与えること、許すこと、手放すこと
五日前から家を空けていた師が戻ってきたのは、私が北の国から箒で飛んできたのと同じ、空があかね色に染まった夕焼けの頃だった。「終わったよ」
収獲し乾かした薬草をサンルームで用途別に選り分けていた私に向け、フィガロ様は穏やかに笑う。指先に薬草の穂先が刺さり、ちくりと小さく痛んだ。
「ブラッドリーは無事に捕まえた。人間たちの前でちょっと引くほどぼろぼろにしてやったから、これで手下たちも当分は表には出てこられないんじゃないかな。いやぁ、我ながら久し振りに北の魔法使いっぽいことをしちゃったよ」
だから、そんな顔をしなくてもいいんだよ、と。フィガロ様はそう言って、のんびりとした歩調で私の隣までやってきた。私は薬草を作業台に戻すと、布巾でさっと手を拭う。その手をフィガロ様に伸ばしかけ、しかしその動作が師に対する不敬にあたることに気付き、そのままゆっくりと腕を下ろした。
サンルームは夜の始まりを告げる紫色を帯びた、深い朱色に染まっている。辺りには乾いた草のにおいが、息苦しさを覚えるほどに満ち満ちていた。暑いとか寒いとか、そういうことは一切なにも感じなかった。温もりも冷たさも、そこには何もなかった。
伸ばした手で触れない代わりに、私はそっと、視線を上げた。
「フィガロ様、……平気ですか?」
「うん? 何が?」
「すごく、お疲れのように見えるので。今、お茶を淹れます」
そうしてサンルームを出ようとする私を、フィガロ様がやんわりと制止する。
「いや、いいよ。それよりお酒がいいな。ワインがあっただろ?」
「あれは夕飯のときにお出ししようかと」
「ああ、そう。じゃあまあ、お茶でいいや」
それはフィガロ様らしからぬ、気の抜けた返事だった。いや、気が抜けているというよりは覇気がないというべきか。どれだけ物腰がやわらかなときでも、フィガロ様の言葉や行動の中には一貫して、永く生きた魔法使いとしての矜持のようなものが滲んでいた。
今のフィガロ様からはそれが、失われてしまったようだった。
キッチンに抜けようとした足を止める。そうして再び、フィガロ様と相対した。やはり、疲れた顔をしていた。憔悴しているとまでは言わないが、疲弊の色は隠しようもない。
「珍しいですね、フィガロ様がそういうお顔をなさるのは」
「まあね。ブラッドリーは気骨のある魔法使いだから。一方的に嬲るようなことをしたとはいえ、やっぱり簡単にとはいかなかったよ。まあ、敗ける気もしなかったけど」
そうしてフィガロ様は、ひとつ大きなため息をついた。
「帰り際、君の故郷の村を見てきたよ。多少荒らされてはいたけど、それでも酷いことにはなっていなかった。死者の眠る場所もほとんど手つかずだった。さしものブラッドリーの手下でも、その辺りは侵してはならないって感覚があったのかな。それとも単に目ぼしいものがなかっただけか。それは俺には分からないけど」
フィガロ様の翠の瞳は、私を通して、私ではない何かを見つめている。
「村人は今はだれも住んでいなかった。近隣の村に逃げのびた人たちがいるって話だっただけど、君があの村を離れて百年だしね。あの頃君を石にして差し出そうとした村人たちは、どうせもうこの世にいない」
ぽすんと、頭に重みがかかった。それがフィガロ様の手のひらだと気付くのに、数秒を要した。
「まあ、君にも色々と思うところはあるだろう。のんびりと考えを纏めながら、此処をでていく支度をするといい」
「え──」
「ナマエが自分の手で故郷の土地を取り戻すっていう、当初の悲願を果たすことはできなかったけど。弟子の悲願を師匠が果たすってことがあってもいいよね」
フィガロ様の声が、暗闇に沈みかけたサンルームの中で、ようやく柔らかくあたたたかく、まろやかに響く。
「この百年、よく頑張ったね。君は俺の自慢の弟子だよ」
★
当たり前のことだと言われれば、その通りと言うしかない。
私がフィガロ様に弟子いりしたのは、私を拾い育ててくれた養父母の眠る故郷の土地を取り戻したかったからだ。それをフィガロ様が、間接的にとはいえ果たしてくれた。
