★

 ──そんなわけで。
 どうにか爆豪くんから解放してもらえた私は、ひとまずキッチンでコーヒーとお茶菓子がわりのアイスを用意してからリビングに戻った。本来この部屋の主は爆豪くんなので、部屋を借りているだけの私がお茶の用意をするなどおかしなことでしかないのだけれど、しかし当の爆豪くんがむっつりとしてソファーから動こうとしないのだから仕方がない。ここは正当な部屋の主をあろうことか盗人呼ばわりした非礼を詫び、私がお茶の用意をするしかなかった。
 というか、そもそも爆豪くんは今は名古屋で職務にあたっているはずではなかったのか。どうして東京にいるのだろう。
 その事情を私が聴取できたのは、爆豪くんに出したお茶がすっかり冷めた頃だった。

 爆豪くんがテーブルの上に乱雑に投げ出したのは、ヒーローや芸能人のスキャンダルばかりを扱うとある週刊誌だ。表紙の日付を見ると、明日発売の号である。その表紙には「若手ヒーロー爆心地、出張先で深夜の密会!?」という見出しがでかでかと踊っている。
「くっそやってられっか!」
 今にも爆発を起こしそうな様子でぷりぷり怒っている爆豪くんと手元の週刊誌を、床に座ったまま私は交互に眺めた。
「えー、それじゃあスキャンダル撮られたから帰ってきたの?」
「帰りたくて帰ってきたわけじゃねえ」
「強制送還されたんだ……」
 私のその感想は爆豪くんの怒りの火に油をそそいでしまったらしい。途端に大声で怒鳴られたので、私は肩身の狭い思いで「ごめん」と返事をした。
 週刊誌に掲載された写真の爆豪くんは、ヒーロースーツのまま変装することもなく、今話題の新人女優と一緒にうつっていた。夜間に取られた写真なのでいまいち背景ははっきりしないが、周囲にはコンクリートブロックなんかが積み上げられているように見えるので、おそらくは爆破事件がまだ完全に片付いていなかった頃──爆豪くんが名古屋入りして割と早い段階で撮られた写真に違いない。
 女優さんが爆豪くんの方に背伸びをして身長を合わせ、そのうえでキスをしている──という写真らしい。たしかに角度によっては抱擁してキスをしているようにも見えなくはない写真だが、それは見ようによってはというだけの話であり、実際にはキスしているように見える角度でとられただけのまったくの未遂だというのが爆豪くんの主張だった。
「大体こっちゃ朝から晩まで馬車馬かってくらい働かされてんだ。現場でさかってられるわけねんだよクソが」
「まあそうだろうねえ……。というか一応ヒーローってお金もらって現地入りしてるんでしょ? いくら爆豪くんが世間からの好感度に興味がなくたって、さすがにそんな不謹慎やれないでしょ……」
「無給でもやらねえわ!」
 やはり「まあそうだろう」と思った。爆豪くんに限ってそんなだらしのないことをするとは思えなかったからだ。私の知る爆豪勝己くんという人は、傲岸不遜で多少対人関係に難があれど、仕事のこととなれば公私を分けることができ、そしてまた、女性関係のトラブルとは無縁の人だった。
 だから爆豪くんのことを疑ったり、まして軽蔑するようなことはしない。彼が潔白の身であろうことは想像に難くないのだ。むしろ問題はここから先の私自身の身の振りの方にあった。
「でも、そしたら私ここにいたらまずいよね」
 スキャンダル未遂事件の追及を早々に放棄して、私は溜息まじりに尋ねる。爆豪くんが「あ?」と怪訝そうに返事ともつかない返事をした。その怪訝さは不機嫌さの一種というよりは、本当に私の言葉の意味を理解していないような、そういう声のように聞こえた。
「だって爆豪くん女関係で東京に逃げ帰ってきたわけでしょう。そこに私みたいな女が周りにいたら、ばれたときに爆豪くん、余計に叩かれることになると思うよ」
