06

「何の話をしてんだ?」
「ネロ」
 私の背後から声が聞こえ、ブラッドリーが声の主を呼んだ。くるりと振り返ってみれば、店主さんが何とも言いがたい表情で私とブラッドリーを交互に見遣っている。
 行ったり来たりする店主さんの視線を追いかけ、はっとした。
 店主さんは私が誰とでも仲良くできるような性格ではないことを知っている。北の国の悪党であるブラッドリーと私がふたりでいるのを見つけ、ひょっとしたら心配してきてくれたのかもしれない。
「ブラッドリー、お前何かしたんじゃないだろうな」
 案の定、店主さんが尖った声でブラッドリーに詰め寄った。ブラッドリーはどこ吹く風でにやにやと笑うだけだ。
「何かってなんだよ? 失礼なこと言うんじゃねえ。ただ、ブラッドリー様が励ましてやってんのさ。てめえの父親が罪人だろうが、そんなのはよくある話だから親父のことなんか忘れて面白おかしく、自分のために生きていけってな」
「おまえ……」
「あれってそういう話だったんですか?」
 そう言われれば、そうと解釈できないこともない。が、ブラッドリーの話はあまりにも分かりにくかった。私とブラッドリーが似たような境遇という話ではないというのなら、世の中には悪人がたくさんいるから気をつけろとか、そういう話なのかと思っていた。
 しかし呑気なことを考えているのは私だけだった。私の隣に並んだ店主さんがブラッドリーに送る視線は険しい。私が此処ではじめの頃に店主さんに向けられていた、拒み距離をとるような視線ではない。もっと攻撃的で、棘のある視線だ。
 私を庇ってというよりは、店主さん自身の烈しい感情が呼び起こされているような。
 ブラッドリーは気にしていないようだが、彼もけして善人というわけではない。このままではいつ怒り出すか分かったものではない。
 喧嘩になれば、多分強いのはブラッドリーだろう。魔法のことは分からないが、そのくらいのことは想像に難くない。私のせいで店主さんが怪我をする羽目になるのは、絶対に嫌だった。
 そも、このふたりの喧嘩でなくても、私が賢者の魔法使いたちの喧嘩の火種になるのは、絶対に御免こうむりたい。
 身勝手なことを考えた私は、ひとまずふたりの間に入ることにした。
「あの、店主さんはどうして此方に?」
 今にも喧嘩が勃発しそうなふたりの間に立ち、私は店主さんの袖を引いた。店主さんは一瞬気勢を削がれたように表情をやわらげると、視線をブラッドリーから私へと移した。
「ああ、俺は──」
「おい、ちょっと待て!」
 そこに何故か、ブラッドリーが割り込んだ。店主さんの言葉を遮って声を上げたブラッドリーは、眉をつり上げ私に迫った。
「おい女。てめえネロのことは『店主さん』で、俺のことはブラッドリーって呼び捨てかよ?」
「あ、そういえば……」
「そういえばじゃねえ。俺のこともブラッドリーさん、いやブラッドリー様と呼べ」
「それは……」
 それは、どうなのだろう。正当な主張なのだろうか。
 意見を乞うべく店主さんを見上げると、店主さんはひとつ溜息をつき、
「お前なんか呼び捨てで十分だろ、ブラッドリー」
 はっきりと言い放つ。
 ブラッドリーは暫し店主さんを睨みつけていたが、やがて鼻を鳴らして舌打ちをした。
「チッ、白けたぜ。おいネロ、一杯やるから付き合えよ」
「はあ……? こんな昼間っからか?」
「いいだろ。この雨じゃなんもする気にならねえしさ。先行ってるからな」
 それだけ言い残すと、ブラッドリーは自分の居室へと大股で歩いて去っていく。店主さんと険悪な雰囲気だったわりに、この後部屋で一緒にお酒を飲もうと誘うのだから、ブラッドリーはやはりよく分からない人だ。店主さんの方もまた、呆れてはいるが誘われたこと自体を不思議がる様子もない。
 男の人にとっては、あのくらいの険悪さや喧嘩まがいの遣り取りは、ありふれたコミュニケーションのひとつなのかもしれない。
