現場の状況は混迷を極めていた。私たちが現場に向かっている間にも数度周辺のビルや建物で爆発があったらしく、現着したときにはすでに当初の事件現場のビルはぎりぎり倒壊を免れている──倒壊せずにいるのが不思議なほどの有様だった。
 辺り一帯にはがれきが散らばり、逃げ出した人々がぼや程度の火の手から逃げるようにして駆けていく。すでに救助活動を開始しているヒーローたちも、迂闊に近づけば自らが建物の倒壊に巻き込まれる恐れがあるせいでなかなか救助活動が進んでいないような状況だった。
 こういうとき、私の「個性」が救助の場で有用だということを、私はしみじみと実感する。しかし今はしみじみしている場合でもなく、現場を取り仕切るヒーローからの指示を受け、私は救助救援活動に入った。
「建物の中の救援に行ってきます! 救急対応には入れないのでよろしくお願いします!」
「建物自体、触らなくてもいつ崩れるか分からないような状態だ。『テレポート』があるといっても気を抜かず、自分の安全最優先で」
「はい!」
 病院から同伴してきたスタッフと言葉少なに打合せをしている最中にも、すぐ近くでまた爆発音が聞こえた。人の悲鳴が耳を刺す。心臓が肌の下でどくどくと鼓動をはやめるのが感じられる。必要以上の緊張は失敗のもと──そう自分自身に言い聞かせるように、私は大きく息を吐き出す。
 もうもうと立ち上る砂塵や煙から顔を守るようにマスクを目の下まで引き上げて、
「行ってきます」
 と大声を出す。ビルの見取り図を片手に、私は今にも崩れ落ちそうな建物の中へと向かった。

 ★

 それからの数日は、文字通り目の回るような忙しさだった。全国的に被害を出した今回の同時爆破事件は、来月に控えた国際的なサミットへの妨害行為を目的としていたとみられている──とニュースで報じられていたが、そんなことは現場で働く私たちにとっては些末な事情でしかない。
 動機がどうだとか犯人の心理がどうだとか、そういうことは私たちの職域には関係のない話だ。犯人一味の目的がどうであれ、その結果として人が傷つくことがあるのであれば──たとえそれがどれほど崇高な意志や理念のもとの活動であったとしても、ヒーローとして、そして医療職者として、私たちはそれを到底看過できるはずがないからだ。
 首都たる東京──私たちが真っ先に駆け付けた現場の被害がもっとも甚大ではあったものの、全国的な被害を被るということは当然、ヒーロー不足が嘆かれる地方にも影響があったということだ。むしろ対応に遅れが出るだろうことを見越して、ヒーロー配置の少ない観光地で爆破事件も起こした地域さえある。
 都心を活動の軸としているヒーローのうちのいくらかは地方の応援へと回され、一時的に都内のヒーロー密度は大きく下がった。それに合わせて軽犯罪も頻発し、ただでさえ爆破事件の被害者の受け入れでキャパシティをオーバーした医療機関は、増加の一途をたどる軽犯罪の被害者の受け容れに苦慮する羽目になった。
 斯くいう私も、勤務が終わって自宅に帰りつくまでの道中に何度かおかしな輩にからまれた。幸いにして私の「個性」はテレポーテーションなので大事には至らなかったが、それでも少なからず怖い思いをしたことには違いない。ほどなくして、夜間の通勤では職員全員がタクシーを使うように病院から正式に言い渡されることになった。

 この頃、爆豪くんは東京には不在だった。
 事件が起きた直後から、爆豪くんは事務所総出で名古屋の方の救助救援活動に駆り出されている。治安が悪化しているのは東京だけの話ではなく、そうした意味でも武闘派で知られる爆豪くんの事務所が名古屋に出張っていくことには、犯罪抑制の観点から大きな意味があった。

