番外編 その18

 魔法舎を出てすぐ、風がひやりと俺たちのそばを通り過ぎていった。晩夏の暑さはすでにない。木の葉は赤や黄色に色を変えつつあり、何処もかしこも秋の訪れを感じさせている。
「こっちです」
 ナマエが俺の手を引き、歩き出した。ごく自然に繋がれた手を眺め下し、先程のリケとの遣り取りを思い出す。
 俺もそうがつがつはしたたちではなく、ナマエは俺以外の男をほとんど知らない。初夜を迎えるまでのひと悶着から俺の心境が大きく変化したということもないから、恋人同士としての営みもけして多い方ではないのだろう。
 それでも以前に比べれば、ナマエも俺も相手に触れることに躊躇がなくなったと思う。それが良いのか悪いのかは別として、ナマエが躊躇なく手を握ってくれることは、やはり嬉しかった。かつて俺がナマエに触れることを恐れていたように、ナマエもまた俺に触れること──不用意に俺に触れ、結果として俺に拒まれることを恐れていたことは知っている。
 放蕩に耽る、なんてことはしなくても、今だって十分すぎるほどに幸せだ。未来に待っているあらゆる事柄から目をそらし続けていれば、少なくとも今この瞬間は幸福でいられる。ナマエのことを幸福にしているような気になれる。
「何を考えてるんですか?」
 俺の手を握るナマエが尋ねる。
 俺とあんたの幸福の話だよ、なんて気障なことを言えるはずもなく、俺はただ「秋だなと思って」と誤魔化す。ナマエも「そうですねえ、スープが美味しい季節ですねえ」と食い意地の張った呑気な返事を寄越した。

