きをしているように見えたのだとすれば、それは恐らく爆豪くんに問題があるのではなく、周囲が爆豪くんをうまく使えていないのだろう。まだ若手の範疇にある爆豪くんには、現場を取り仕切って指示を出すほどの裁量はないことだってある。
もちろんそういう中でも周囲と協調して仕事をすべきだというのが正しいのは分かるが、そこが爆豪くんの強みとうまくかみ合わないときだってある。それは仕方がないことだ。
プロになるより前から高い志を持ってストイックにやってきた爆豪くんを、私はよく知っている。ヒーローの在り方について茶の間でああだこうだと言っているだけの人間に、爆豪くんを不当に低く評価するだけの何があるというのだろう。そう思わずにはいられないのは、いくら何でも爆豪くんに肩入れしすぎなのだろうか。
少なくとも、付き合って二か月の彼氏にはもう少し甘い見方をしてもいいのかもしれない。
心の中で、そう自省した。彼はけしてヒーローの関係者ではないのだ。テレビの前の市民がヒーローの仕事ぶりについてああでもないこうでもないと言うのは当たり前のこと。それを知ったうえで、市民の皆様により理解してもらえるよう努めるのがヒーローの仕事のひとつ。
交友関係のほとんどがヒーローか、ヒーローと関係のある職種に限定されている私は多分、そういう意味で視野が狭くて「市民」に厳しくなってしまっている。そういう自覚は、一応ある。
「……なんか俺、まずいこと言った?」
ふいに困ったような声で問われ、はっとした。見ると隣に座った彼が、少しだけ困惑したような顔をこちらに向け、私の返事を待っていた。私が黙ってしまったことで、自分が何かまずいことを言ったのかと不安になったらしい。
「……ううん、何でもない。ちょっとぼおっとしてた」
胸のうちを言葉にすることはなく、私はそんなふうにして適当な言葉で誤魔化した。彼があからさまにほっとした顔をする。
「そっか。ここのとこ連勤だったもんなぁ。社会人は大変だ」
「院生だって大変でしょ」
中身のない言葉を交わして、どちらからともなく顔を寄せる。
くちびるが重なったときに聞こえていたのは、ニュースのキャスターが読み上げる「爆心地」というヒーロー名だった。
★
翌日、昼前に彼と一緒に家を出た。私は午後からの勤務、彼は自宅に帰るためだ。
「本当、ヒーローって忙しいんだなぁ。頭が下がるよ」
出がけにそんなふうに言われ、思わず私は曖昧に笑って返事を誤魔化す。そうした物言いが純粋な敬意ではなく、奥底にやっかみのようなものを孕んでいるということは、これまでの人生の中ですでに嫌というほど学んでいた。かりに彼にそのつもりがなくても、私にはそういうふうに聞こえてしまうのだから仕方がない。
それに彼に必ずしも悪意がないとは言い切れないことは、昨晩の爆豪くん──ヒーロー爆心地の活躍を報じるニュースに対する彼のコメントを聞いていても明らかだった。
私と彼の間には、ヒーローというものに対するイメージに少なからず齟齬がある。果たしてこの先、その齟齬をどこまで見て見ぬ振りできるかということを考えると、ただでさえ出勤前で重たい胃が、さらにちくちくと痛むような気がした。
我が家はマンションの二階なので、普段ひとりのときはマンションの外に出るにもわざわざエレベーターを待つことなく階段を使う。しかし今日は私が階段へと歩き出すより先に、彼がエレベーターのボタンを押していた。わざわざエレベーターを使わずとも、と思う反面、一緒にいる時間がちょっとでも伸びるのならば構わないかとも思う。
「今月はもう土日休みないんだっけ」
「うん。夜勤明けで実質休みっていうのはあるけど」
「会いに来ていいの?」
「いや、夜勤明けはきついからだめ」