 爆豪くんが東京に強制送還されたということは、恐らくしばらくはマスコミの目は爆豪くんの自宅であるこのマンションに向くだろう。そして東京に戻された理由が女性問題であるとなれば、たとえそれが冤罪であったとして──そして私との関係がけして色恋沙汰を挿しはさむ余地のないものであったとしても、世間はきっと納得しないに違いない。私が爆豪くんの家に居候していることがうっかりばれようものならば、恋人がいるにもかかわらずこの始末とさらに叩かれること間違いなしだ。
 遅かれ早かれこの部屋を出なければならないことは分かっていたものの、あまりにも突然のことだった。思わずまた溜息をついて爆豪くんの方に視線を遣れば、爆豪くんが何故か目を見開いてじっとこちらを見ていることに気が付いた。
「なに?」
「てめえ──」
「ん?」
「女か……」
「それはさすがにぶん殴るよ」
 普段は白衣の天使をしている温厚な私だけれども、己の存在そのものを揺らがすような失礼な発言に対しては、さすがに剣呑な発言をせずにはいられなかった。
 しかも腹立たしいことには、爆豪くんは本心から「お前が女だってことに今気づいた」顔で驚いているのだ。百歩譲って女扱いをされていないことはよくても、そもそも生物として女であることを失念されるのはあまりにも失礼が過ぎやしないだろうか。別に私は男っぽいキャラというわけでもないし、爆豪くんの前で女らしからぬ態度をとっているような覚えもないというのに。どういうことなんだ。
 ともあれ、そんなわけで急遽爆豪くんの部屋を借りることになったこの間借り生活は、爆豪くんのヒーロー人生初のスキャンダルによって、これまた急遽幕を閉じることになったのだった。そうなると、考えるべきは次なる住まいである。部屋を出ていこうにも住みつくあてがなければ出て行きようがない。寮の空き部屋はすでに返してしまったので、この短期間に再び貸してくださいと事務に掛け合うのも憚られた。
「爆豪くんまだ当分帰ってこないだろうと思って、部屋探しほとんどしてないけど……」
 すっかり冷めきったお茶の最後のひと口で口の中を潤し、私は言う。部屋に戻ってきたのは二十時前だったが、気が付けばすでに二十二時を過ぎようとしていた。爆豪くんのスキャンダル事件の顛末を聞いたりしていたせいで、思っていた以上に時間が経っている。
「明日明後日休みだし、そこでちょっとどうにかするね」
 朝から不動産屋さんでも覗いてみて、できるだけ早くに部屋を探そう。それまでしばらくはこの部屋の隅っこを借りるか、爆豪くん次第でホテル暮らしもやむを得まい。
「部屋、伝手あっからそこに頼んどいてやるよ。感謝しろ愚民」
「愚民」
「明日──明後日には引っ越せるだろ」
「そんなに急にどうにかなるものなの?」
「なる」
 自信満々に言って、爆豪くんはソファーから立ち上がった。
「とりあえず、今晩てめえはソファーな」
「はいはい」
「あ゛?」
「ソファーお貸しいただきありがとうございます」
 よだれ垂らしたら殴るからな、愚民。そう言って爆豪くんは部屋を出ていった。

 ★

 さすがというか何というか、こうと決めてからの爆豪くんの動きは迅速だった。その晩のうちにどこかに電話をかけたかと思えば、翌日の朝には部屋が決まった、と教えてくれた。一体どういう物件なのかと一瞬そら恐ろしく感じられたが、聞いてみれば何のことはない。爆豪くんが倉庫兼有事の際のために、このマンションでもう一部屋おさえている部屋をそのまま私に回してくれるというだけのことだった。
 だけのこと──とはいえ、そもそも部屋をふたつ借りているなんてところから私の理解を越えている。が、そこはプロヒーローとして備えがいろいろとあるのだろう。同一マンションの中にもうひと部屋というのは、どうやら一部の年狂的なシンパや部屋の前で待機するような悪質なマスコミへの対策のひとつなのだった。
 そんなわけで、急遽私にあてがわれたのは爆豪くんと同じマンションの、しかし爆豪くんの部屋とはまったく階層が違う、低階層の部屋だった。
