番外編 その19

 気まずい沈黙が肌をちくちく刺すようだった。ただ安穏と流れる沈黙ならば苦にならないたちなのだが、そういうわけにもいかないらしい。空気に滲んだ敵愾心の、その理由に察しがついてしまうだけに一層居心地が悪い。
 元来こういう空気は苦手だし、そもそもこうした問題に巻き込まれるようなことが少ない。そりゃあ難癖付けられることも時にはあったが、色恋沙汰の面倒ごとは長年避けて通ってきた。さっさとパンを包み終えてくれないだろうか。そうすれば望み通り、俺だってすぐさま店を出ていくのに。そんなことを思い苛立ち始めたその矢先。
「意外だな」
 やおら店主が口を開いた。視線は手元に向けたままだったから、一瞬空耳を疑う。
 しかし多分、空耳なんかじゃなかった。ぽつりと放たれたひと言が、果たして独り言なのか、それとも返事を求めるものなのか。どちらとも判じかねた俺は結局、
「なにが?」
 と短い返事をした。店主が手元から視線を上げ、ちらと一瞥を寄越す。深い翠の瞳には、ナマエの前では見せなかった淀みが見え隠れしている。
 その淀みを瞳に残したまま、店主は溜息をついた。
「あんたがひとりで店に残ったことだ。俺とは話もしたくないって感じなのかと思った。さっきからあんた、俺と目を合わせようとしないから」
「別に、そういうわけじゃない。それにパンの感想はちゃんと伝えただろ」
「……どうも」
 パンの件と俺個人への感情は一応別問題ということなのだろうか。憮然としながらも礼を言う律義さは、やはり中央の国の人間っぽい。
 店主は暫し、口を噤んだ。もしかしたら俺の方から何か言うのを待っていたのかもしれないが、俺から話したいことなどこれといってありはしない。
「あんたら、恋人なのか」
 結局、店主の方からまた話しかけてきた。
「まあ、一応」
「なんだよ、一応って」
「いや、大した意味はないけど……」
 恋人なのか、付き合っているのかと、こうはっきり正面きって問われることは少ないから、何となく口ごもってしまった。最前リケにもまったく同じことを聞かれたが、リケに聞かれるのとでは訳が違う。魔法使いと人間がともに歩むことの困難をまだ知らないリケの問いには、この店主が本当のところで問おうとしている理屈は欠片も含まれていなかった。
 そうだ。リケの問いは「俺とナマエ」が恋人同士であるのかを問うているだけだった。この店主は違う。俺個人のことなど、店主にはまったく関係のないことだ。きっと向こうも俺に興味などないのだろう。引っかかりがあるのは俺が魔法使いであること。ナマエの恋人が魔法使いであることだ。人間が相手、ではなく。
「なんでナマエなんだ」
 店主がぽつりと、言葉をこぼした。
 予測できた言葉だったから、狼狽えたりはしなかった。
「あんたたち魔法使いは永遠の時を生きられるんだろ。だったら人間の女を好きになんてならなくたっていいじゃないか。同じように長いときを生きられる相手の方が、あんたにとっては都合がいいんじゃないのか」
「都合……」
「俺には、あの子しかいない。あの子以上に喜んで俺のパンを食べてくれる人なんかいないんだよ。あの子の笑顔が見たくて、試食なんか頼んでるんだ。分かるだろ?」
「それが好きになった理由? 自分のつくったパンを食べて見せてくれる笑顔が好きってか」
 必死になって言い募るわけではない。ただ淡々と、胸の裡を吐露しているだけのようだった。それだけに、店主の言葉が如何ほど真に迫っているのかがよく分かる。
「……笑いたきゃ笑えよ」
 自嘲するように、店主が言った。
「笑えねえんだよな、どこかで聞いた話すぎてさ」
 まったくもって、笑えるはずがなかった。もしも店主の言葉を軽薄だ、短慮だなどと一笑に付してしまったら、それはそのまま自分の言葉で自分の喉を突いているようなものだ。
 冗談じゃない、笑えるはずがない。それどころかきっとこの世界で俺だけが、この店主の思いを理解できる。俺だけがこの男とまったく同じ思いを、同じナマエという人間相手に抱えている。
 うまいうまいと言って俺の料理を食べてくれる人間ならば、探さずともそれなりにいる。俺の料理が一番だと言ってくれるやつだって、多くはないが、いるにはいる。
 それでも、ナマエは特別だった。俺の料理にああして全身全霊で応えてくれる相手など、俺はこの方ナマエしか知らなかった。愛を口にせずにはいられない薔薇を食べたとき、俺ではなく俺の料理への愛の言葉を紡いでしまうような人間だ。引っ込み思案で気が弱く、人付き合いもうまくはない。それでも、俺の料理を好きだから、俺の料理を食べれば分かるからと、ナマエはずっと俺を追いかけ続けてくれる。
