ネロとクロエ

 昼過ぎの魔法舎はどこか眠たげでしんとしている。ラスティカの部屋に行く前に紅茶の準備をしておこうと厨房に足を踏み入れたところで、
「仕立て屋くん」
 厨房の中にいたネロが、俺に気付いて声を掛けてきた。
「あっ、ネロ!」
 てっきり厨房は無人だと思っていたから、俺は大急ぎでネロに謝る。厨房はネロの聖域。ひと声掛けるのが礼儀だ。
「ごめんね、勝手に厨房に入って。外からじゃネロの姿が見えなかったんだ」
「いや、それは構わないけど……」
 中途半端に言葉を途切れさせたネロは、何を思ったのかその場で立ちすくみ、言葉も動作も停止させてしまった。気まずげな視線だけをただ、俺の肩あたりに向け続ける。何かあったのだろうか。首を傾げてネロの言葉を待っていると、ややあってネロは重たい口をゆっくり開いた。
「あの、さ……。仕立て屋くんに折り入って一つ、頼みがあるんだけど。よかったら話だけでも聞いてもらえねえかな。もちろん無理だったら断ってもらって全然いい」
 言いにくそうにするわりに、一気に畳みかけて話を終わらせたいような話し方。それが自分の言葉への自信の無さであることは、俺も自分の経験から何となく察することができる。ネロのような大人の魔法使いがそんな話し方をすることに驚きながら、俺は慌てて返事をした。
「ま、待って。まだどんな頼みなのかも聞いてないよ。それに、ネロからの頼み事なんて滅多にないでしょ?」
 ネロともはじめの頃よりは打ち解けたものの、特別に親しくしているというわけでもない。東の魔法使いたちはどちらかといえば一人を好むみたいだし、こうして頼み事をしてくることなんて恐らくはじめてのことだ。
 何でも器用にできそうで、人に助けを願うことが苦手そうなネロ。そのネロが俺なんかに頼み事だというのだから、きっとのっぴきならない事情があるのだろう。俺に何ができるかは分からないけれど、聞きもせず闇雲に断ったりはしたくはなかった。
「どんな頼みか分からないけど、俺、できれば聞きたいな」
「……そう言ってもらえると助かる」
 ようやく表情をかすかにゆるめて、ネロが小さく笑った。それはどちらかといえば困ったような笑みだったけど、生憎俺にはネロが何に困っているのかまでは分からなかった。
 ひとまず、ネロに勧められて厨房の丸椅子に腰かけた。厨房には昼下がりの日差しが燦燦と差し込んでいる。その光に一瞬ラスティカの顔が脳裏を掠めた。
 ラスティカは今頃部屋で俺を待っているだろうか。いつも部屋をたずねる時間まではまだ余裕があるし、そもそも時間をきちんと決めて会う約束をしているわけじゃない。ラスティカのことだから、万が一俺が遅れてもきっとのんびり待っていてくれるとは思うけれど、ネロと話をするのならばラスティカにひと声だけでも掛けに行ってからの方がいいかも──
 そんな俺の思考に気付いたのか、「大した話じゃないからすぐに終わるよ」とネロが苦笑した。
「頼みって言うのは、一着衣装を仕立ててほしいんだよ。もちろん個人的な頼みだから、ちゃんと礼はする。正直ちゃんとした衣装の価値は俺には分かんねえから、そこはあんたの言い値でってことになるけど」
「お礼なんて気にしなくていいのに」
「いや、そういうわけにはいかないだろ。それに、きちんと礼を受け取ってもらえた方がこっちも気兼ねなく頼みやすいんだ」
 当然のことを確認するように、ネロは淡々とそう告げた。果たしてそういうものだろうか。俺としては服を作らせてもらえる、俺に服を作ってほしいと思ってもらえるだけで十分すぎるほどにお礼をもらっているようにも思える。
 とはいえネロがお礼をした方が気楽というのであれば、きっと受け取った方がネロのためなのだろう。この魔法舎にはネロ以外にも、きちんとお礼を払ってくれたうえで俺に衣装づくりを頼む人間はいる。どちらかといえばそれは、心の遣り取りに近い。
 俺はネロに視線を合わせると、できるだけ頼りがいがあって見えるようにしっかりと頷いた。
「そういうことなら喜んで」
 途端にネロはほっとしたように、あるいは肩の荷が下りたように長く息を吐き出した。
「よかった、助かるよ」
「うん、それに今は特に差し迫って衣装を作らなきゃいけないようなこともないから。そうなると、いつまでに作ればいいのかな。仕立てるっていうと、ネロの衣装だよね? どんな衣装がいい? 普段のエプロン姿もネロらしくて機能的ですごくいいと思うんだけど、折角だから──」
「待った待った! そうじゃない」
 うきうきと話を始めた俺の言葉を、ネロが慌てて遮る。先程までのほっとした顔立ちはどこへやら、今はまたさっき最初に厨房で顔を合わせたときのような硬い表情に戻ってしまっていた。
 もしかして俺、また何かへまをやらかしてしまったのだろうか? にわかに不安でざわめく胸をどうにかおさえこんでいると、ネロはひとつ重たい溜息を吐き、言った。
「違うんだ。作ってほしいのは俺の衣装じゃなくて」
 俺の恋人の服だよ、と。気恥ずかし気に告げたネロの顔を見て、俺はようやく、何故ネロがこれほどまでに居心地悪そうにしていたのかを理解した。

(20201208)

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