ブラッドリー捕縛を実行したのがフィガロ様であっても、そこにスノウ様とホワイト様が噛んでいることは誰の目にも明らかだ。そのおふたりが治める土地に、まさかブラッドリーの一派がのうのうと居続けられるはずもない。手下たちは今後、影に身をひそめることになるだろう。
私は遠からず、この土地を去り北の国の故郷へ戻る。
百年この地で暮らしたくらいでは、その地に不可欠の人物にまでなることは難しい。ここでの私に唯一無二の役割があったわけではなかった。産婆として、あるいは医師まがいの仕事を受けるには受けていたが、それは別に私でなくてもいい仕事だった。医師ならばフィガロ様がいる。産婆ならば、私が教え育てた人間の産婆が数人いる。
私が診なければならないような事情のある、何らかの問題を抱えた身重の母親も今はひとりもいなかった。
ここに居残ってもいいだけの理由が、私にはひとつも思いつかなかった。
私の出立はフィガロ様が戻られた三日後と決まった。フィガロ様以外には誰にも打ち明けない、ひっそりとした出立だ。華々しく見送られるのは性に合わないし、なにより自分自身、この出立を門出のように感じてはいなかった。
出立の晩、いつも通りとっぷりと日が暮れてから囲んだ食卓には、私とフィガロ様の好物ばかりが並んでいた。作ったのはもちろん私だ。「最後の晩餐みたい」と、料理を前にしたフィガロ様が軽口を叩く。
南の国での生活は、けして物質的に豊かとは言い難い。食材だって、ほかの国に比べれば足りないものばかりだろう。望んだ食材が常に手に入る土地ではない。気温も湿度も高い土地では食材のもちも悪いから、地域でとれる食材ばかり食べる羽目になることもしばしばだ。
それでも今日はどういうわけか、近所からやけに色々な差し入れがあった。そのおかげで食卓はいつになく彩りゆたかだ。ふたりで食べきれないほどの料理は、先に余分を取り分けてある。あとでフィガロ様からレノックスに差し入れてもらうつもりだった。
ランタンに灯された橙色のあかりが、食卓を控え目に照らしている。
「君の料理を食べるのもこれが最後かぁ。まあ死に別れるわけでもないし、いつでもまた食べられるんだろうけど」
差し入れられた鮮魚でつくったカルパッチョをつまみながら、フィガロ様が溜息まじりにぼやく。南の国では川魚はとれても海魚は珍しく、こうして鮮魚を生で食べられる機会は少ない。
「フィガロ様、自炊なんてできるんですか……?」
「君が来るまでどうしていたと思ってるの? 独り身の嗜みとして料理くらいできるよ」
「魔法を使わずに?」
「どうして魔法を使ったらいけないの?」
「……そうですよね。なるほど」
「もの言いたげだなぁ」
そう言えば、フィガロ様が淹れてくれるお茶はいつでも私が淹れたのとまったく同じ味わいだった。話の流れから、そんなことを唐突に思い出す。あれは多分、魔法でお茶をまるきり同じように復元させているのだろう。フィガロ様ほどの魔法使いであれば、同じ茶葉、同じ水を使えばそう難しいことではない。
私が淹れるお茶を、フィガロ様は随分と気に入ってくれていた。そしてまた、私もあらゆることに無頓着になりがちな師のためにあたたかなお茶を淹れること、身の回りのお世話をさせていただくことに、いつしか喜びを見出すようになっていた。
食器の触れ合う音が聞こえる。ふたり分の生活の音。百年の間に当たり前になっていたこの音も、明日にはまた私の生活から消える。フィガロ様の生活からはどうだろう。南の国にも魔法使いが増えつつあるが、フィガロ様は此の先、誰かと生活を共にすることはあるのだろうか。
誰かと共に、生きることを選ぶのだろうか。
私が百年過ごした、この場所で。
私を弾き出したあとの、この場所で。
「フィガロ様はこの百年、私と生活をしてどうでしたか」
ぽつりと口にした脈絡のない問いかけに、フィガロ様は愉快そうに目を細める。
「どうって、また漠然とした質問だなぁ」
そう言いながらも、問いかけの答えを誤魔化したり、茶化したりすることはない。ワインで喉を潤して、それからフィガロ様は口許に笑みをたたえたまま答えた。
「そうだね。まあ、楽しかったと思うよ」
「楽しかった、ですか」