 程度の差こそあれ、俺と店主が感じた思いは限りなく近しいものだ。ただ俺の方が、ナマエに料理を振る舞う機会に恵まれている。ナマエと先に出会っている。それだけのことで、俺は今ナマエの恋人になっているのかもしれない。何かが一つ違っていれば、この店主はナマエの恋人になれていたのかもしれない。
 それでも。
「生憎、魔法使いだって永遠に生きるわけにはいかない。多少人間より長く生きるのはたしかだが。そのことについて、というかそういう存在が人間と一緒にいることについて、あんたが色々と思うところがあってもおかしくはないよな。そりゃあ人間は人間同士、魔法使いは魔法使いや魔女とくっついた方が、何かと『都合』がいいだろうし」
「だったら──」
「けど、あんたがそう思うのであれば、それは俺じゃなくてナマエに言うべきだよ」
 俺の発したそのひと言に、店主の顔がさっと赤らんだ。言い過ぎているだろうかと、一瞬自制心が顔を出す。けれど口を噤むことはしなかった。何故なのかはよく分からないが、このまま黙ってはいられなかった。
「言わせてもらえばな、俺だってそのことはナマエに再三言ったんだ。言ったが、関係ないって突っぱねられた。突っぱねたのはナマエだ。俺は押しに負けた。だから今でも心のどっかでは、俺もあんたと同じことを思ってる」
 何をむきになっているのだろう。滔々と言葉を口から放つかたわらで、頭ははっきりと冴えていた。
 分かっている。こんなのはただ、むきになっているだけだ。とうに忘れた青臭い衝動で、本来俺が自らのうちからもっとも排除したがる情動だ。ナマエが俺のことを好きだなんて分かっているし、それが相当に執念深い感情であることも知っている。好きで居続けてもらえる自信など何処にもなくたって、ナマエは俺のことを好きで居続けるのだろうという傲慢な確信ならあった。俺の価値の問題ではない。ナマエの性格の、執念深さの問題だ。
 ──ああ、そうか。
 そのときふいに、俺は気が付いた。店主はきっと、俺がずっと思っていること、拭いきれない疑念をそのまま、俺にぶつけているのだ。
 魔法使いの俺が、人間のナマエと一緒にいてもいいものなのか。その問いには結局、俺は答えを出していない。
 だからついついむきになる。むきになって反論しなければ、俺は自分の身のうちに沸いたその疑念に、普段は見て見ぬふりをしている惑いに潰されてしまうから。
 魔法使いが、ナマエを好きでいてもいいのなのか。本当は人間は人間同士で幸せになるべきじゃないのか。分かっていて、俺はナマエを縛っているんじゃないのか。
 ナマエが俺を好きでいるからだと理由をつけて、ナマエに真実を教えないでいるんじゃないか。魔法使いと恋に落ちた人間の末路には、きっと幸福など何処にもありはしない。今その手に与えているように見せている幸福はすべてまやかしで、明日にでも消えかねない、泡沫のようなものなのだ。分かっていて、分かっているのに、それをナマエに伏せている。
 自分にとって、その方が都合がいいから。
「言いたきゃ言えばいいよ、魔法使いを好きになるのなんてやめろってな」
 ナマエに魔法使いだとか人間だとかは置いておこうと言われたから、俺はもうそのことを俎上に載せるのをやめてしまった。問題の先送り、見て見ぬふり、現実逃避。ナマエからの甘い誘惑に乗っかって、俺はもうその言葉をナマエにぶつけるだけの覇気を失ってしまった。
 もしもこの店主が、ナマエにそれを言ったらどうなるだろう。ナマエはまた考え始めてしまうのだろうか。そうなったとき、俺はナマエに何と言えばいいのだろう。
 好きに言えばいいと宣いながら、どうかナマエには言わないでくれと内心願う。ふたり掛かりで見て見ぬふりすると決めた事実を、正しい場所から見せつけるのはやめてくれ。叫びたくなる心を感じながら、俺はあくまで冷ややかな口調で言葉を続ける。店主はもう、何も言わない。
「ま、言えんだろうってことは分かるよ。言えばナマエはあんたの気持ちに気付くだろうし、そうすればもうこの店に来ることもなくなる。そういう人だよな、ナマエは」
 自分は距離を置かれたところで、困った顔をしながらなおも寄ってこようとするくせに。甘い顔をして寄ってきては、俺のことを唆す。それが分かっていてももう、俺はナマエを拒めない。
「……魔法使いは性根が悪いってのは本当なんだな」
「おい。先に突っかかってきたのはそっちだろうが。つーか包み終わったんならさっさとくれねえかな、それ」
 店主の嫌味に呆れた声で返事をして、俺は店主の手元を指さした。ついさっきまでは離しながらもきちんと動いていた手は、何時の間にかぴたりと止まってしまっていた。
