距離感

 うららかな日差しが厨房に差し込む昼下がり。魔法舎は今日も物騒な爆発音や銃声を響かせながらも安穏とした空気に包まれている。
 今朝からヒースクリフ様とシノは、揃ってブランシェット領に戻っている。よって訓練のないネロとともに、私は自分の仕事をさっさと片づけ、ウキウキしながら厨房にこもっていた。
 ネロの料理の知識は膨大で、そのレパートリーは日替わりで食事を出してもらっても尽きることがないほどだ。それでもなお、ネロの食に関する向上心は留まるところを知らず、今日は魔法舎の書架の奥底に隠れていた料理本を見ながら、一緒に中央の国の伝統料理を再現する約束をしていた。
 作業台の上に分厚い料理本を載せ、私とネロは顔突き合わせて紙面を覗き込む。なにも今から作る料理を今日の夕食として食卓に並べるわけではない。半ば遊び半分、好奇心で作る料理だ。だからこそ、料理が苦手な私でも気楽にあれこれと口を挟める。
「それにしても年季ものの本だな」
 乱暴に扱えばページの端から崩れかねない本を捲りながら、ネロがぼやく。
「中央の国っつっても、ここに載ってるような料理はカインやアーサーじゃ食べたことねえんじゃねえかな。今じゃそうそう手に入らない食材も載ってるし」
「じゃあ再現は難しいですかね」
「まあ、代用できるものもあるから、まったく無理ってこともねえけどな。オズ──は北か。リケも食ったことねえだろうし、実食のときはファウストあたりも呼んでみようか」
「ファウストさんはそういえば中央の国のご出身でしたっけ」
「そうそう。まあ、嫌がるかもだけど」
 眉尻を下げて笑うネロを見て、そういうものなのか、と曖昧に頷いた。
 ネロが生粋の東の魔法使いでないことは聞いている。オズさんも元は北の魔法使いだし、賢者の魔法使いは必ずしも出身国によって召喚されるわけではないようだ。とはいえ、ファウストさんのことをあまり詳しく知らない私は、彼が中央の国の出身であるということしか知らない。どういう経緯で東の魔法使いになったのか、中央の国でかつて彼に何があったのかを知らないから、ネロの苦笑の意味を完全に理解することは難しい。
 何百年も生きていれば、私のようなたかだか二十数年しか生きていない人間には想像もつかないような、大変な苦労や辛苦もあるのだろう。それにファウストさんとて私なんかに事情を知られたくはないはずだ。なんとなくそういうふうに納得して、私は余計な思考を頭の外に締め出した。
「お、これなんかいいんじゃねえか?」
 ネロが挿絵入りのとあるページを見ながら言った。ぼんやりしているうちに、いつのまにか何ページも進んでいたらしい。言われてレシピを読んでみると、香草とベリーを使った窯で焼く料理らしい。
「なんだかキッシュみたいですね」
「そうだな。原型なのかも」ネロも肯く。
「ただ、これをレシピ通りに作ると生地がぱさつきそうなのが難点か……」
「伝統料理の再現ならそれでもいいと思いますけど」
「いやー、パサつくとか味がいまいちとか、分かってるのにそのまま作るのはちょっとさ」
「料理人の矜持が許さない?」
「ま、そんなとこ」
 ネロの気持ちも分からなくはない。いくらお遊びのような料理だとしても、作るからには美味しいものをと最善を尽くしたいのだろう。料理に対するネロの真摯さにはつくづく頭が下がる。
 しかし私の感心をよそに、ネロは何故だか怪訝そうな目をして、じっと私を見つめていた。
「なんですか?」
「いや、なんか……」
 どういうわけだか言い淀むネロ。そのもの言いたげな表情を見ているうちに、私はネロがどうしてもの言いたげなのか、何を言いたくて何を言いづらく感じているのか、唐突に察した。
 こほん、とひとつ咳払いをする。つられて表情を改めるネロに、私はわずかに口角を上げた。
「ネロが考えていること、当てましょうか。『自分が考えてることをあんまり当てられると、嬉しいより気まずいし、距離をとりたくなる』」
「……分かってて当てにくるの、何なんだよ」
「だってネロが言いにくそうにしていたから、私の方から言った方がいいかと」
 呆れた顔をするネロに、私も思わず苦い笑顔になった。
「まあ、ネロの気持ちも分かりますけどね。私も似たようなことネロに思うことがありますし」
「自分が思うのはいいけど、言われると普通にショックだな」
「お互い様です」
 特にネロは私よりもずっと視野が広く、他人の感情の機微にも敏い。私が何かをしようとしていたらネロが先回りしているということも少なくなく、そういうとき、私の胸には有難さや嬉しさが湧き上がると同時に、一抹の違和感が過ぎったりもする。
 自分のことを分かられすぎている。自分とネロが同じ心を共有しているかのような錯覚を覚える。それは単純に、怖いことだと思う。
 同じことをネロも思ったのだろう。
「意思の疎通が円滑すぎると、なんか怖くなるんだよ」
 ぼやくように、あるいは言い訳するように、苦々し気な声で呟く。
「自分と相手の境目が曖昧になるから?」
「そうそう。今のその受け答えも怖かったよ」
 そうして溜息をひとつ吐き、ネロは言った。
「あんまり癒着しすぎないようにしねえとな」
 たしかに、それはその通りなのだった。
 私とネロはいつか来る別離の日のために一秒をすらも惜しむけれど、それでも絶対に別離のときはやってくる。今を惜しむばかりに癒着しすぎては、離れたときに余計に苦しくなる。後悔がないくらいに愛を育みたいと思いながらも、過度の依存と癒着は避けなければならない。その加減は結構、むずかしい。
 ネロは人に執着することが苦手な人だから尚更だ。うまくやらなければ、これから先も長く永く、私がネロを苦しめる。
 想像するだけで気が遠くなりそうな未来のことを考えて、心許ないような気分になった。自分が死んで朽ち果てた先の心配をしなければならないというのは、思っていた以上に恐ろしくてつらい。
「そういう顔、すんなよ」
 ふと、ネロが私の頭にぽんと手を置いた。視線だけでネロを見上げれば、ネロも困ったように笑っていた。
「そうですね。とりあえず今は料理、つくりましょうか」
「だな。アレンジはするけど、できるだけ再現できるように一丁やってみるか」
 そう言って、ネロはレシピ本に記された材料をもとにパントリーの中を探り始める。この先のことを考えることから目を背けるように、私もまた、古い時代の料理作りの手伝いを始めた。

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