エレベーターを待ちながら、そんな会話をする。付き合った当初から──付き合う前から、彼はかなりまめに連絡をとりたがる。会う時間を増やしたいとも言われるが、それも何となく気が進まず、こうして土日と休みが重なったときだけしか顔を合わせることもない。正直に言えばそのくらいの頻度でも私としては多すぎるくらいだし、連絡だってもっと適当に済ませたいくらいだ。
これも多分、ヒーローばかりの環境に身を置いているせいか──と、そこまで考えて、それはけして職業柄だけが理由ではないことに思い至る。ヒーローをしているからこそまめまめしく恋人と連絡をとったり顔を合わせたりする人たちだっている。不測の事態でドタキャンが続くこともあるからこそ、できるだけ連絡はこまめにというのは、私にも分からないわけではない。
だからこれは単純に私の性格と資質の問題なのだろう。そんなふうにして顔を合わせなければ繋がっていられない縁、絆──関係ならば、それまでだと心のどこかで見切りをつけてしまっているのは。
けして口に出すことのできない本音を頭の片隅でこねくり回していたところで、エレベーターが上階からおりてきた。ドアが開き、乗り込む。
エレベーターの中にはすでにひとり乗客がいた。
「チッ」
目が合うなり、爆豪くんはひとつ大きな舌打ちをする。着ているシャツの襟元からヒーロースーツが覗いているから、爆豪くんもおそらく今から出勤なのだろう。私と彼を一瞥してから、爆豪くんは一瞬だけもの言いたげに私に視線を投げた後、ふいと目を逸らした。
「……言いたいことがあるなら、どうぞ」
私がそう言うと、爆豪くんはふたたび大きく舌打ちをする。そして、
「二階に住んでるやつがエレベーター乗ってんじゃねえ」
と、多少理解できる部分はあるものの、しかしどう考えても不当でしかない文句を口にした。私の隣で彼が小さく鼻を鳴らす。もともと彼が爆豪くんいい印象を持っていないことは、すでに私も知っていた。
「いいでしょ。共益費払ってるんだから、マンションの設備を使う権利くらいあるよ」
「モブは権利ばっか主張しやがる」
「友達にモブとか言わないでよ。そんなんだから友達少ないんだよ」
「友達くらい山ほどおるわ!」
「それはさすがに嘘でしょ……」
爆豪くんがまた何か怒鳴ろうとしたところで、エレベーターが一階に到着した。爆豪くんはまだ文句を言いたげだったが、しかしそれ以上何も言うことなく憤然とした様子で肩を怒らせて先にエレベーターを出ていった。私と彼も、その後を少し距離をつくって歩く。
やがて爆豪くんがエントランスを出て行って見えなくなると、彼はようやく気をゆるめたように溜息をついた。
「俺、はじめて爆心地見た……すげえ威圧感……」
「そうだね、爆豪くん体格いいから近くにいると結構威圧感あるもんね」
今となってはすっかり私は慣れてしまったけれど、やはりはじめての相手にとってはただそこにいるだけでも威圧感を感じる存在なのだろう。
ヒーローコスチュームで顔が隠されていない素顔のときはむしろ、爆豪くんはどちらかといえば童顔なのでまだしも怖くない方だと思うのだが、それでも目つきの悪さや横柄な態度はとてもじゃないが大衆受けするとっつきやすさはない。彼のように端から爆豪くん──ヒーロー爆心地を柄が悪いと思って身構えている人間にとっては、爆豪くんが恒常的に放つ威圧感でさえひとしおのものだろう。
「まあ、慣れればそんな怖くないから」
フォローにもなっていない言葉で誤魔化す私に、彼がむっつりと眉間にしわを寄せた。
「いや、そもそも慣れるほど爆心地のこと知らないし、今後も仲良くなる予定もないけど、それより──爆心地と名前、同じマンションに住んでるんだ?」
その質問に、思わずぎくりとした。
爆豪くんと友達であることを話したとき、私は意図的に同じマンションに住んでいることを彼には伏せていたからだ。もちろんそれはプロヒーローである爆豪くんのプライバシーに配慮したうえで伏せていただけであり、私と爆豪くんとの関係に後ろ暗いところがひとつでもあるわけではない。
