番外編 その15

 13

 明日の朝食の仕込みを終えて部屋に引き上げたのは、大体いつも通りの時間だった。それなのに、もう随分長い間寝付けずにベッドの上に横になっている。夜が更けるのが空気のにおいで分かっても、なかなか眠気はやってこなかった。
 ひとりのベッドがやけに広く感じられる。この数日ずっと求め続けているやわらかな感触を、知らず指先が求めて布団の上をなぞっていることに気付き、自分のことながら辟易した。
 ナマエと出会ってからというもの、ナマエのことを傷つけてきた回数を数えればきりがない。最初のうちこそそれでナマエが遠ざかってくれればいいと、好きでいることをやめてくれれば気が楽だなどと構えていたが、いつしか傷つけることが苦しくなった。ナマエがつらい気持ちを押し殺して笑うたび、胸の中で何かが割れるような気分になる。大切に大切に、ずっと腕の中にしまいこんでしまえたらと思うのに、そう思えば思うほどに間違えてしまったときに余計に傷つけている気がした。
 今日も多分、傷つけたのだと思う。厨房にひとりナマエを残し、逃げるように部屋に戻ってきた自分の情けなさを思い出し、気が塞いで溜息がもれる。いや、それでもクレームキャラメルは俺の中では相当大きな賭けだったのだ。その賭けで負けたのだから、もはやひとりで落ち込むところまで落ち込むしかなかった。
 別にムルに言われた言葉で心境に変化があったわけではなかったが、すでにブラッドの方が俺よりナマエとうまくやっていけるのではないかとか、そんな益体のないことを考えることはやめていた。結局ナマエがブラッドを頼っていたのは最初のうちだけだったし、ブラッドも俺の目がある場所でナマエをかまうようなことはしない。そもそもナマエのような気弱な性格の人間が、ブラッドとまともに付き合っていって潰れないはずがない。だから俺よりブラッドの方がなんてくだらない思考は、ナマエが記憶を失ったという事実に打ちのめされた心が生んだ、意味のない被害妄想のようなものだったのだろう。
 それでも、俺がこのままナマエのそばにい続けるのが正しいのかと言われれば、自分ではまるでそんなふうには思えない。むしろ、このままナマエのそばを離れることこそ、たったひとつ俺に与えられた正しい行い、正しい選択肢なのではないかという気すらしていた。
 ──いつか来る別れを、今のうちに済ませてしまえるのならば、それは幸福なことなのかもしれない。
 そうすればいつか、ナマエは誰か人間の男と結ばれることになるだろう。俺はナマエの最後を看取ることもない。ナマエもまた、俺をひとり置いて逝く罪悪感を感じずに済むかもしれない。
 いや、それでも俺はきっと、ナマエのことを気に掛け続けるのだろうが。ナマエが俺との別離を経験しなくていいというだけで、今ここで袂を分かつ意味はあるように思う。
「ほんと、何百年生きても変わんねえよなぁ」
 諦めるように、自嘲するように。自分が手を離すことで得られる得ばかりを考えて、いつのまにかナマエを手放す理由を探していることに気付く。それでも実際ナマエの方から別れを切り出された日には、尋常じゃなく落ち込むだろうことも分かっていた。大人げなく人前で落ち込むことはなかったとしても、傷がまったくつかないわけではない。
 ナマエを傷つけて、自分も傷ついて、ナマエが去ったら俺はきっともう一度傷ついて。だから人間を好きになるなんてやめておけばよかったのにと、今更考えても仕方がないことを考えて。
 無駄と分かりつつも眠るため、寝返りを打って瞼を閉じなおしたその瞬間、
「ネロ!」
 ドアの向こうで賢者さんが、大声で俺を呼ぶ声がした。さすがに深夜だからドアを叩くのは遠慮しているのかもしれないが、どのみちこれほど大声を出せば迷惑も何もない。
 こんな夜更けに何があったんだろうか。さすがに急ぎで任務に出ろということもないだろうし、仮にそうであったとしてもいきなり俺が叩き起こされるのは腑に落ちない。
 長くただ寝転んでいたせいで妙に固まった身体でベッドから下りると、俺はドアを開錠してノブを回した。廊下の冷たい空気が、開いたドアの隙間から部屋の中に流れ込んだ。
「賢者さんか。どうしたんだ、こんな夜更けに」
「みっ、ミスラが、ミスラがナマエさんを連れて行ってしまって」
「はぁ!?」
 あまりにも突拍子もないその言葉に、俺は思い切り胡乱な声を上げた。よくよく見れば賢者さんは、薄闇の中でも分かるほどに顔面蒼白になっている。息は上がっているから、恐らく何かしらの問題が起きてすぐ、この部屋に走ってきたのだろう。
 ひとまず、落ち着くようにと賢者さんに声を掛ける。とはいえミスラの名前が出た時点で、それほど猶予はないのだろう。ミスラは何を考えているか分からない得体のしれないところがあるし、あれで案外せっかちな性分だ。事を起こすときにはやたらと迅速だったりする。
 俺の目の前で何度か深呼吸をした賢者さんは、
「ミスラがナマエさんを連れて行ってしまったんです。何でも記憶を取り戻すことができるかもしれない呪術を見つけたそうで。ただ、それが相当怪し気というか」
 捲し立てるように一息で言い切った。要するに──
「やばいってこと?」
「失敗したらナマエさんの全身の骨がぐちゃぐちゃになって死ぬそうです」
「やばいどころじゃねえな!」
 まったく落ち着いている場合ではなかった。取る物も取り敢えず、俺は部屋を飛び出す。しかし行先が分からず、すぐに足を止めざるを得なくなった。急いで追いついてきた賢者さんに「どこでそんなことやってんだ!?」と問えば「ミスラの部屋です!」と即答される。
