04

 その夜。
 仕事を終えて楽な恰好に着替えた私は、紆余曲折のすえ、中庭の花壇に腰かけていた。部屋に戻ろうとは思うのだが、私の手にはグラスがひとつ。これを飲み干してバーに返さなければ、部屋に戻ることはできない。
 私にあてがわれた部屋は、恐れ多くも賢者様や魔法使いたちと同じだけの広さがある。また魔法使いたちと同じように、ある程度は自分好みの部屋に改修することも許されている。が、私には特に持ち物もなければ、これといった趣味もない。改修するだけのお金も腕力もない。だから部屋はほとんど最初に与えられたまま、家具もすべてそのまま利用している。
 強いて言えば部屋では落ち着きたいということで、これといった改修をしない代わりに大きなソファーをひとつ、部屋に入れた。これはなんと、アーサー殿下からの下賜品だ。
 もちろん私が殿下にねだったわけではない。賢者様と話しているときに、そういうものがあればいいなと冗談半分で言っていた話がいつのまにか殿下のお耳に入り、そういうことならばと下賜されたのだ。
 ふかふかで肌触りのいい、それでいて部屋の調和を崩すような装飾のないソファーが運び込まれたときには、あまりのことに気を失いそうになった。
 ともあれ。
「はあ……」
 その日の仕事の疲れをすべて含んだような重たい溜息をついたとき、やにわにすぐそばで、
「どわっ!?」
 と男性の素っ頓狂な叫び声が上がった。はっとして顔を上げれば、そこにいたのは闇に溶け込む黒い衣装に着替えた店主さんだった。
「なんだ、またあんたか……」
 店主さんが、ほっとしたように呟いた。昼間のエプロン姿ではないということは、彼ももう店じまい──というか今日の作業を終えたのだろう。ゆったりとしたシルエットの衣装は、あまり料理には向いていなさそうだ。
 店主さん、と声を掛けようとして、しかし私は慌ててその声を飲み込んだ。朝の遣り取りを思い出せば、私のこの距離感を見誤りがちなコミュニケーションが店主さんに好かれていないことはすぐに分かる。代わりに小さく頭を下げてから店主さんに視線を戻すと、店主さんは逡巡するように眉根を寄せた後、意外にも私の方にゆったりと歩み寄ってきた。
 花壇に腰かけた私の前に立つと、店主さんは目を眇め、訝しみながら口を開いた。
「こんなところで灯りも持たずに何してるんだ?」
「ちょっと、寝酒を飲もうかと」
 そう言って、私は手に持ったグラスを目の高さまで持ち上げた。掲げたグラスの中では氷が揺れてカランと音を立てる。とろりとした蜜のような液体は、夜の闇の中でもわずかな光を集め、小さく輝きを放っていた。
 店主さんが言う。
「意外だな。あんた、下戸かと思ってた」
「どうしてですか?」
「うちの店で酒飲んでたことなかったから。親御さんは時々飲んでたけど」
「あれは、まあ親の前ですから」
 笑って答えると、店主さんもまた、小さく笑った。
「それもそうか」
「そうです」
 それきり、会話が途切れて沈黙が落ちた。
 店主さんは何も言わず、けれど立ち去ることもせず、ぼんやりと夜空を眺めている。会話がないことを息苦しく思うことはなかった。私も、そして多分店主さんも、元々口が達者な方ではないのだろう。
 黙っているべきか、話すべきか。
 逡巡のすえ、私は口を開くことにした。このまま黙っていると、店主さんがこの場を去りたくても立ち去りにくいかと思ったからだ。
「下戸、ではないです。でも本当は、あんまりお酒が得意ってわけでもないんですけど」
「それじゃあなんで、こんなところでひとりで飲んでんだ?」
「これはさっき、廊下を歩いていたらムルさんたちにバーに連れていかれて」
「……へえ」
 店主さんが声を低める。私は言葉を続けた。
「それで、あんまりアルコールがきつくない飲みやすいのをいただいたんですけど……。でもやっぱり、飲み慣れないものを飲んじゃだめですね。顔が熱くなったので、外で冷ましながら飲みますって言って抜け出してきました」
「そいつはとんだ災難だったな」
「いえ、西の魔法使いの皆さんが気を遣ってくださっているのは分かりますから」