 去っていくブラッドリーの背中を見送りながら考えていると、隣に立った店主さんが大きく嘆息した。その声にはっとして、私は店主さんにお礼を言った。店主さんが、ブラッドリーに絡まれている私を見かねて声を掛けてくれたのは、もはや明らかだ。
 ブラッドリーが去って緊張が解けたのか、店主さんは心なしかほっとしたような顔つきをしていた。
「大丈夫だったか?」
「はい。あ、でもブラッドリーには私の方から話しかけたので、別に絡まれていたわけではないんですよ」
「そうなのか!? あんたからブラッドリーにって、どんな話があるんだ」
「ちょっと、悪い人の意見を聞いてみたかったもので」
 具体的に言うと、投獄中の生活がどんなものかを知っている人に、詳しい話を聞きたかったのだ。そう説明すると、店主さんは納得したように頷いた。それだけ話せば、私が父の身を案じてブラッドリーに話しかけたことは分かったはずだ。
 納得して頷くのと同時に、店主さんはわずかにばつの悪そうな顔をしてブラッドリーが去っていった方向に視線を遣る。おそらく、詳しい事情を聞かずにブラッドリーを悪者にしたことに、少なからず罪悪感を抱いているのだろう。それについてはあの場で店主さんに事情を説明しなかった私が悪い。あとで私がブラッドリーに謝るべきことだ。
 ブラッドリーといえば。
 彼が声高に主張していた意見が、今になって妙に気になってきた。
 片手を顎に当てて思案するポーズをとると、店主さんが腰をかがめ、ひょいと私の顔をのぞきこんだ。
「どうかしたのか?」
「いえ……ただ、ブラッドリーのこと、これからはブラッドリーさんって呼んだ方がいいんでしょうか」
 別に、呼びたくない理由があるわけでもないのだ。盗賊の首領というのは組織の中では絶対的な立場なのだろうが、社会的にはお尋ね者でしかない。そういう理由で、これまでは敬称をつけていなかっただけだ。ブラッドリーが望むのなら、様付けはともかく、ブラッドリーさんくらいには呼び方を変えてもいい。
 けれど私の疑問に、店主さんがあからさまに顔を顰めた。ひらりと手を振ると、ひどく面倒くさそうに言う。
「あんたが呼びたいなら好きにすればいいけど、あいつの言うことを聞いてやる必要はないよ。むしろ特別扱いなんかするとつけあがるぞ。今にあんたのことを、俺専用の小間使いとか言い出しかねない」
「それは流石に困りますね……。じゃあ、ブラッドリーのままでいいか」
「そうしておきな」
 そう言って笑い、店主さんはおずおずと私の頭を撫でた。ぽんと軽く添えられた程度の手の重みは、ほとんど何も感じないくらいにささやかなものだ。けれどその手のひらに、私の胸はぎゅっと狭くなる。
 もちろん店主さんは何の気なしにしていることだと、頭では分かっているのだ。それでもやはり、まったく意識しないようにというのは難しい。
 男の人に触れられて平常心で居られるほど、私は男女の付き合いの経験を積んでいない。それに店主さんは私が知る男性の中でも特に整った顔立ちをしている。ドキドキしても仕方がないことだ。
 こういうとき、カナリアさんだったらどうするのだろう。あるいは賢者様だったら。
「ああ、悪い。嫌だったか?」
 赤面しているのがばれないよう、私が顔を俯けていたことに気付いた店主さんが、ぱっと手を離した。私は恥ずかしがっているのがばれないよう、声の抑揚を抑えて、
「いえ……、そんなことは、ないです」
 とだけ返事をする。
「なら良かった」
 嫌だなんて、滅相もない。ただ、嬉しいというには些か刺激が強すぎる。
 実のところ、夜の中庭でふたりきりで晩酌をした日以降、私はずっとこんな調子なのだ。まるきり男性のことを知らないわけでもないというのに、店主さんを目のまえにすると、何故だか私は十五歳の娘のようになってしまう。言葉を交わすくらいならば平気でも、指先ひとつ触れただけで、胸がドキドキして仕方がない。
 私の胸はまだ落ち着きなく高鳴っている。
 しかしそのドキドキも、店主さんの手が離れた後にまで長く尾を引くものではなかった。というのも、私はまだ頭の中で、呼び名のことについてぐるぐると思いを巡らせていたのだ。
