やきもきするネロ

 日課の訓練の休み時間、ファウストが静かにそばに寄ってきたのは、俺が木陰でぼんやり物思いにふけっていたときだった。
「何かあったのか」
 短くさりげなく、しかし隠しきれない気遣いを滲ませた問いかけに、俺はむしょうに居た堪れないような気持ちになった。視線の先ではヒースとシノが何やら魔法でじゃれ合っている。元気な若者を眺めながら、俺はあくまでさらりと「何でもないよ」と返事をした。
「君のそれは、何でもないという顔じゃないだろう」
 一瞬呆れた顔をして、ファウストが反駁する。しかしすぐに踏み込み過ぎたと思ったのか、
「いや、まあ何でもないというならそれでいいんだが」
 却ってこちらが気まずくなるくらいに呆気なく、ファウストは言葉を引っ込めた。束の間、気まずい沈黙が流れる。休憩時間は始まったばかりで、子供たちは俺たちの間に流れる微妙なぎこちなさに気付きそうにもない。
 同じ木陰に腰をおろしたファウストが、後悔じみた面持ちでむっつり黙りこくっているのを見て、俺は溜息まじりに口を開いた。
「……先生にそんな顔されると、なんか俺がすげえ悪いことしたみたいだろ」
「別にそんな顔って」
「してるよ。ファウストは結構全部顔に出る」
「そんなこと、今まで言われたことがない」
「そりゃ周りのやつが親切だったんだな」
 そもそもの出自からして、本来は公明正大で素直な人格なのだろう。今も俺の言葉に納得しない顔で眉根を寄せている。どう見ても考えていることが丸わかりだった。
 ファウストだってけして若い魔法使いではない。それでも俺より年下であることはたしかだ。後輩をいじめる気にもならず、俺は「大した話じゃないよ」と笑ってみせた。
「別に、嫌なら無理に話さなくてもいいが」
「まあ、ざっくり言うと恋愛の話?」
「……悪かった。聞かないでおく」
「はは、そう言うだろうと思った」
 その手の話題に疎く、奥手なファウストは、先程までとは別の種類の気まずさをあらわに顔を俯けた。ようやく子供達がこちらに駆け寄ってくる。この話題がこれで終わりになることに内心安堵して、俺はヒースたちのため軽食の準備に取り掛かった。

 それにしても、ファウストの慧眼は案外侮れない。昼間の遣り取りを思い出してそんなことを思ったのは、ベッドの中で恋人との短い口づけを交わした後のことだった。
 今夜はもう時間も遅いから、一緒のベッドで眠るだけで特に何をするつもりもない。眠る前にキスをするのはいつものことだ。しかしそのいつものことに対する彼女の反応は、けしていつも通りとはいかなかった。
 逡巡ののち、俺は横たわって俺の腕の中におさまっている彼女に向け、おそるおそる問いかける。
「なあ、俺なんかした?」
「えっ、な、何の話ですか」
 暗がりの中、彼女が俺の顔を驚いて見つめているのが分かった。
「それしらばっくれてんのか、本当に何もないのかどっち?」
「いや、本当に何を言われてるのか分からないほうのやつです」
「キス、嫌がってる」
 そう発した瞬間、彼女の瞳にほんのかすかな動揺がひらめくのが見て取れた。俺の気分はいよいよずんと重くなる。俺は別に鈍感なわけじゃないし、おまけに彼女は嘘をつくのが滅法へただった。
「そ、そんなことないですよ? ほら、全然」
 彼女が顔の位置をぐっと上げ、俺の口に口づける。触れ合う程度の口づけ。俺が言っているのはそんな可愛らしいキスの話ではなかった。
「そうじゃなくてさ、舌入れるの」
 今度はあからさまに狼狽する。彼女を落ち着かせるように、俺はゆっくりと彼女の髪を撫でた。怒っているつもりはない。ただ、何か分からないままに距離を置かれるのは落ち着かなかった。
「何かしたかなって考えてみたけど、特に思い当たることもねえし。ただ、言いたいことがあるなら言ってくれると、俺としては助かる」
「言いたいことなんてないですよ、本当に」
「じゃあ、なんで嫌がる?」
 詰問口調にならないよう、つとめてゆっくり問いかけた。暫し暗い部屋の中に沈黙が落ちる。やがて腕の中に抱いたままの彼女がゆっくりと、恐々切り出した。
「言っても怒らないって約束……はできないけど、怒らない努力をしてくれますか?」
「……場合による。俺が怒るような話?」
「もしかしたら、そうかも」
 そう言って、彼女はひとつ溜息をつく。それで腹を括ったのか、「実は」とややはっきりした声で囁いた。思わずぎくりと顔が強張る。緊張を全身に張りつめた状態で、俺は次の彼女の言葉を待った。
 果たして──
「口内炎ができたんですよ」
 世界の終わりのような声で、彼女は俺にそう告げた。
「……は? こ……え? なに?」
「口内炎です。口の中に……、しかもふたつも……」
「見せて」
 「アドノディス・オムニス」と口の中で呟き、魔法で指先に光を灯し、彼女に口を開かせる。寝ころんだままかぱっと口を開いて、「うう、なんだか恥ずかしいですね」とふいと視線をそらす。口の中を覗き込むと下唇の内側にひとつと、舌の先にひとつ、赤くぽちっとしたものができている。
「うわ、でかいな。その上これ、めちゃくちゃ食べ物や舌が擦れるところだ」
「そうなんですよ、もう痛くて痛くて」
 嘆息し、彼女は窺うように俺を見た。
「私、今はほとんどネロの作ってくれる食事とおやつしか食べないでしょう? それなのに口内炎なんか作って、完璧な栄養管理をしてくれているネロに申し訳が立たず……」
「それでキス避けてたのか? 口内炎がバレるから?」
「はい……」
 神妙な顔で頷く彼女を見ながら、俺は内心でほっと安堵の息をついた。身体中に張りつめていた緊張がゆるりと解けていく。気付けば一時身体を離していた彼女を、俺はしっかりと抱きしめなおしていた。
「なんだ、よかった……。自分でも気づかない間にあんたに嫌われるような何かしたのかって、まじで気が気じゃなかった」
 ほっと気が抜け呟けば、
「えっ、ネロに限ってそんなことあり得ませんよ!」
 すかさず強い主張が返ってくる。「だといいけどさ」と笑うが、彼女は思いつめたようにむっと眉根を寄せる。
「明日の朝、フィガロ先生のところでお薬もらってこようかな……」
「まあ、そうだな。その口じゃ食事しても満足に食べられないだろ」
「それもそうですけど、私だって、ネロとキスしたいですよ」
 ぼそりと放たれた言葉に、俺は暗闇のなかひっそりと笑って彼女の髪に顔を埋めた。
「今の言葉、忘れるなよ」

(20201204)

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