 爆豪くんの部屋が地上十数階、対して私が新しく借りることになった部屋は地上二階。マンションの一階部分はロビーと駐車場になっているので、居住スペースとしては実質マンション内で一番下の階ということになる。
 それでも私のお給料では家賃が払えるかあやしいところだったのが、爆豪くんとマンションの管理人でどういう交渉があったのか、火災に見舞われた前に住んでいたマンションと大して変わらない家賃でそこに住むことができるようになったのだった。
 もちろん爆豪くんの部屋と比べれば部屋の広さも標準設備も雲泥の差だ。しかし私には文句を言うつもりもなかった。そもそも爆豪くんの部屋の設備は庶民の私の身には余っていたというのが正直なところだ。新しい部屋の設備も私にとっては十分なくらいで、部屋選びに関しては爆豪くんには感謝しかなかった。

 引っ越しの当日、爆豪くんが私の部屋に荷物をおろすのを手伝ってくれた。火災にあった前の部屋の方からはすでに無事だった家具家電、衣類や生活雑貨は運び込んでいる。それ以外のものは後日業者に頼んですべて処分してもらう手はずになっていた。新しく注文した家具は数日後に届く。
「狭ェ部屋」
 私の新たな住まいに入った瞬間、爆豪くんはそうコメントした。
 爆豪くんの部屋とはまず専有面積から違うので、当然ながら部屋の間取りも異なっている。爆豪くんの部屋は主室とは別に寝室と普段は物置代わりになっている書斎、そしてほぼ使われていない客室まであるのに対し、私の部屋は単身者向けのワンルーム。むしろ爆豪くんと同じマンションにワンルームの部屋があったことに驚く。
 爆豪くんがわずかばかり置いていた荷物はすでに撤去され、今は私のなけなしの家財用具一式が置いてある。殺風景で雑然とした印象だが、初日なので仕方がない。
 上階の爆豪くんの部屋から運び出した衣類の段ボールを抱え、私は爆豪くんの横を通り抜ける。部屋の壁一面につくりつけられたクローゼットは、今の私の物持ちではとても使い切れないほど大きく収納スペースをとってあった。
「狭くないでしょ。一人暮らしなら十分。というかね、爆豪くんが背伸びしすぎてるんだよ」
「あ?」
 私に続いて部屋に入ってきた爆豪くんが、こまごまとしたものがまとめて突っ込まれている段ボールをおろし、私を睨んだ。
「あんな広い部屋、ひとりで使い切れないんじゃないの?」
「使いこなしとるわ」
「書斎とかほとんど使ってないでしょ。それに私、爆豪くんの部屋に住んでるときほとんどリビングだけで生活してたもん」
 そう言うと、爆豪くんが何故か微妙に眉をしかめて見せた。そういえば爆豪くんによってリビングの隅に追いやられていたこのふた晩はともかく、爆豪くん不在で私が部屋を借りていた間どのように私が部屋を使っていたかの話は爆豪くんにしていなかった。そのことに気付き、少しだけ気まずいような気分になった。
 知られて怒られるようなこと、隠さなくてはならないようなことはしていなくても、自分のオフの過ごし方を知られるのはやはりちょっと気恥ずかしい。まして、爆豪くんの部屋で私がどのように過ごしどう振る舞っていたかというのは、なんとなく知られたくないことのような気がしてならなかった。
 今言った通り、基本的にはリビングしか使っていない。爆豪くんに何を言われたわけではないものの、やはり爆豪くんのベッドを無断で使うのは気が引けた。
 そういうのは、友達だからといってなあなあにしてはいけないことのような気がする。
 いや、むしろ友達だからこそ、だろうか。
「まあ、爆豪くんもさすがに寝室とか好き勝手使われたらいやだろうと思ったしね」
 気恥ずかしさや気まずさ、ばつの悪い感覚をすべて隠すようにそう言えば、爆豪くんはやはりむっつりとした顔でこちらに視線を寄越していた。もの言いたげなわりに、口はしっかりとへの字に曲げられている。頑として口を開こうとしない雰囲気だ。