「一緒にいて面白くないやつと百年も生活できるほど、俺は寛大で無関心じゃないよ」
ランタンの灯りを受けたフィガロ様の眼差しに、慈しみの火がゆらめく。
かつて世界の半分を征服した魔王の右腕。比類なき大魔法使いの兄弟子。土地を拓き、人間を生かし、その影であらゆる種を根絶やしにした開拓の祖。
しかし今、私の目のまえにいる男性からはそうした翳りは欠片も見受けられない。今ここにいるのはただ、南の国の魔法使いで、百年間私が師事し続けた魔法使いのフィガロ様だ。
「誰かと生活するっていうのも二百年以上ぶりだったけど、まあ、こういうのも悪くないなと思ったかな。君は時々口うるさいけど、きちんと分を弁えた弟子だったからね。ご近所さんからの評判もよかったし、俺も鼻が高かった」
フィガロ様がワインをぐっと飲み干す。空になったグラスを満たそうと、私はボトルに手を伸ばした。フィガロ様は鷹揚に、それを受ける。
「それに、可愛い女の子と暮らすのは気分がよかったというのもある」
「……思ってもないことをおっしゃるのはやめてください」
「本心だよ」
そう言うと、フィガロ様は私にもワインを勧めた。今夜は箒で北の国まで飛ばなければならない。何かあってはまずいので、ワインはまだひと口も口にしていなかった。
しかし、師のすすめだ。一杯だけ、と断って、水の入っていたグラスにワインを注いでもらった。
「君は可愛くて立派な、俺の自慢の弟子だ」
フィガロ様の言葉が、じわりと耳朶に触れる。
「結局魔法の方はそこまで上達しなかったけどね。でも大丈夫。君ならどこでだってうまくやっていけるさ。北の国でも、どこでもね」
★
たっぷりの休養と食事のおかげで、南から北へ帰る道程はかつて逆の道をたどったときに比べ、各段に快適なものだった。路銀も十分に持たされている。ほとんどは自分で稼いだものだが、出立に際しフィガロ様もいくらか金子を持たせてくれた。
二日目からは夜にはしっかり休みもとった。そうして四日ほど掛けて帰り着いた北の国の故郷は、フィガロ様の「多少荒らされていた」という言葉から想像していたよりもずっと、かつてのままの風景をそこに留め続けていた。
人気のなくなってうらぶれた村を、探索するように歩く。今日は吹雪は止んでいて、ちらちらと粉雪が舞っている程度だった。頭上には太陽が、雲に覆われることなく輝いている。
私の住まいは、すでにない。もともと村の一部の人間たちが押し入った際に、相当ひどく破壊されていた。跡地に足を運んでみたものの、すでに瓦礫も残っていなかった。
私の商売道具だった薬草や呪術の道具もまた、どこかへ持ち去られたのか、あるいは百年の間に雪に埋もれ朽ちたのか、何ひとつそこに残ってはいなかった。その場にしゃがみこんで目を皿にして探してみても、やはり同じことだった。
探索を諦め、立ち上がる。指先から足先まで、すでにじんじんとした痛みすら感じないほどに冷えきっていた。
「……とりあえず、拠点をどうにか確保しなくては」
魔法が使えない私には、即席で小屋を作ることもできない。溜息をつき、周囲を見回す。ひとまず、どうにか腰を落ち着けられる場所を探すのが先決だ。
そして、それが終わったら──
一瞬頭に浮かんだ長閑で色彩豊かな風景に、私は慌てて首を横に振る。一度ならず決意した思いだが、こうして北の凍風に晒されているとみるみるうちに気骨が萎んでしまいそうになる。余計なことを考えるのは、目のまえの仕事を片づけてからで十分のはずだ。
無人の村内でひとり気合いを入れなおすと、私は仕事に取り掛かった。
★
南の国での百年で、雪を見たことはない。
ひとりで眺める吹雪は寂しい。そんな子どもじみた感想を三百年生きてはじめて抱く。
新たに知ったこの感想を、今すぐにでも誰かに伝えたかった。
フィガロ様に聞いて、呆れ笑いしてほしかった。
★
箒から玄関口に降り立つと、ちょうど往診から戻ってきたフィガロ様と鉢合わせになった。フィガロ様の翠の瞳が、ゆっくりと、驚いたように見開かれるのを何とも言えない気持ちで見つめる。
ふた月前にここを発ったときと寸分たがわぬ様子のフィガロ様は、暫し黙って私を見つめていた。どこかの家から、夕飯のシチュ―のにおいが漂ってくる。
