番外編 その16

 昼食の片づけを終える頃、ここでの俺の料理人としての仕事はようやく一段落となる。三時のおやつまではまだ間があり、この時間は一日のうち束の間の休息の時間だ。忙しいのは苦にならないし、むしろ暇を持て余す方が落ち着かない性分だから、これといって不満もない。
 先程から片づけのためにこまごま働くナマエを視界の端にとらえながら、作業机の下から丸椅子を引き寄せた。一足先に、自分のためのお茶をカップに注ぐ。
 秋のはじめの昼下がり。広い厨房はぴかぴかに磨き上げられ、換気のために半開きにした窓からは秋の気配がゆるやかに流れ込んでくる。空には雲ひとつなく、談話室からはリケとミチルが何やら楽し気にしている声が聞こえていた。
 穏やかというか平和というか、なんというか。うっかりすると、自分がどうしてこんなところで生活しているのかも忘れるような、のどかで麗らかな午後だ。自分で淹れたお茶がうまい。
 と、そうしてひと息ついたところで。
 俺はふと、作業机の上に見慣れぬ茶色の紙袋が置き去りにされていることに気が付いた。基本的に、この厨房に俺が知らない食材や道具が持ち込まれることはない。しかし現に、見知らぬ紙袋がそこには放置されている。
「この紙袋なんだ?」
 不思議に思いつつ紙袋に手を伸ばす。中身はどうやら空のようで、持ち上げてみたところでほとんど重さを感じない。紙袋のおもてには、濃紺のインクで店名と思しき文字が、何の飾り気もなくシンプルに印刷されていた。
「ああ、それ魔法舎のすぐそばのパン屋さんの袋ですよ」
 片づけを終えたナマエが、布巾で手を拭いながら近寄ってきた。ナマエの分もお茶を注ぐと、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「いただきます」
「どうぞ」
 律儀に頭を下げてからカップに口をつけ、落ち着いたところでナマエがふたたび口を開いた。
「そっか。ネロがいるときはネロが焼いてくれたパンを食べるから、食べたことないんですね。ネロがいない日にはそこでパンを調達してるんです」
「へえ。よく買うのか」
 近所にこんな店名のパン屋があっただろうか。俺の疑問に答えるように、
「最近できたお店なんです」
 ナマエがそう教えてくれた。
「ここのところはよく買ってますよ。美味しいんです」
「ふうん……」
 何気なく発された言葉を心に留め、俺は改めて紙袋を眺めた。
 俺もパンを焼くには焼くが、やはり本職には敵わないと思うことも当然ある。雨の街で店をやっていた頃にも、一時は馴染みのパン屋で店で出すパンをつくってもらっていたこともあった。
 それでも自分の料理に合うパンを突き詰めると、結局のところ自前で用意するのが手っ取り早い。そういうわけで、いつしかパン屋に出向くということもなくなって、店を食べ歩くとなれば料理屋かケーキ屋か、くらいのものになっていた。
 シンプルな紙袋から伝わる雰囲気は、俺の好みや趣味とも合致しそうだ。そう思いはするものの、ナマエの言葉に何か引っかかるものがあるのもまた事実だった。何がどう、というわけではない。ただ勘というか何というか、とにかく何かが引っかかっている。
 そうとは知らず、ナマエはいつも通り呑気な顔でお茶を飲んでいる。窓から吹き込む秋風が、ナマエの額にかかった前髪を小さく揺らした。
「でも、今の私はネロのパンを毎日食べられる環境にいるので」
 乱れた前髪を直しながら、ナマエが言う。
「ネロが作ってくれたパンを知ってしまったから、もうそのパンが私の中では一番になってしまったんですよね。本当、ネロと暮らしてるとどんどん舌が肥えて甘やかされていく感じ……」
「役得だろ?」
「そうですけども」
 そこでナマエは袖から伸びた自身の腕を見下ろして、
「着実に太ってますよ」
 溜息まじりに言うのだった。
 俺からしてみれば別に、そこまで太ったということもないように思う。というより、元々が痩せすぎていたのだ。食うに困って出稼ぎに来ていたくらいなのだから、今の方があるべき姿なのではないかと思う。それに、俺がつくった料理をもりもり食べてようやくふっくらし始めたナマエを抱きしめて眠るのは、料理人としても恋人としても当然気分がいいことだった。
 ともあれ──
 こほんとナマエがひとつ咳払いをして、話の筋を本題へと戻した。
「まあでも、料理もおやつも全ジャンル制覇のネロは殿堂入りで除外するとしたら、そこのパン屋さんは今のところ一番のお気に入りです。そういえば明日からまた東の国の魔法使いの皆さんは討伐任務なんですよね。またパンを買っておかないと」
「作り置き、多めにつくっていこうか」
 魔法舎を留守にする際には、多少の作り置きは置いていくことにしている。もっとも大飯ぐらいのブラッドや甘いものに目がないオーエン、他人のことを慮らないミスラといった北の面々がいるから、作り置いたところであっという間になくなってしまうこともあるらしい。
 パンは特にある程度日持ちするから、多めに焼いて置いていくこともやぶさかではない。
「それはありがたいですけど……でも、ネロが大変じゃないですか? 自分の出掛ける準備だってあるでしょう」
「いいよ。そのくらい」
 あんたに俺以外の誰かがつくった料理を、美味しい美味しいって食べられるのに比べれば──そんな言葉はさすがに口に出せずに飲み込んだ。
「それに多めにパンを焼いて行けば、あんたがわざわざパン屋まで行く必要もないだろ」
 メイドだって暇じゃないのだから、出掛ける用件は少ない方がいいに決まっている。しかしナマエは、にこにこと笑って手を胸の前で振った。
「あっ、でもどのみちパンの試食をしにいく約束があるので、パン屋さんに行かなきゃいけないのは変わりないんですよ」
「試食? なんだそれ」
「パン屋さんが新作を出す前に、味見を頼まれているんです」
「なんであんたが」
「何回か通ってるうちに店主さんと顔なじみになっちゃって。こういうのも役得っていうんでしょうか」
 ふふふと笑うナマエを見て、何とも言えない気分になる。パン屋の主人がどういう人間かは知らないが、大事な新作の味見をわざわざナマエに頼むものだろうか。ナマエは料理が苦手だし、特別に舌が繊細なわけでもない。一般的な大衆の代表として選ぶというのなら、ほかにもいくらでも適任はいるだろう。
 というかそもそも、ナマエはそういう人付き合いをするタイプではないと思っていた。東の国の人間は、そういうフランクな関係を築くのが苦手なことが多い。ナマエも魔法舎に来たばかりの頃は、俺に負けず劣らずの距離の取り具合だった。
 しかし今度もまた、ナマエは俺の胸中を見透かしたように言う。
「東の国なら、多分こういう人付き合いはしなかったと思うんですけど。でも、ネロは多分しばらくこのまま魔法舎にいるだろうし、私も東の国には帰るに帰れないですし。そうでなくても中央の国で過ごす時間はこれからも長いでしょう? できる範囲で、私も慣れていかないといけないなって。本当、今更すぎることなんですけどね」
 恥ずかし気に述べたナマエは、そうして照れ隠しのように微笑むと、
「さてと、そろそろ出掛けますね。パン屋さんに行かないと」
 そう言ってことさら元気よく椅子から立ち上がった。その手を俺ははっしと掴む。
「ちょっと待った」
 ナマエがきょとんとして俺を見た。空気はひやりとしているが、ナマエの手は心地よくあたたかい。その温度を惜しみながらも手を離し、俺はエプロンを手早く外す。
「俺も行くよ、そのパン屋」
 はあ、とナマエが、気の抜けた返事をした。