「な、なに。その顔」
 言いたいことがあるならどうぞ。そう言ってこちらもむっとした顔をし返せば、ややあってから爆豪くんが低く声を発した。
「ソファーで寝起きしてたのかよ」
「まあ、うん。寒い時期でもないし。あ、でももちろん自分で用意した枕使ってたから、汚したりとかはしてないはずだけど」
 叱られるのは嫌なので先回りして弁解したが、爆豪くんはそんなことを気にしているわけではないようだった。私の弁解には眉ひとつ動かすことなく、彼はふんと鼻を鳴らして言った。
「早死にすんぞ」
「いや、多分だけど爆豪くんよりは長生きすると思うよ。私、後方支援で命大事に精神が染みついてるから、あんまり無鉄砲で無軌道なことしないし」
 切り込み隊長の爆豪くんとはそもそもの生き方が違う。
 そんな会話を適当に交わしつつ、私は転がっている段ボール箱の片づけの作業に入った。爆豪くんは爆豪くんで特にすることもなく、さりとて片づけ作業をこれ以上手伝う気もないようで、早速部屋に置かれたビーズクッションにどっかりと座って携帯をいじり始めている。その様子を横目に見て、私はひそりと溜息をついた。
 自宅謹慎中の身である爆豪くんにとっては、今の無為無策でただほとぼりが冷めるのを待つしかない期間というのは、きっと苦痛でしかないのだろう。今もマンションの前には記者が何人かいるのかもしれないと思うと、何の関係もない私までマンションの外に出るのが嫌になってくるほどだ。
 本来であれば、まだまだ若手と呼ばれる年齢のヒーローのスキャンダルにここまでの注目が集まることはない。そもそも知名度の低さから、週刊誌に記事を出されることすら珍しいはずだ。
 爆豪くんだから、これほどの記事になっている。
 爆豪くんの強さと派手さ、それからけして大衆や権力におもねることのないある種の潔癖さこそが、こうして彼自身の足を引っ張っている。
 それらは爆豪くんの持つ美徳であり、爆豪くんの本質だ。ヒーローとして活動する以上、それらが損なわれることは、恐らくこの先も有り得ないだろう。
 つまりこの先何度でも、こういうことはあるのだ。それが分かってしまうから、気持ちはどうしたって暗い方へ、湿った方へと流れていく。
 何もしてあげられないのは心苦しいと思う一方で、このような状況であっても爆豪くんと当たり前のように顔を合わせられる関係でよかったとも思う。そしてこれからも、誰が爆豪くんを責めようと、何が爆豪くんの足を引っ張ろうと、できる限りは爆豪くんを信じ、当たり前の関係を当たり前に維持していきたいと思うのだ。
「あ。そういえば職場で引っ越しそばにってインスタントのそばもらってきたんだけど。爆豪くんも一緒に食べる?」
 片づけをしながら爆豪くんに声を掛ければ、爆豪くんは顔を顰めて私を睨んだ。
「蕎麦ァ?」
「え、蕎麦嫌いだったっけ」
「嫌いじゃねえ。けど、蕎麦見っとクソうぜえやつの顔思い出すだろ」
「うざいやつ──ああ、轟くんのことか。いや、轟くんはうざくないけど」
「うぜえだろ」
「そういえば轟くんも、この間の爆破事件の対応でどっか応援行ったんだっけ?」
「九州」
「……爆豪くんってうざいとか言うわりにはちゃんと、轟くんの仕事ぶりチェックしてるよね」
「情報収集のついでだわ」
「いたっ」
 手近なところに落ちていたガムテープのゴミを丸めたものを爆豪くんが私に向かって投げつけた。それが私の頭に当たって、また床に落ちる。爆豪くんがハッと鼻で笑うのを聞いたら、爆豪くんに対していろいろ考えていたことが馬鹿馬鹿しく感じられ、私はつい先ほどまでの思考をすべて、なかったことにした。

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