ふと、フィガロ様が困ったように発した。
「……何をしてるの」
「不肖の弟子、戻ってまいりました」
「どうして」
「故郷の土地は、また人が住めるように最低限の片づけと手入れをしてきました。何年、何十年先誰かがまたあの土地に住む日まで、私は時々お墓参りをするついでに様子を見る程度に留めて、自然の手に管理をまかせるつもりです」
「そうじゃなくて、いや、それもそうだけど」
君は北の国の魔女だろう、と。フィガロ様は呆れたように問いかけた。
まるで纏まりのない言葉を、そのまま口から垂れ流しているようだ。そういうことはフィガロ様には珍しい。師は狼狽えるということを知らないような、泰然とした人だった。
そのフィガロ様が、多少の狼狽を見せている。そのことが嬉しいようなこそばゆいような、不安なような気持ちになった。何せ私は建国の英雄となった兄弟子と比べることすら烏滸がましいほど、どうしようもなく無力な弟子だった。フィガロ様だって、こんな私を弟子として世間に知られることを恥じているかもしれない。もしかしたら北の国に帰っていいと言ったのだって、体よく厄介払いをしたかっただけなのかもしれない。
胸の中で芽を出す不安を振り払う。別れの日、フィガロ様はたしかに私を自慢の弟子だと言ったのだ。その言葉を信じ、私はふたたび口を開いた。
「北の魔女のナマエ・ガルシアは休業中です。今ここにいるのは南の国の魔法使いフィガロ先生の弟子をしている、南の国の魔女のナマエです──なんて、フィガロ様の真似をして恰好がつくほど、私はまだ南の国に馴染み切ってはいませんよね」
笑って自分の言葉を誤魔化して、私は半歩、足を引く。弟子として、師に対し十分に礼をとるために必要な半歩だった。
フィガロ様の瞳は、試すような視線をまっすぐ私に注いでいる。胸に芽を出す不安は、その翠にあてられたように怯懦へと膨らみ形を変えたようだった。心臓が、うるさいくらいに鳴っている。それでもここで半歩以上引きたくはない。それは私の意地であり、フィガロ様への意思表示だ。
「本当のことを言えば、ただ、ここにいたかったんです」
ややあって、私は答えた。
「ここに?」
「フィガロ様のおそばに」
フィガロ様はもう、驚くことをしなかった。百年の師弟生活を経て、フィガロ様は私の考えそうなことなど瞬く間に理解できてしまうのだ。北から戻ってくることも、もしかするとフィガロ様の予想の範疇だったのかもしれないと思う。
じっと言葉を待つフィガロ様に、私はふた月の間考え続けた思いを──百年の間にじっくりと育まれた気持ちを言葉に代え、口にする。
「この百年、たくさんのことを学ばせていただきました。魔女として生きるすべも、人間のなかで生きていくすべも、誰かの役に立つための、自分の居場所をつくるためのすべも。ですが私は結局、建国の英雄のように──兄弟子のように、優れた弟子にはなれませんでした。私では、フィガロ様がかつて訣別した我が兄弟子ファウストの代わりにはなれない。ファウストにできることでも、私にはできないことがあります」
魔法は結局、初歩の初歩までしか使えない。群衆を率い、国を興すため戦いに身を投じることもできはしない。おそらく生涯かけたとしても、フィガロ様にとっての特別な弟子になることなど、私にはできはしないのだろう。
フィガロ様の大切な「あの子」に、私はなれない。
「ファウストのように、あなたのもとを離れてひとりで立派にやっていけるほど、私は頼もしい弟子にはなれません。だから、フィガロ様。私にはフィガロ様が必要です。あなたがいない場所は寂しい。あなたがいないと、私は孤独です。孤独に飽かせてあなたを思い出し、ひとりぼっちのあなたを想像するのも、苦しいことです」
ようやくフィガロ様が、わずかに表情を変えた。不敬だと、不躾だと、そう思われたのかもしれない。仕方がないことだ。それだけのことを、私は臆面もなく口にしている。
あかね色の夕焼けが、なめるように私たちを照らしていた。北の国にはない色の空が、私たちを押しつぶさんとするように頭上に広がっている。