 ★

 夕方からはファウストたちとの約束があったから、出掛けるならさっさと出発しなければならない。ナマエが魔法舎のなかで着用しているエプロンドレスから着替えてくるというので、俺も出掛ける支度をしながら談話室でナマエを待った。談話室ならば玄関へ出るまでの通り道でもある。
 支度と言ってもバスケットを用意するくらいで、俺は着替えの必要もなかった。夕飯の買い出しは済ませてあるが、せっかく外に出るのならば何か買い足してきた方がいいだろうか。ナマエの話ではパン屋は魔法舎にほど近いところにあるというから、市場の方にまで顔を出すことはないのかもしれない。
 魔法舎は中央の城下のはずれに位置している。王族がおわす城に行くには馬車を使わなければならないが、少し歩けば市も立っているし店も多い。どこもかしこも活気があるから、たとえ馬車を使わずゆっくり歩いて行っても、そこそこに楽しめるだけの便利な立地だ。
 半面、魔法舎の裏手がすぐ森になっていることからも分かるとおり、魔法舎はけして城下の中枢に建てられているわけではない。もとは年に一度しか使われていなかったとはいえ、魔法使いたちが塒として利用するような施設。考えるまでもなく、町はずれに建てられているのも当然のことだった。
 いくら中央の国が魔法使いに対し他国より寛容であるとはいえ、すぐそばに魔法使いたちの塒などあっては人々の気は休まらない。まして、古い時代に建てられたのならば尚更だ。
 だから、と一概には言えないが、魔法舎のすぐそばには商店は少ない。王城のお膝元で活気のある土地なのに、魔法舎のすぐそばだけはぽかりと空洞になったように閑散としている。それが魔法使いと人間のいざこざを防ぐために必要な距離だと言われればそれまでだが、アーサーの御世になるまではきっと、この隔ては埋まらないのだろう。
 そしてその空洞の土地に出店するパン屋の主人は、果たして魔法使いを恐れないたちなのか、それとも単に考えが足らないだけなのか。いずれにせよ、何か気にかかるところがあるのは間違いなかった。
「考えすぎ──だといいけど」
 誰にともなく独り言ち、俺は小さく溜息をつく。
 自分の気持ちのことだから、自分が一番よく分かっている。俺が気がかりを感じているのは、単にパン屋が気になるというだけではないのだ。それがナマエによってもたらされた情報で、おまけにパン屋とナマエが俺の知らないところで親し気にしているからこそ、こうも気になっている。それはもう、火を見るよりも明らかなことだった。
 我ながら過保護というか、気にしすぎているというか。嫉妬をしているというほどではないにせよ、束縛じみているという自覚はあった。俺のこの感情に、ナマエ本人が気付いていなさそうなことだけが救いだ。
 付き合うまでのナマエは、とかく俺や周囲の顔色を窺うことの多い娘だった。特に俺の顔色を窺ってから一挙手一投足を決めるようなところがあって、俺から見ていても多少あやうい印象だったのだ。人を遠ざけたがるわりに、いろんなことを他人の気分に委ねすぎている。オーエンのことを頭から信じ込もうとしたときには、さすがに頭を抱えたくなった。
 しかし最近のナマエはこの環境にも慣れ、ついでに俺にほだされてもいて、以前よりは自由に振る舞っているように見える。もちろん気を遣わなくなったというわけではないから、いい傾向なのだろう。しかし如何せん、俺の方がまだナマエのあやうさを気にしすぎている。

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