慣れないことをするネロ

 そういえば、と。ネロお手製のパウンドケーキの端っこをお供に、ささやかに夜のお茶をしていると、テーブルの向こうに座ったネロがふいに口を開いた。
「そういえば、俺と付き合ってることお袋さんに言った?」
「はい。恋人になってすぐに手紙で」
 取り立てて隠すこともなく、私は難なく肯いた。実家の母とはこのところ顔を合わせていないものの、遠方に出稼ぎにきている娘のつとめとして手紙の交換は定期的にしている。近況だけでは話題がすぐに尽きるので、ネロとのことを手紙に書くこともあった。年頃の娘を持つ母が何に気を揉んでいるかくらいは、さすがに察しがつくからだ。
 私の返事の呆気なさをどう受け取ったのか、ネロは紅茶をひと口含んで飲み干し、
「ふうん……。何か言ってた?」
 とやけに含みがありげに尋ねてくる。青みがかった琥珀の瞳がかすかに揺れ、私はネロが何を気にしているのかを理解した。理解したうえで、あえて気付かないふりをする。
「何かって?」
「だから、まあ、……いろいろ」
 歯切れの悪い言い方で、ネロはもそもそと言い淀んだ。要するに、私の母がネロとの交際を反対していないか、ネロはそれを気にしているのだろう。母は根っから東の国の人間で、魔法使いに対しても漠然と懐疑的なところがある。ネロのことは個人として好いているようだが、一度会ったきりのネロはそこまで知らなくても無理はない。
 とはいえ恋人相手に自分の母親の話をするのも気恥ずかしい。私はいつしか空っぽになったお皿にフォークを置き、つとめて何気なく答えた。
「ネロに迷惑かけないようにって、それだけでしたよ」
「……正直に言ってもいいよ」
「本当ですよ。ネロはうちの母の信用を勝ち得ていますから」
 魔法使いをよく思わない母ではあるが、まったく人を見る目がないというわけでもない。特にネロには以前一度世話になったこと、自ら「娘を頼む」とまで言ったこともあってか、交際を頭ごなしに否定するようなことはなかった。
 だからといって、諸手を挙げて応援しているというわけでもないらしい。依然疑わし気な視線を寄越すネロに根負けして、私はネロの言うとおり正直に打ち明けることにした。
「本当に嘘は言ってないですよ。まあでも、迷惑かけないようにっていうのは、ちょっとやわらかな表現にしました」
「へえ。ちなみに原文は?」
「『魔法使いを怒らせないように、うまくやりなさい』」
「物は言いようだな」
 眉尻を下げ、ネロが笑った。母がどういう人なのか知っているからなのだろう。それが母にとっての最大限の譲歩なのだと、ネロにも何となく分かるのかもしれない。
 もちろん、私としても諾諾と聞き入れたわけではない。もう少し言い方というものがあるだろうとも思う。それでも『うまくやりなさい』くらいならば、魔法使いの男性が相手でなくても言われそうな言葉だった。だからこそ、ネロにも隠さず言えるのだ。たとえ母の言葉の頭に「魔法使い」とついていても、それはさして大きな意味を持たない。
「まあ本音を言えば、魔法使いと親しくするのはやめろくらい言われるかと思っていましたから。なんだか拍子抜けではありました」
 そう言ってから、私はネロの表情を窺った。何かを無理に飲み込む顔ではなかったから、ひそかにほっと安堵する。
「みんな、ちょっとずつ変わろうとしているんですね。東の国の人たちも。和平会議のみなさんを見たわけではなかったけど、何かが変わりつつあったらいいなと思います」
「俺も変わった方がいい?」
「ネロはそのままでも素敵ですけど。何か変わりたいと思うようなことがあるんですか?」
「今までの俺なら絶対にしなかっただろうなってことを、しようかなって思ってるんだけど」
 そうしてネロは、悪戯っぽいような、それでいて少し緊張しているような、そんな不思議な面持ちで私を見つめた。首を傾げ、「絶対にしなかったこと?」と尋ねる。浅く頷いたのち、ネロは言った。
「そろそろあんたのお袋さんに挨拶に行った方がいいかな、とか」
「えっ」
 思わず目を見開く。ネロの発したその言葉が、私にとってはあまりにも思いがけないものだったからだ。
 驚く私に苦笑しながらネロは続けた。
「さすがに結婚がどうとかは言えないよ。いくら人間と魔法使いだってことを『置いておく』ことにしたって、実際俺は魔法使いだから約束はできない」
「それは、はい。心得ていますけど……」
 魔法使いが安易に約束をかわせないことは重々承知している。ネロが私と軽い気持ちで付き合っているわけではないことは分かっているが、結婚の約束をできるかどうかはまた別物だ。私とてそれは分かっているから、今まで一度もそういうことを切り出したことはない。今後も、どのような約束であれネロに強いる気はない。
 ネロが瞳で、私の気持ちへの理解を示す。
「けど、それとこれとは別問題というか、約束ができないのは俺の都合だろ? 俺も一応大事な一人娘をあずかってるわけだろ。やっぱけじめ……? つけた方がいいかなーと」
「一人娘って。私もう立派に大人なんですが」
「お袋さんにとっちゃ可愛い娘だし」
「そしてネロにとってはまだまだ子供みたいな年齢……」
「そこまでは言ってないけど」
 そうしてネロは、言葉とは裏腹にいたって真面目な声の色で、私の名前をそっと呼ぶ。
「俺はちゃんとした家族がどういうものか知らないし、そもそも家族ってものが何なのかもよく分かんねえけどさ。だけど、あんたのことはちゃんと大切にしたいし、あんたの親御さんのことも、できるだけは大切にしたいよ」
 そう差し出すように告げられた言葉は、これまで掛けられた言葉のなかでも最上級に甘く優しくて、そして愛おしさに満ちていた。まるで言葉が抱えられる感情の目一杯まで、あたたかさや柔らかさを詰め込まれているみたいに、ネロに紡がれた声はじんわり私の心に届いて響く。
 テーブルの向こうのネロが表情をくしゃりと崩し、不器用に笑った。
「なんだよ、その顔」
「……ネロのことがすごく好きでどうしたらいいか分からない顔です」
 恥ずかしさも忘れて呟けば、ネロがいっそう笑みを深めた。
「そうだな。どうしたらいいか分からないっていうなら、ひとまずお袋さんの予定でも聞いといてくれると助かるよ。近々店の様子も見に行きたいし」
 揶揄するように事務的なことを言うネロだった。慌てて肯いた拍子に、私の胸にぎりぎりまで詰まった「好き」が、うっかり溢れてこぼれそうになる。私もネロのことを大切にしたい。それだけ気持ちを新たにするだけでいっぱいいっぱいだった。

(20201206)

prev - index - next
- ナノ -