番外編 その14

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 賢者さまの言葉はシンプルで、無駄な飾り立てがないからこそ、すっと心に染み込んだ。さっき賢者さまが握ってくれた手のひらから、心地よくて安心するようなあたたかさが身体に流れ込んでくるような気がする。
 私が忘れてしまった、私の知らない私を、賢者さまはちゃんと知ってくれている。ネロさんをひたむきに好きでいた私の姿を、私が失ってしまっても賢者さまが覚えていてくれている。ちゃんとそこにいたのだと、教えてくれる。
 そうして賢者さまの言葉で語られた自分というのは、不思議とすんなり受け容れられるものだった。ネロさんのことを好きだったという私のことも。ネロさんにちゃんと手を握っていてもらっていた私も。覚えていなくても、信じることができた。
「賢者さま」
「何ですか?」
「私は、ネロさんのことが──」
 胸につかえていた言葉を、ようやく声に出せそうだ。そう思い、ゆっくりと口を開いたまさにそのとき。
「ああ、此処にいたんですか。あなた」
 ノックもなく、突如部屋の戸がばんと開いた。ゆるやかに張りつめていた空気に風穴を開けるかのように、赤髪の男性──ミスラさんが無遠慮に、のそりと賢者さまの部屋に足を踏み入れた。
 あまりにも予想外の登場に、私は喉まで上がっていた言葉を飲み込んだきり言葉を失った。賢者さまも驚き、目をまるくしてミスラさんを見つめている。
「ミスラ。どうしたんですか? というかノック……」
「急いでいたのでノックは省略しました」
「省略しちゃったんですか」
 賢者さんが諦めたような声音で繰り返した。ミスラさんは構わず、ノックと同じく挨拶も何もかもをすっ飛ばして、部屋の中へとずんずん踏み込んでくる。そうして賢者さまの横──ではなく、何故か私の隣で足を止めると、その長身が与える威圧感を遺憾なく発揮して「あなたで合ってますよね? 記憶をなくした人間って」とおざなりな確認を口にした。
「は、はい……」
 座ったままの私は圧倒され、なかば無意識に頷いた。ミスラさんとは記憶を失ってからはほとんど言葉を交わしていない。記憶を失う前がどうだったのかは知らないが、この物言いからして私という個人を碌に認識もしていないのだろう。
 ミスラさんは壁のようにそこに屹立したまま、私に向けて言葉を落とす。
「双子に言われて、いろいろと古文書をあたりました。あなた、記憶がないそうですけど」
「まあ、はい」
 半分くらいはあなたのせいです、とはさすがに言えない。この人の威圧感が冗談ではないことくらいはさすがに肌で分かるし、記憶を失ってはいても生存本能まで失われているわけではない。魔法使い云々ではなく単純に生き物として、ミスラさんが脅威になりうることは薄々察していた。
「ミスラ、ナマエさんに会いに来たんですか?」
身も心も縮まる私に代わり、賢者さまがミスラに聞いてくれた。ミスラは相変わらずのぼんやりした瞳で賢者さまを見て、そして頷く。
「そうですよ。面倒ですけど」
「もしかしてナマエさんに、謝りに、とか……?」
「はあ? どうして俺が? おかしなことを言う人ですね」
 心底意味が分からないというように、ミスラさんは首を傾げて眉をひそめた。不機嫌そうな仕草をしていても、いちいちそれが様になる人だ。恐ろしくもあるのだが、賢者さまと話しているときのミスラさんはどこか愛嬌のようなものが見えるから不思議だった。
「でも双子もフィガロも、何故かその人が記憶をなくしたのは俺のせいだって言うんですよね。あと南の兄弟も」
「まあ、話を聞く限りはミスラもまったく関わりがないわけではなさそうですから」
 半分くらいはあなたのせいだ、とは言わず、賢者さまはあくまで遠回しにミスラさんの非を伝えた。ミスラさんが一瞬、むっとした視線を賢者さまに向ける。
 しかしその視線は、すぐに面倒くさげに逸らされた。そのかわり、ミスラさんは視線を私に寄越す。その視線からは私になど興味も関心もないことがありありと窺える。それなのに、びくりと身体がすくんだ。
「彼らがどうにかしろって煩いので、それっぽい呪術を探しましたよ」
「それっぽいとは」
「記憶を取り戻す呪術です」