 すでにブラッドリーの呼び方については自分の中で結論が出ている。その時私が考えていたのは、店主さんの呼び方についてだった。
「店主さんのことは、店主さんと呼んでいますけど、……嫌ですか?」
 意を決して、私は尋ねた。
 雨の街での店主さんは、私にとっては本当に文字通り、美味しい料理屋の店主さんだったのだ。あの店で店主さんを名前で呼ぶ人はひとりもいなかったし、私も店主さんの名前を知ろうとすら思わなかった。
 けれどここでは違う。ここでの店主さんは、賢者の魔法使いの「ネロ」だ。私が店主さんを店主さんと呼ぶのを見て、ヒースクリフ様が不思議そうにしているのを見たこともある。
 私の言葉の意味を理解したのか、店主さんは小さく笑った。
「別に、なんて呼んでくれても構わない。でもまあ、今はもう店自体やってねえからな……その呼び名はそもそも間違ってるというか、正しくないんじゃないかって思わないでもないけど」
 やはり、店主さんも同じことを思っていたようだった。私が店主さんと呼ぶたび、店主さんは一瞬反応が遅れる。それでは呼び名として正しく機能していないも同然だ。
 先ほど頭を撫でられたときのように、私はまた顔を俯け視線を落とした。つむじのあたりに店主さんからの視線が注がれているのを感じる。すうはあと、何度か呼吸を整えてから、私はようやく口を開いた。
「それじゃあ、……ネロ」
 そっと、確認するように読んでみた名前は、緊張のせいか掠れて上ずっていた。はじめから名前を呼ぶのと、途中で呼び方を変えるのでは、名前ひとつ呼ぶのにも伴う感情の大きさが随分と違うらしい。そのことを私は今、はじめて知った。
「ネロ、と……呼んでみてもいいでしょうか。その、ほかの皆さんみたいに。それとも、馴れ馴れしすぎますか?」
 また距離感を間違えているだろうか。望まれている距離感を見誤っているだろうか。
 不安を感じながら、私は顔を上げ、店主さんを見上げた。
 しかしそれは杞憂だった。
 店主さんは意外にも、おだやかで柔らかい笑顔を浮かべ、私に静かな視線を向けていた。その眼差しのあたたかさに、心の中に居座っていた緊張がゆるゆるとほどけていくのを感じる。まだ完全に受け容れられたわけではなくても、今はもう拒まれているとは感じなかった。
 ああ、いいんだ。
 名前を呼んで、同じ場所で暮らしても。
 今ようやく、私は店主さんから此処で暮らすことを認められたような、そんな気がした。
「いいよ、ネロで。呼びやすいように呼んでくれ」
 店主さんは笑いの滲んだ声で返す。おそらく私は今、一世一代の大事業でも成し遂げたような顔をしているのだろう。店主さんの──いやネロの瞳には、そんな私を揶揄するような、見守るような、やさしい色が滲んでいる。
「じゃあ、ネロと」
「うん。俺もあんたのこと──」
 と、その時。
 言葉の途中でふいに、ネロの笑顔が固まった。何事かと不思議に思っていると、ネロはすいと私から視線を逸らし、暫し気まずげに目を泳がせる。
 やがて、ネロはやはり、気まずげに言った。
「悪い、あんたの名前なんだっけ」
 申し訳なさげなその声に、思わず私は噴き出した。つまるところ私が店主さんを「店主さん」としか思っていなかったように、店主さんもまた、私のことを雨の街の店の客のひとりとしか見ていなかったのだ。
 同郷だとか、顔見知りだとか言っておきながらも、私たちは今、ようやく互いに自己紹介をしたようなものだった。
「私の名前はナマエです。ナマエ・ミョウジ」
 自己紹介した私に、ネロがふっと優しく微笑む。
「ナマエか。いい名前だな。じゃあ、俺もナマエって呼ばせてもらう」
「はい」
 その時ネロが呼んでくれた名前は、これまで何度も呼ばれ続けてきたかのように、不思議なほどに自然と耳に馴染んだ。けれどその自然な響きは、窓を打つ雨の音と重なって、私の心を懐かしいような切ないような、そんな気持ちにさせるのだった。

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