「なんか、疲れたとかっていうより、本当に疲弊してるって感じだよね」
 深夜の休憩室、たまたま一緒になったのは爆豪くんの先輩ヒーローであるファイバーさんの奥さんでもあり、私の先輩でもある主任看護師だった。カップラーメンを啜りながら言う主任の顔には翳のようにくまが張り付いている。主任はいつもは夜勤のときにも手作りのお弁当を持ってきていたことを、ラーメンをすする音を聞きながら私はようやく思い出した。
「旦那さん──ファイバーさんも名古屋ですもんね。大変じゃないですか、家とかいろいろ」
「そりゃあ大変だけど……でもまあ、うちの中より職場のが大変だよね。私も働きだしてもう十年近いけど、こんなの久しぶりだよ」
 連合がまだあった頃ぶりだね。と、主任は言って、またラーメンを啜った。
 敵連合があった頃──今もその残党や連合の名を勝手に名乗る輩は日本全国に潜伏しているが、しかしその最盛期と言われる時期、私はまだ一介の高校生だった。もちろん連合の脅威を感じれば恐ろしかったし、自分がいずれ守られる側ではなく守る側に立つのだと思うにつけ、足がすくむような思いがした。
 けれど、あの時の私にはすぐそばに雄英の仲間やプロヒーローでもある先生がたがいた。怖いのは私だけではなく、何とか自分を奮い立たせようと懸命にあがいているのは皆同じだった。
 今は違う。否応なく「守る側」に立ち、日々何とか呼吸だけを繰り返して生きているような、そんな心地がしている。私を庇護してくれる人は誰もおらず、自分の身は自分で守らなければならない。あの頃ともに励まし合った友人たちは、すでに最前線で自身の職務をまっとうしている。
 忙しく目の回るような日々は、どこか救いでもある。
 頭をフル回転させて身体を動かしていれば、恐ろしいと思うことも心細いと感じることもない。そういう邪魔な感情は、アドレナリンがすべて脳の隅っこに片づけておいてくれる。
「苗字さんも、寂しいでしょ」
 ラーメンをすすりながら、主任が言った。
「え? 何がですか」
「爆心地。あの子も名古屋じゃない。仲いいヒーローがすぐそこにいないって、何ていうか、ただ怖いとか寂しいのとはまた別の心細さがあるじゃない?」
 言われ、私は言葉もなく頷いた。主任の言葉は正しく私の今の心情を表していた。
 これまで私が直接的にヒーローとしての爆豪くんに助けてもらった経験はない。もちろん同じ地区で活動している以上は現場がかぶることはそれなりにあるが、そもそも私と爆豪くんでは現場における働きも立ち位置もまったく違う。
 前線でヴィランを追い詰め、救助の第一段階を担う爆豪くんと違って、私はあくまでヴィランの被害に遭う恐れの少ない場所での救助活動と治療が主な仕事だ。「個性」のテレポートも、使わずに済むことの方がずっと多い。
 だから、今ここに──同じ東京に爆豪くんがいてもいなくても、きっと私のすべきことは変わらない。爆豪くんによって私の安全が守られることはなく、結局は私は自衛できるだけのことをするしかない。
 それでも。
 それでも、私は爆豪くんがいないことでたしかな心細さを感じている。会おうと思えばいつでも会いに行ける──そんな距離に爆豪くんがいてくれることの有難さを、ひしひしと味わっている。
「でも、私はただの友達ですから」
 それがただの強がりであることは、私が一番よく分かっていた。主任もそのことを見抜いているのか、疲れた顔でかすかに笑う。
「友達でも、恋人でも、家族でも夫婦でも──そこにいてほしいって誰かに思うのは、根っこの部分では同じことだと思うよ」
 私の言おうとしていたこととは少しずれた返事が返ってきたけれど、わざわざ訂正するほどのことでもない気がして私は頷いた。
 自分ですべきこと、自分がすべきこと──そして自分がしなければならないことをするしかない。私も爆豪くんもお茶子ちゃんも、ほかのみんなだってそうだ。
 毎日くたくたになるまで頑張っているのは私だけではない。きちんと食べて、眠って、人と話す。仕事をする。そういうことを繰り返していくしかない。
「それにさ」
 ふいに小さく口を開いた主任に、私は首を傾げて「はい?」と返事をする。
「それに、いつもそばにいる人がそばにいなくて不安なのって、多分苗字さんだけじゃないから。爆心地くんはああいうしっかりした子だけど、それでも多分、連絡してあげたら喜ぶと思うよ」
 何気なさを装って発された言葉に、私はうっかり目上の先輩相手だということも忘れて思い切り怪訝な顔をしてしまった。
「ええ……? それはちょっと肯定しかねますが……」
「本当だって。ヒーローなんてやってる人間が、周りの人間に頼られて嬉しくないはずないもの」
 主任の言葉を聞きながら、私は主任から視線をそらすように頭上へと視線を転じる。
 無機質な素材の天井では、照明が白々と明るい光を発している。ブラインドの閉まった窓の外は深夜の暗闇。この時間は本来の爆豪くんならすでに眠りについている時間だが、きっと今は寝る間も惜しんで仕事をしているのだろう。
「連絡、かぁ」
 ぽつりと呟いた言葉に、主任は小さく笑っただけだった。
 休憩の最初に白衣のポケットに入れた携帯を取り出す。トークアプリで爆豪くんの名前を呼び出すと、私は暫しその画面を眺めた。
 最後の会話は事件の直後に交わした「仕事頑張って」「名古屋行く」の短い遣り取りだ。基本的に爆豪くんとの連絡は業務連絡がほとんどなので、緊急でもなければ必要もない連絡をとること自体少ない。
 束の間画面を眺めた後、短いメッセージをそこに打ち込む。逡巡のすえ、私はその文章を送信した。