「ミスラの部屋──」
 何階だっただろうか。頭の中で魔法舎の部屋割りを目まぐるしく展開する。そうだ、たしかミスラは一階に部屋を持っていたはずだ。賢者さんのペースに合わせることすら忘れ、俺は数段飛ばしで階段を駆けおりた。
 一階の居室前の通路を駆け抜け、ノックもせずにミスラの部屋のドアを開けた。施錠はされていなかった。
「ナマエっ!」
 部屋に飛び込んだ瞬間に目に入ったのは、床にチョークで描かれた魔法陣と、その周に規則的に並べられた呪術用の香草、呪術用の燭台と蝋燭、硝子の破片。小さな甕に汲まれた水の上に浮かんだハーブ。そしてそれらの中央に、エプロンドレスを着たままのナマエが泣きそうな顔で立たされていた。
 目と目があった瞬間、ナマエがこわばった顔をくしゃくしゃにして、「ね、ネロさん」と俺を呼ぶ。
 その瞬間、俺の頭の中にあったすべて──重くて、大きくて、それでいて些末な、俺とナマエのこれからにまつわるすべての事柄がどこかへ吹き飛んで、俺は気付けば魔法陣の中に踏み込んで、ナマエの身体を腕の中に抱きしめていた。
「生きてんな!?」
「まだ、骨は大丈夫です……」
 腕の中のナマエはわずかに身体を固くして、泣きそうな笑いそうな、よく分からない声でそう答えた。今のナマエは俺の恋人ではないのだから、こうして抱きしめるのはよくないことなのかもしれない。ナマエの意思に反する可能性もあるし、そうでなくても俺が自分で決めた線引きを大きく逸脱した、ひどい行いなのかもしれない。
 それでも、腕をほどいてやることはできなかった。
 ここ数日触れることすら避けていたナマエの肩は、何度も何度も抱きしめたことがあるはずなのに、記憶の中のそれより少し細いような気がした。
「あの、ネロさん」
 俺に抱きしめられたままのナマエが、もぞもぞとくぐもった声を出す。思い切り俺の胸に押し付けていたせいで、言葉を話すのにも一苦労のようだった。少しだけ腕の力をゆるめると、顔を上げたナマエの戸惑うような恥ずかし気な顔と目が合った。
「よかったよ、間に合って」
「ご心配をおかけしてしまって、すみません……。でも私、その、ネロさんのことを思い出したくて」
「分かってるよ」
 そんなことは言われなくてもちゃんと分かっていた。しかしナマエはぶんぶんと勢いよくかぶりを振る。
「あの、そうなんですけど、それだけではなくて」
 そうしてナマエは、一瞬視線を逸らしたのち、心を決めたかのような瞳でひたと俺を見据えた。
「多分このまま何も思い出せなくても、私はネロさんのことを好きになったと思います。今は、正直ネロさんのことをどう思っているか分かりません。惹かれているような気はするけれど、でも、恋と呼べる気持ちなのかは分からなくて……。だけど、たとえ私がネロさんを好きになったとしても、ネロさんが好きなのは、記憶を失う前の私、ですよね? 今の私では駄目で、一緒にいなくていいというのはつまり、今の私とは一緒にいたくないというか」
「そういうつもりで言ったんじゃないよ」
 あれは、そういうつもりの言葉じゃなかった。俺だってナマエと一緒にいられるものなら、望んでそうしていたいと思う。しかし実際、ナマエの幸福を考えれば俺と一緒にいない方がいいことは明白で、それならばやはり、俺はナマエに選択肢を与えるべきだと思ったのだ。一緒にいてもいい、いなくてもいい。ナマエが好きなように決めればいい。消極的で受け身で卑怯だが、それが俺の最大限の誠意でもあった。
 果たして俺の言葉はどのくらいナマエに伝わっているのだろう。ナマエはただ、顔をくしゃくしゃにして困ったように笑っただけだった。
「だけど、やっぱりごめんなさい。私、もしかしたら死ぬかもしれなくても、でもやっぱりネロさんが好きになってくれた私を取り戻したいです」
「今のナマエが駄目なんて思ってない。今のナマエには俺じゃ駄目かもしれないとは思ったけど、それだけ」
「ネロさん、私は──」
 と、ナマエがさらに口を開いたそのとき。
 突如足元の魔法陣が激しい白色の光を帯びて俺とナマエをまばゆく照らした。全身の毛がぞわりと総毛立つ。周囲の気の流れが荒々しく変わり、精霊たちが量るように俺とナマエの周りをうねり、踊るのが気配で分かった。
「えっえっ、あの、ネロさんミスラさん、これは」
「呪術が発動したようです。材料が揃ったんですね」
 慌てるナマエをよそに、ミスラがのんびりとした口調で呟いた。何時の間にか部屋に入ってきて見守っていた賢者さんも、困惑した顔でミスラを見上げている。
「あの、ミスラ、よく分からなかった最後の一つの材料って」
「ああ、『真実の愛』ですよ」
 億劫そうにミスラがそう吐き出したその瞬間、光が最大限の出力で輝きを放ち、直後ゆるやかに収束した。あまりの眩さに瞑っていた瞼をゆるりと開き、次いで腕の中のナマエの様子をたしかめる。
 ナマエが俺をそっと見上げた。そして。
「ネロ」
 他人行儀な呼び方ではない、最大限の親しみをこめたその二文字が、ナマエの口からするりとこぼれる。
「……思い出した?」
 胸のつかえがさらさらほどけて、やがてそっくり消え去った。
「何から何まで、全部。ネロのことを大好きだってことも」
「はは、思い出しちまったか」
 それならばもう、仕方がない。このままこの世の果てか、そうでなければどちらかの命の灯の終わりまで、一緒に居続けるしかあるまいよ。

