バレンタイン
心浮き立つバレンタインデーも一段落し、その夜。「バレンタインのプレゼントです」
事前に用意した紙袋をネロに手渡すと、ネロは怪訝そうな顔でそれを慎重に受け取った。賢者様からバレンタインデーとは何ぞやということを聞いているネロだから、私がこうしてネロにプレゼントを用意してくること自体は想像していたに違いない。しかしそれがチョコレートではなさそうだというのは多分、推測の埒外だったはずだ。
「チョコ? にしては軽いというか」
「開けてみてください」
緊張とわくわくが綯い交ぜの笑顔で促すと、ネロはほんの一瞬の躊躇ののち、ゆっくりと紙袋のリボンをほどきにかかった。無骨な指先が丁寧に包装を剥がす。
その手が袋の中から取り出したのは──
「ん、これは──髪紐?」
「そうです。髪紐です」
袋から取り出したそれを、ネロが目の高さに持ち上げ矯めつ眇めつしていた。室内の淡い灯りを受け、髪紐は角度によっては幽かな光を反射する。
バレンタインデー。前の賢者様により異界からもたらされ、今の賢者様によって正しく魔法舎に普及した異文化は、普段からお世話になっている相手に感謝とともにチョコレートを贈る儀式のようなものらしい。それとは別に恋の渦中にある人物が、意中の相手に思いを伝えることもあるそうだ。
要するに、私からネロに贈り物をするにはうってつけの日だということだ。
「本当は私も常道に倣ってチョコレートを贈ろうかと思っていたんですけど……。でも、ネロは優しい人だから、感謝のチョコレートはいろんな人からもらっているでしょう? それに、厨房でチョコレートを調理しすぎて甘い匂いに胸やけしたって、ネロ少し前に言ってたから。だったらチョコレート以外のものの方が喜ばれるかなと。あっ、チョコレートでなくてもいいというのは賢者様からお聞きしたことで、ルール違反ではないそうです!」
「ルール気にするあたり、雨の街の住民だよな」
「それは仕方ないじゃないですか」
「別に責めてないよ。あんたっぽいなと思っただけ」
そう言ってネロは楽しそうに笑った。どうやら贈り物を喜んではもらえたらしい。ほっと安堵の息を吐く。狙って常道を外したとはいえ、喜んでもらえるかどうかは渡してみるまで分からない。特にネロは執着や未練を嫌うから、こうして形として残るものを贈ることには躊躇いもあった。
「髪紐ならいくつあっても困らないですし、かといって毎日同じものを身につけなければいけないものでもないですし」
「そこまで気を遣わなくてもいいのに」
「だって、渡す相手がネロだから」
「なんだその理由」
「それに私、プレゼントって慣れてないんですよ」
ネロがああ、と苦笑した。雨の街では贈り物の習慣がないということを、ネロもまたよく知っている。プレゼントのやりとりは、場合によっては贈収賄となりかねないため原則禁じられているのだ。
ともあれ、中央の国にはそのような規則はなく、魔法舎ではプレゼントの交換も珍しくない。私も時々、魔法使いたちが任務で行った先のお土産をいただくことがあるし、ネロからの餌付けは言うに及ばずだ。
ネロは、絡まらないように結わえて紙袋に入れていた髪紐を一旦ほどき、伸ばしたり引っ張ったりしている。
「これ、自分で編んでくれたの?」
「はい。シノに丈夫な紐の編み方を教えてもらって編みました」
「シャーウッドの森番仕込みね。たしかに丈夫そうだ」
「糸の束の中に光ってる糸があるでしょう。それはヒースクリフ様が作ってくださった金属糸なんですよ」
「へえ、そいつはすごい。で、シノ、ヒースと来て?」
「ファウストさんには祝福のおまじないを教えていただきました。それを掛けて完成です。とはいっても私に不思議の力を扱うことなどできませんから、本職の魔法使いたちからしてみれば気休めというかごっこ遊びみたいなものだと思うんですけど……」
「いや、嬉しいよ。ありがとう」
そう言ってネロは今使っている髪紐をほどくと、代わりに私が贈った髪紐で髪を結びなおした。もともとネロが使っていた髪紐の長さと同じくらいになるように編んだから、使い勝手はけして悪くないはずだ。ネロは満足そうに頷いて、結わえた部分を私に見せるように首を捻った。くすんだ水色の髪の束の根元で、ちかりと金属糸が鈍い光を放っている。自分で贈ったものではあるが、ネロの髪色によく似合っていた。
「それにしても」顔の正面を此方に戻したネロが、ぼやくような苦笑するような声音で言う。「なんというか、アレだな。俺以外の東の国の魔法使いたちのサポート万全っていうのが」
「皆さんネロのご飯と気遣いに日々感謝をされているとのことで、ご自分から手伝いを買って出てくださったのですよ」
「そういう時だけやたら団結するな、うちのやつら」
「ふふ、照れてますね」
「大体、あんたもあんただよ。東の魔法使い総出って、バレンタインにこんな大仰なもん貰ったら、俺は何を返せばいいんだ?」
照れ隠しのネロのぼやきに、しかし私は狼狽えた。
「えっ、ネロはチョコレートくれないんですか……!?」
てっきり自分はネロからチョコレートを貰えるとばかり思っていた。いや、もちろん自分がネロに間違いなく感謝されているなどと驕っているわけではなかったが、そうはいっても恋人だ。ネロの性格を考えても、私は絶対においしいチョコレートを貰えるのだと確信していた。今日などそのチョコレートを楽しみに一日仕事を頑張ったようなものだ。
「捕らぬ狸の皮算用ならぬ、貰わぬチョコのぬか喜びということですか……?」
「いや、用意はしてるけどさ……。けど、あんたのプレゼントに見合うようなもんかと言われると……」
「何を言いますか。ネロの手料理や手作りおかしは、私には何より嬉しいプレゼントですよ!」
勢い込んで断言する。およそ自分の言動に何一つ自信を持たない私だが、これだけは間違いなく、自信を持って言うことができた。この世界にネロの手料理以上に私の心を掴むものなど、今のところは存在しない。
私がいつになくきっぱり断言したからか、ネロは一瞬面食らったようだった。しかしすぐに眉を下げ、くしゃりと笑う。
「そういやそうだった。そういうやつだったよ、あんたは」
そう言ってネロは椅子から立ち上がると、備え付けのキッチンから手のひら大の箱をひとつ持ってきた。目の前に差し出されたそれからは、魅惑の甘いかおりが漂ってくる。はあぁぁ、と声にならない声が漏れ、ネロが一層面白がって笑った。
「俺からも、ハッピーバレンタイン」
(20210212)