 散歩でもするように歩いていると、ほどなくして視界の先にレンガ造りの洒落た建物があらわれた。そう大きな建物ではない。むしろ普通の民家と変わらないくらいだろうか。ただひとつ、高く伸びた煙突が特徴的だった。石窯でパンを焼いているのだろうか。だとしたら、なおさら興味も沸いてくる。
「あそこですよ」
 ナマエが言った。指した先にはやはり、煙突の建物があった。
 木枠に曇り硝子が嵌めこまれたドアを、ナマエが押し開く。ドアベルの音が響くのと一緒に、香ばしいパンのかおりが漂ってきた。
 外から見たとおり、店はけして広くない。棚とテーブルの上に所せましと並べられたパン。カウンターの向こうでは店主が何やら作業をしていた。ベルの音に、顔を上げる。店主と俺の視線がぶつかった。
「こんにちは、アルフ」
 ナマエの挨拶に、アルフと呼ばれた店主の男ははっと視線を俺から逸らした。
「やあ、ナマエ──と、そちらは?」
「こちらはネロ。私の勤め先の料理人です」
「どうも」
 迂闊に体を動かしてパンに触れたくはなかったから、眼だけで会釈をした。店主も浅く頭を下げ、挨拶を返してくる。見たところ、ナマエよりも少し年上なくらいだろうか。がっしりとした体つきは、パン屋というよりも大工と言われた方がそれっぽい。
「勤め先っていうと、魔法舎の? それじゃああなたも魔法使い?」
「まあ」
「そうか……」
 含みのある視線を寄越した店主は、値踏みでもするみたいに俺を眺めていた。魔法使いと知られればあからさまに嫌そうな顔をされることも多いが、中央の国でこういう態度をとられるのは珍しい。何となく居心地悪く、今度は俺が視線を逸らした。
 そんな俺と店主の言外の遣り取りを知ってか知らずか、ナマエはにこにこと俺を紹介する。
「ネロはすごく美味しい料理をつくるんですよ。料理だけじゃなく、甘いものやおつまみもとっても美味しいんです。それにパンも」
「パンも?」
「本職にはかなわないよ」
 これは本音だった。俺もパンを作りはするが、その道を極めた人間にはどうしたって敵わない。俺のパンがそこそこにうまいのは、俺の料理に合うようにパンを焼いていることと、何百年も製パンを続けている賜物だ。
 しかしそんなことを今日会ったばかりの店主が知るはずはない。店主はナマエの言葉を聞いて、俺への視線をいっそう険しくした。
「そうだ、アルフ。よかったらネロにもひと口、試食のパンをいただけますか? もちろん余分に出していただいた分のお代は払うので」
「え? ああ、うん。もちろんだ。ちょうど今さっき焼き上がったところだよ。熱いから気を付けて」
 店主はそうしてすぐに、半分に割ったパンを一切れずつ、カウンターの向こうから俺とナマエに差し出した。紙袋ごしに伝わる熱が、店主の言うとおり焼きたてのパンであることを示している。
「いただきます」
 ためらうことなくひと口かじってすぐ、口の中にパンの甘味と塩っけが広がった。たしかに、うまい。パンの中には豆がごろごろと入っていて、それが何とも言えずいい風味を出していた。見れば隣のナマエもらんらんと目を輝かせている。
「これ、すごく美味しいですね。お豆がほくほくしてる。ね、ネロ」
「うん、うまいよ。塩っけも丁度良くて癖になる。どの時間の食事にも良さそうだし、これだけで間食にしてもよさそうだ」
 本心から誉めると、店主は得意げに胸を張った。
「そうだろ?」
 試食とは言いつつも、きっと自信作だったに違いない。そして俺のことをどう思っているかは関係なく、誉められれば嬉しいものらしい。なんというか、分かりやすい人間だった。中央の国に人間らしい。
 そういえば、俺はあくまでも料理を主体にしてパンを焼くことが多いから、こうしてパンだけで一食成立してしまうようなメニューを考えることは少ない。いいところサンドウィッチのパンくらいだろうか。魔法舎には石窯はないが、それでも参考にすれば似たようなものが俺でもつくれるかもしれないと、出されたパンをもくもくと食べながら思案した。シノやミチル、リケあたりは、こういうものを用意しておけば喜んでぱくつきそうだ。
 パン自体はシンプルな味だから、豆じゃなくても色々と応用がききそうなところもいい。もそもそとパンを咀嚼しながら考えていると、カウンターの向こうの店主が、パンを頬張るナマエに向け声を掛けた。
「そうだ、ナマエ。この間のパンはどうだった? オレンジの」
「ああ、あれも美味しかったですよね。結局お店でも出すことにしたんでしょう?」
「そうなんだ。ナマエが美味しい美味しいって食べてくれたからね、これはいけるぞと思って」
「そんなことを言われると、なんだかすごく責任重大な気がしてくるんですけど……」
 機嫌良さそうに笑う店主とは反対に、ナマエは情けなく眉を下げている。分かりやすく困っているときの表情だったが、店主は気付いていないようだった。
 何となく、ふたりがどういう関係──どういうバランスで付き合っているのかが透けて見えるような気がした。ここはナマエのためにひとつ、助け船でも出してやった方がいいんだろうか。そう考えた矢先、ナマエがそっと俺の腕をとった。そして、
「でも、今日はネロが一緒だから大丈夫です。私の味覚なんて大したものではないですけど、ネロの舌なら私よりずっと信頼ができますよ」
 ね、とナマエが笑う。俺はどうしたものか決めあぐね、曖昧に頷いておくに留めた。店主の顔を見ずとも分かる。おそらく今、店主は苦虫を噛み潰したような顔をしている違いない。
 直視はしないようにして、そっと窺うように店主の表情を見る。やはり俺の思った通りの顔をして、店主は俺とナマエを見つめていた。そしてその表情が指し示す事実はただひとつだ。
「なあ、ナマエ」
 そのとき、店主が発した。
「そのパンは焼き上がったのがいくつかあるから、よければ持って行ってくれ。今日はほかのパンはどうする? また大袋で買っていってもらえると、店としては助かるんだけど」
「そうですね……ネロ、どうします?」
 厨房の主であり食糧管理を一手に担う俺に、ナマエがお伺いを立てた。今回は俺がおおめに作り置きのパンを置いていく予定だし、討伐任務はそう日数がかかるわけでもない。たいていの任務は移動時間がネックだが、今回の現場は各国をつなぐ塔のすぐそばだと賢者さんからは聞いている。
 予定日数とこれから焼く予定のパンの量、そして魔法舎で食事をとるだろう面々の頭数を算段し、
「じゃあ、二斤かな」
 そう答えた。
「えっ、二斤だけなのか?」
「すみません。今回はそれだけでお願いします。あっ、あとさっきのお豆のを、あるだけいただけますか? これならネロたちも移動中に食べやすいですし、ほかの魔法使いの皆さんも訓練の合間に食べやすそうですよね」
「ん? ああ、うん。そうだな」
「アルフ、お願いします」
「……分かったよ。ちょっと待っていてくれ」
 憮然とした面持ちを隠そうともせず、店主はむっつり頷いた。そりゃあナマエを──というよりは魔法舎をお得意さんと見ていれば、たったの二斤しか買っていかないのは納得できないことだろう。多少、悪いことをしたかもしれないと罪悪感を覚えつつも、それでもできれば、自分でつくったものをナマエやリケたちに食べさせたいという思いが俺にもある。こればかりは料理人として仕方がないことだ。
 しばらくの間、ナマエとふたりでパンを包んでもらうのを待っていた。すると話の途中でナマエが、ふいに思い出したとでも言うように、ぱんとひとつ手を打つ。
「そうだ。そういえば水やり用のじょうろが壊れてるんでした。新しいものを買わないと」
「だったら今買ってきたら? パンは俺が受け取っておくからさ」
「いいですか? 少し行ったところの園芸用品のお店にあると思うので」
「了解。包んでもらったらそっちに行くよ」
 さっさとナマエを送り出し、俺はもくもくとパンを包み続ける店主に視線を遣る。馥郁たる香りで満たされたやわらかな色合いの店内は、ナマエの退店を機に、ぴんと空気が張りつめたようだった。

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