14

 すべてを思い出したその瞬間、私は最愛の人の腕の中にいた。むろん、直前までのことを忘れたわけではない。記憶を失っていた間のことは当然ながら覚えていて、だからこそこうしてネロの腕の中にいることに一層深く安堵した。
 手を離されなくてよかった、と──そう思うべきなのだろう。ネロが抱えている孤独や恐怖を、そのすべてとまでは言わずとも私は重々理解していた。
 と、私がネロの腕の中で何処かしんみりした気分になっていると。
「へえ、それが真実の愛ですか。真実の愛。俺はじめて見ましたよ、真実の愛」
 いつの間にかすぐそばに寄ってきていたミスラさんが、じろじろと遠慮のない視線で私とネロを眺めていた──眺めまくっていた。
 ただでさえ整った顔立ちの魔法使いたちに見つめられるのは居心地が悪い。そのうえミスラさんとはあまり言葉を交わしたこともなく、むしろどちらかといえば突然不興を買わないようこそこそしていたくらいで、つまるところが果てしなく気まずいのだった。抱きしめられているところを見られて気分がいい人もそうはいまい。
「ちょ、ちょっと恥ずかしいのですが」
「つーか何回も愛、愛って繰り返すなよ。気まずいじゃん……」
 同じようなことをネロも思っていたらしい。それでも私を腕の中に留めたまま、ネロがミスラさんに不満をぶつけた。
「俺はその人の記憶を取り戻してやったんですよ。礼はないんですか」
 意外にも、正論で返されてしまった。ぐう、とネロが呻く。そして。
「くそっやけくそだ! 見たけりゃ見な! ナマエの記憶を取り戻してくれて助かったお礼だ!!」
「ネロ、捨て鉢じゃないですか」
「深夜のテンションですね」
 賢者さまが笑っていて、ミスラさんはどうでもよさそうにしている。私もネロも、今度こそぐっすり眠れるだろうか。きっと一緒に眠るベッドは少し窮屈で、だけどすごくあたたかい。明日もいい日になるだろう。そんな予感が胸にひらめいた。

prev - index - next
- ナノ -