 その休憩のうちに既読がつくことはなかったが、朝、夜勤を終えて確認した携帯には爆豪くんから「てめえに心配されるほど軟弱じゃねえ」とだけ返事が入っていた。
 短い文章ではあるけれど、何となくほっとして──それから少しだけ元気になったような気がした。見ると返事がきたのはつい三分ほど前のことだ。爆豪くんも夜の担当だったのだろうか、とそんなことを考える。出勤前に返信を打ったのだとしたら随分遅い出勤ということになる。
 ニュースで見たところでは、名古屋の方は人的被害こそほとんどなかったものの、経済的にも文化的にもかなり重要な施設や建物にかなりの損害が出ているらしい。爆豪くんの個性ではそういう部分の復興で役立つことも少ないので、おそらくはこの混乱に乗じて増加している軽犯罪の取り締まりに駆り出されているのだろう。
 着替えを済ませ、速足に病棟を出る。疲れてはいるが、それでも一刻も早く職場から離れたい気持ちの方が今は強い。
「名古屋の繁華街、物騒そうだしなぁ」
 爆豪くんからのメッセージを再度読み返し、行ったこともない土地の、完全なイメージというか偏見だけで独り言を呟いた。その瞬間、ふいに手の中の携帯が震える。私は慌ててハンズフリーに切り替え、着信を受けた。
「もしもし。爆豪くん?」
 表示されていた名前で応答すれば、電話の向こうから舌打ちが聞こえた。後ろにざわめきめいたものはない。やはり、爆豪くんも仕事を終えて詰所かどこかに戻ってきたところだったのだろう。
 しかし爆豪くんから電話とは珍しいこともあるものだ。用のない連絡をとらない以上に、私たちはメッセージ以外でのやりとりをこれまでしてこなかった。
「どうかした?」
「どうかしてんのはてめえだろうが」
「え?」
 自宅に向けて自転車をこぎつつ、私は訝し気な声で返した。爆豪くんがまた舌打ちをする。
「急に『元気?』とか寒気する連絡寄越してくんな。用件あんならはっきり言やいいだろ」
「いや、別に用件とかないけど。本当にただ、元気かなって思っただけだったから」
「あ゛ァ?」
「名古屋行ってそろそろ一週間でしょう。慣れないところで疲れてきたころなんじゃないかなって思っただけだよ」
 今度はむっつりと黙り込む爆豪くんだった。電話の向こうでむっとした顔をしているのがありありと想像できる。たしかにこれまで、最低限の事務連絡くらいでしか連絡をとりあってきていない私と爆豪くんだ。この不安定な状況でイレギュラーのような連絡を寄越したことで、何か心配をかけてしまってもおかしくなかった。
「でも、あれだね。声聞く限り、本当に元気そうでよかったよ」
 沈黙を誤魔化すようにそう言えば、爆豪くんは「だからてめえに心配されるほど軟弱じゃねんだよ」といつものようなぞんざいな口調で返した。爆豪くんは同期の中でもタフな方だったから、一週間の名古屋出張くらいではへばらないのかもし
れない。
 きこきこと自転車のペダルを踏みながら、名古屋で自分の仕事をはたしているであろう爆豪くんの気配に耳を傾ける。
「名古屋で美味しいもの少しでも食べられた?」
「は? んなわけねえだろ。仕事で来てんだぞ」
「だよね。やっぱりそっちも目が回るような忙しさかぁ」
「当たり前だ、わ──」
「……ん? 爆豪くん?」
「……」
「あ、さては何か美味しいもの食べた心当たりがあるんでしょ」
「あ゛ァ!?」
「あっ、図星のやつだ! 図星ときの『あ゛ァ!?』だ!」
「うっせえ! 差し入れの手羽先ちょっとつまんだだけだろが!」
「知らないよ!」
 ペダルを踏む足にいちだんと力がこもった。
 なんだか久しぶりに、こんなふうに何の憂いも無理もなく、けらけらと本心で笑った気がする。胸の中にわだかまっていたどろりと重いものが笑い声とともに身体の外に排出されていくような、そんな気がした。爆豪くんの声も言葉も、たとえ顔が見える距離でそばにいなくても、こうして私の心の頑なになっていた部分をほぐしてくれる。
 信号を渡り、角を曲がる。家まではあとワンブロック。
「それにしても、本当に日本中どこもかしこもてんやわんやだよねえ」
 サイレンを鳴らしながらものすごいスピードでわきを走り抜けていく消防車を見ながら、私は通話がつながったままの爆豪くんに話しかける。爆豪くんは「あ?」と相槌なんだかよく分からない声で返した。
「なんかもう、どこもかしこも物騒というか。病院も毎日救急でぱんぱんだよ」
「そろそろ落ち着くだろ」
「まあ、一週間も過ぎたもんねえ。そろそろ──」
 そろそろ落ち着いてもらわないと困る。そう言おうとして──けれど、私はその先の言葉を紡ぐことができなかった。
「……苗字?」
 突然黙った私に、爆豪くんが訝し気に声を掛ける。爆豪くんが私の名前を呼ぶことは珍しい。大抵はおいとかてめえとかで済まされてしまう。しかし今はそんなことを指摘していられるような状況ではなかった。
「爆豪くん──」
 自転車を自宅マンションの前から少し離れた場所で停め、私は爆豪くんの名を呼ぶ。
「私のマンション、燃えてるんだけど……」
「……は?」
「マンション……火が出てる」
 呆然と、同じ言葉を私は繰り返す。
 私の目の前には野次馬であろう人だかり。そしてその野次馬たちの視線の先では、私が雄英卒業以来ずっと住み続けているマンションから火の手が上がっていた。

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