 感謝してください、とミスラさんが言う。やはりどうでもよさげではあったのだが、私にとっても賢者さまにとっても、それはまったくどうでもいいような話などではなかった。
「えっ、ミスラ、ナマエさんの記憶を取り戻す魔法を見つけたんですか!?」
 驚き腰を上げる賢者さまに、ミスラさんはあくまでも、
「うまくいけばそうなるでしょうね」
 他人事のような調子で返事をする。
「ちなみにミスラさん、もしもうまくいかなければどうなるのでしょうか……?」
「全身の骨がぐちゃぐちゃになって死にます」
「なるほど、絶対にやめてください」
 私に代わり、賢者さまがぴしゃりと言った。しかし実際、ただでさえ記憶を失って困り果てている。このうえ全身の骨がぐちゃぐちゃになって死ぬなど、想像を絶する最悪さとしか言いようがない。賢者さまとしても自分の仲間である賢者の魔法使いのうちのひとりが、事もあろうに人間の女子の骨をぐちゃぐちゃにして呪殺したなどという事態は絶対に免れたいことに違いない。私だって、できればそんなことにはなってほしくない。
 とはいえ、記憶が戻るような兆しがあるわけでもない。現状唯一の打開策は、ミスラさんが発見したという呪術のみだ。
 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、ミスラさんは溜息をつくと、そのまま私の首根っこをひょいと掴まえ立たせた。
「そうは言っても、あなたがこのままだと煩い人たちがいるので。成功するか失敗するかは分かりませんが、ひとまず呪術は受けてもらいます」
「えっ、嘘ですよね?」
「俺は嘘はつきません」
 本当のことを言うとも限りませんけど、と。
 ミスラさんは物騒なことを口にして、私を廊下へと放り出した。真夜中の冷え冷えとした廊下で尻もちをつきながら、私は大股で部屋を出てくるミスラさんを見上げる。賢者さまが焦ったように、というか実際焦っているのだろうが、部屋の中からミスラさんを追いかけてくる。
「ミスラ、あの、準備は万端で、ほぼほぼ成功間違いなしとかそういうものなんですよね?」
「俺にできることはしました。ただ、どうにもよく分からない材料がひとつあって、それは省略しました」
「省略するのはノックまでにしておいてください!」
 真夜中であるにもかかわらず、賢者さまが悲鳴をあげて顔を覆った。たしかに世の中には省略してはならないものがある。たとえばそう、人命がかかった呪術の材料とか。
「あのですね、ミスラ。そんな不完全な呪術にナマエさんを巻き込むわけには、」
「別にいいんじゃないですか? 話を聞く限りではどうせこの人、記憶をなくしたまま生きていくのは嫌なようですし」
「そういうことでは」
 横暴ともいえるミスラさんの主張に、賢者さまが必死で追いすがる。しかし目の前で繰り広げられるミスラさんと賢者さまの攻防戦を見ているうちに、私はしだいに自分の心が固まっていくのを感じていた。
 より正しく言えば、ミスラさんのひと言を聞いて腹をくくった。「記憶を失くしたまま生きていくのは嫌なようですし」。
「だっ大丈夫です」
 賢者さまに届くようにと声を張り上げれば、自分で思っていた以上に大きな声が出てしまった。ミスラさんと賢者さまが、揃って口を噤み私を見つめている。
「あの、大丈夫です、賢者さま。ミスラさんのおっしゃる通り、思い出せる可能性が少しでもあるのなら、私は賭けてみようと思います」
「ナマエさんっ」
「み、ミスラさん。よろしくお願いします」
「はあ」
 きっと私の心持ちがどうであろうが、ミスラさんの行動も気持ちも何も変わりはしないのだ。そう思うと、いっそ不安は和らいだ。
 ミスラさんの言うとおり、記憶を失くしたまま生きていくのは嫌だ。もっと言えば、ネロさんを好きでいたという、大切なはずの記憶を永遠に失ってしまうのは嫌だった。
 自分のためだけではない。私を好きでいてくれたネロさんのためにも、私は絶対に記憶を取り戻したかった。
 賢者さまは記憶があってもなくても私は私だと言ってくれたけれど。私はやっぱり、全部思い出したい。全部思い出して、ちゃんとネロさんに好きなのだと、離れたくはないのだと伝えたかった。

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