「フィガロ様、私はファウストの代わりにはなれません。ですがあなたがファウストには言えなかったことも、ファウストとはできなかったことも、何もかも受け止めます。それがどんな願いでも、私は師匠であるあなたの言葉をひとつ残らず聞き遂げます。けしてあなたをひとりになんてしない。私もひとりになんて、なりたくない。たとえどれだけのものを教えていただこうとも、あなたがいなければ、私には何もできません」
愛の言葉にも似た呪いの言葉を、私は訥々と口にする。馬鹿げていて、愚かしくて、考えなしの戯言だ。フィガロ様の百年の指導を無下にする泣き言だ。分かっている。分かっていても、止められない。
「フィガロ様、私のこの命が尽きるときまで、私をおそばにいさせてはくださいませんか。その、フィガロ様のご迷惑でさえ、なければ」
「ナマエ、おまえ──」
「私は生涯をかけてフィガロ様の弟子であり続けることを、フィガロ様のために生きることを『約束』します」
深々と頭をたれ、私はそう言った。
『約束』をした。フィガロ様のために生きることを。
さしものフィガロ様も、すぐには言葉が浮かばないようだった。そりゃあそうだろう。こんなのは馬鹿げている。魔法使いや魔女にとっての約束がどれほどの意味を持つものかなど、二千年もの長きにわたって魔法使いであり続け、数多の魔法使いを石に変え屠ってきたフィガロ様が誰より一番よく知っている。
一度口にした言葉は二度とかえらない。結んでしまった約束は、どう足掻いてもなかったことにはならない。
私はもう、フィガロ様のために生きるしかない。フィガロ様のためにしか、生きられない。フィガロ様の思いも主張も関係なく、今ここで、私は勝手にそう決めた。大魔法使いたるフィガロ様の力をもってしても、その約束はもうほどけない。
「顔を上げなよ」
暫時ののち、フィガロ様が溜息まじりに呟いた。おそるおそる顔を上げれば、心底呆れ顔をした師の目と目が合う。いくら約束をしたのが私とはいえ、フィガロ様は巻き込まれ、生涯私に尽くされてしまう羽目になっているのだ。うっかり逆鱗に触れていないとも限らないと思っていたが、意外にも、フィガロ様の表情はやさしさの滲む呆れ顔だった。思わずはっと息を呑む。
そういう顔を、私は知っていた。かつて私を育てた養父が時折私にして見せた表情。それとフィガロ様が今浮かべている表情は、ともすれば見分けがつかなくなるほどに、よく似ている。
愛おしげという顔に、ひどくよく似た表情だった。
呆然とする。そんな表情をフィガロ様が私に見せてくれたのは、今この瞬間がはじめてのことだった。百年ともに暮らしてきたのに、見たことがない顔でフィガロ様は私を見つめている。
しかし、呆然としていたのも束の間のことだった。フィガロ様のこれ見よがしの嘆息で、私は我に返る。
「あーあ、なんて愚かな弟子なんだろう」
そう言ってフィガロ様は、表情を呆れ果てたといわんばかりに顰めた。
「こんなところで、俺みたいな悪い男のために馬鹿な約束なんかして」
「私に扱えるわずかな魔法も、ほとんどはフィガロ様の教えで会得したものです。フィガロ様との約束のために賭けることに、何の心残りもありませんよ。むしろ賭けるには足らなかったのではないかと心配です」
「本当に、馬鹿な子だなぁ」
フィガロ様がやにわに腕を上げる。そうして私の頭に、手を置いた。子どもを宥めるときにやるように、優しく、やわらかく。
「俺は、君のために約束なんかできないよ」
「かまいません。ただ、おそばにいさせてくだされば」
「困ったなぁ。これじゃあ君を北に追い返すこともできないよ」
苦笑とともに吐き出された憎まれ口は、これ以上ないほどの優しさで満ちている。悪ぶって見せたところで、フィガロ様が私を受け容れてくれていることは明らかだった。
「さて、それじゃあお茶でも淹れようか。たまには庭に椅子でも出して、夜空を見上げて飲むのもいい。俺は椅子を出すから君はお茶の準備を」
そうして師は、診療所兼自宅の扉に手を掛ける。それからふいに振り返ると、困ったように肩眉を下げて私に言った。
「おかえり、ナマエ」
「ただいま戻りました、フィガロ様。これからもご指導のほどよろしくお願いいたします」