けれど爆豪くんをプロヒーローの爆心地としてではなく、私が高校時代から特に仲良くしている男友達として捉えたとき、その爆豪くんと同じマンションで生活をしていることを恋人である彼に隠していたというのは、なんとも言い訳しがたい不誠実へと反転してしまうのだった。
「あ、うん」
と、私はできるだけ何でもないことのように返事をする。
「いろいろあって住む場所に困ってた時、ちょうど爆豪くんがあの部屋紹介してくれて。相場より安い家賃で部屋借りられることになったから、それで」
「ふうん、それで」
含みのありそうな言い方で返事をされると、どうにも居たたまない気持ちになる。こういう感覚はすでに知っている。過去に付き合った恋人にふられるときも、大抵はこういう感覚を味わいながら破局を迎えたのだ。破局の理由はその時々によって違うし、爆豪くんがその原因になったことはこれまで一度もないけれど、何が理由であろうとも感じる気持ちに大した差はない。
ヒーローであること、看護師であること、爆豪くんと友達であること──それらはすべて等しく、私という人間の基礎を作っているものだ。
それとも、そもそもの根幹からして私はおかしいのだろうか。雄英高校で高校時代を送った私には、友達を作ること、友達として関係を築くことにおいて男女の差というものがそう大きな問題となりうるとは到底思えない。
そんな私の思考を察したように、
「前から思ってたけど、名前と爆心地って友達って言うわりにはちょっと──というかかなり仲いいよな。高校時代からの友達っつっても、男女でそこまで仲良くなることあるか?」
と彼が言う。言葉の調子はさりげなくても、発する語の中には猜疑心のようなものがちらちらと見え隠れしているのが伝わってきて、それがどうにも居心地悪い。また、胃のあたりがちくちくむかむかするのを感じる。
胃のあたりに感じる不快感を宥めすかし、私は答える。
「あるか? って言われても、現にあるんだから私には『ある』以外の答えなんか返しようがないよ」
それ以外に言いようがない。納得できないと言われても、私だってそれ以上にどう説明したらいいのか分からない。
「爆豪くんとは本当にただの友達だよ。ほら、雄英って全寮制だったから、爆豪くんとも高校三年間同じ寮で暮らしてきたわけだし。今更どうこうなるとか、そういうのはないよ」
「今更どうこうなるっていうか、最初のスタート地点がもう『ひとつ屋根の下』って時点で、俺にはよく分かんないけどな」
言葉はもはや、棘を隠そうともしていなかった。あからさますぎる棘を見て見ぬふりできるほど、私は寛大で鷹揚な人格を有してはいない。
だから反論するこちらの声も、否応なしに刺々しいものになる。
「……じゃあ、どうしてほしいの? 私にこのマンションを出てほしいってこと?」
「そうまでは言ってないけど」
けど、何だというのだろう。マンションを出てほしいとまでは言わないけど──ということは、そこまでではないにせよ、私に何かを望んでいるということに他ならない。
爆豪くんとの距離や付き合い方には何ら後ろめたいことはないのに。
マンションを出て、いつのまにか最寄りの駅のすぐそばまで歩いてきていた。私はこのまま職場まで歩き、彼は駅で電車に乗る。
しばし、沈黙が落ちた。私は何も言わなかったし、彼もまたむっつりと黙り込んで言葉を失っている。これ以上何かを言えば喧嘩になりそうな気がして、けれどぶつかって喧嘩をするほどの熱意も時間も体力もなく、私はただ、一秒でも早く駅につけばいいのにとそんなことばかりを考えた。
駅につけば、この沈黙からも解放される。
これ以上爆豪くんとの付き合い方について余計な口出しをされずに済む。
念願かなって駅についたとき、「それじゃあ」とそっけなく言った私を彼は呼び止めた。
「なに?」
「あのさ──名前にとっての爆心地って何なの?」
友達だよ、と。
短く答えた声は、自分のものとは思えないくらいに乾ききっていた。