「さすがに長居しすぎればナマエにどうかしたのか怪しまれる」
 わざとらしくナマエの名前を出してみれば、店主は心底腹立たし気に眉根を寄せた。少しばかりやりすぎたかもしれない。これでは魔法使いのイメージ改善に日々奔走しているアーサーの面目を潰したようなものだ。
 しかしまあ、恋敵を叩きのめしておくという大義名分があるのだから、今回ばかりは王子様も大目に見てくれるだろう。都合よく解釈し、俺はひとり納得した。
「なあ、魔法使い」
 店主が、不本意な呼び方で俺を呼んだ。
「俺がもし、ナマエのことをあんたから奪うって言ったらどうする。それでもそんな、クールな顔をしていられるか」
「どうだかね。その時になってみなくちゃ分からんよ」
「あんた──」
 けど、と。店主の声を遮って、俺は言った。
「今のところ、ナマエは俺の料理に首ったけだ。つーか俺自身よりも俺の料理の方がナマエに好かれてるくらいだよ。だからこそ、ナマエの舌を俺以上に満足させられる料理人が現れるまでは、俺は誰にもナマエを奪われる気がしねえな」
 ともすると俺自身を好きでいられるよりもずっと、それは信頼がおける愛情のあり方なのだった。俺は俺という魔法使いのことを少しだって信用できないが、俺のつくった料理ならば堂々と人に出すことができると思っているのだから。今のところ、ナマエの舌を俺より満足させられるやつなどいないとも。
「うまいパンをどうも」
 ようやく差し出されたパンの入った紙袋を受け取って、俺は急いでパン屋を後にした。ちりんと鳴ったドアベルの音は、俺の背に絡む視線にそぐわず軽やかな音だった。

 ★

 パン屋を出て園芸用品店に向かうために辻を曲がってすぐ、ばったりとナマエと鉢合わせになった。ナマエは目当てのじょうろを買えたらしく、路上だというのにじょうろを片手にぶらりと持っていた。クロエに作ってもらったよそ行きの衣装とちぐはぐで、何だかおかしな見た目になっている。
 しかし当のナマエはそんなことは気にもしていないらしい。
「あっ、ネロ。遅かったですね、今からパン屋さんに戻ろうと思ってたところでした」
「悪い。ちょっとパン屋の兄ちゃんと話が弾んでさ」
 俺の答えに、ナマエがきょとんとして首を傾げる。
「パン談義ですか? ネロが初対面の相手と話を弾ませるなんて、なんだかちょっと意外です。やっぱり料理人同士だと話が合うものなんですね」
「……そうだな、変に趣味が合っちまって困るよ」
 俺の苦笑の意味をナマエが知ることはない。やはり不思議そうな顔をしたままで、ナマエはそうですかと相槌を打った。
 陽はまだ空の高い位置にあるものの、来たときよりも影はわずかに伸びていた。吹く秋風も、少しばかり冷たくなってきたような気がする。
 びゅうと吹いた風に乗って落ちてきた黄葉が、ひらりとナマエの髪にとまった。それをそっと取り払ってから、俺はナマエの、じょうろを持っていない方の手を握る。ナマエの指先はあたたかく、俺の冷たい指先がほろほろと溶けていくようだった。
「さて、帰るか」
「そうですね。そろそろ夕飯の仕込みですか?」
「もうそんな時間か。出る前にパンも準備していかないとな」
「ネロはいつも多忙ですね」
 何故だか妙に楽しそうに言うナマエだった。久し振りにふたりで出掛けているからか、ナマエの機嫌が随分いい。そんなナマエの横顔を眺めていたら、パン屋の店主との遣り取りでささくれ立っていた心の表面が、徐々になめらかに凪いでいくような心持ちになった。
 ナマエは俺に態度が甘いと言うけれど、ナマエだってこの上ないほどに俺を甘やかしている。この心の凪だって、実際には何か問題が解決したからというわけではない。ただナマエがべったりと俺に甘いから、その甘やかさで心のささくれを埋め立ててしまっているだけだ。小さな無数のささくれは、ナマエの甘すぎるほどの愛情に埋もれてなかったことになる。真実そこからなくなったわけではなくても。
 しかし今は、それでいいのだろう。ひとまずはすべて先送りにして、泡沫の幸福を手に笑っていられれば。
「明日からしばらく会えないし、今日の晩は思う存分耽っておこうかね」
 俺のぼそりとした呟きを、ナマエはにこにこしたまま「ふける?」と繰り返す。
「リケ曰く、放蕩に耽るものらしいからな。恋人同士の男女は」
「ね、ネロ! リケに怒られますよ、もう……」
 そう言いながらもナマエの方だって、繋いだ手をぎゅっと握り返してくるのだから同罪なのだった。

prev - index - next
- ナノ -