 西の魔法使いの皆さんとは、シャイロックと何度か事務的な話をしただけで、個別に言葉を交わしたことはなかった。今日はたまたま、彼らが揃ってシャイロックのバーに顔を出しに行くところに鉢合わせたので、成り行きで誘われ、ついていくことになったのだ。
 もしかしたら昼間のカナリアさんとの話が尾を引いていて、それで西の魔法使いたちの誘いに乗る気分になったのかもしれない。普段の私であれば、誘われてももごもごと言い訳をして誘いを断ったはずだ。
 けれどカナリアさんとの会話の中で、私ももっとここの魔法使いたちといろいろ話をしてみるべきなのかもしれないと、そう思ったのだ。無論、カナリアさんがそうしろと言ったわけではない。けれど、いつまでも人見知りしていてカナリアさんに気を遣わせるのは心苦しい。
 しかし決意を新たにしたところで、苦手なことが急に得意になるわけではない。
 賑やかな人たちに囲まれ、慣れないお酒を飲む。ふたつの苦手をいっぺんにこなそうとしたせいで、すっかり私はいっぱいいっぱいになっていた。それで、グラス片手に抜け出してきたのだ。せめて静かな場所で、ひとりでお酒を飲み干してしまおうと思った。厚意で声を掛けてもらったのに、そのうえお酒を残すことはしたくなかった。
 そんなようなことを、酔って少し呂律のあやしくなった口で、なんとか店主さんに説明した。店主さんはじっと黙って、私の話に耳を傾けてくれていた。
 と、おもむろに店主さんが「それ」と私の手にあるグラスを指さした。
「それ、俺がもらってやろうか」
「……いいんですか?」
「いいよ。残すのは忍びないって気持ちは、料理人としては分かるし尊重したい。シェアだと思えば気が楽だろ。その代わり──ちょっと待ってな」
 そう言うと、店主さんは足早に魔法舎の中に戻っていく。数分後、戻ってきた店主さんの手にはまるっこいマグカップがひとつ、温かそうな湯気をあげていた。
 店主さんは私の隣に腰かけると、私の手からグラスを受け取り、代わりにマグカップを差し出した。
「はいよ」
「これは……、ホットミルクですか?」
「寝酒の代わりだよ。こっちの方があんた好みかと思ったが、それとも子供っぽすぎたか?」
 店主さんの柔らかな声に、私は首を横に振った。
「いえ、大好きです」
「そりゃよかった」
 乾杯、と、店主さんがグラスを傾けマグカップに軽くぶつける。乾杯、と私も店主さんを真似て繰り返す。そうしてカップに口をつけようとしたところで、ふと気が付いた。
「というか、店主さんもここで飲まれるんですか?」
 私の問いに、店主さんは眉をひそめる。
「そりゃあ、まあ。あんた一人にしていくのもなんか……万が一何かあったときに寝覚めが悪いだろ」
「何かって、たとえば?」
「上空からミスラが降ってくる、とかさ」
「ええっ、そんなことがあるんですか?」
「あるよ。しかも割と頻繁に」
 店主さんが笑いを含んだ声で答えた。それが本当か冗談かの判別ができず、けれど店主さんの言うことだからきっと本当なのだろうと判断し、私もそっと笑いをこぼした。
 夜空にはうっすらと雲がかかり、月は霞がかかったように淡く青い光を放っていた。暑くも寒くもない夜の空気は、こうして隣り合って夜空を見上げるにはぴったりだ。
 店主さんの作ってくれたホットミルクは絶品だった。香りが高く、舌触りもなめらかだ。喉を通ってお腹に落ち、少し経つと身体が内側からじんわり温かくなってくる。
「ううーん、甘くておいしい」
 私がしみじみ言うと、店主さんが、
「そいつはよかった」
 と声をたてて笑った。店主さんが嬉しそうにしてくれると、私の方まで余計に嬉しくなってくる。
「ほんのりお酒のかおりがしますが」
「うん、香る程度に。あんまり酒は飲まないって言ってたけど、そのくらいなら平気だよな?」
「はい、大丈夫です」
 お菓子に使われているお酒や香りづけ程度のアルコールならば、むしろ大好物だ。このホットミルクも、今までの人生で飲んだホットミルクの中で間違いなく一番美味しい。
 身体がぽかぽかする心地よさを感じながら、私は横目で店主さんの様子を窺った。すでに私から受け取ったグラスの中身はほとんど空になっている。それでも店主さんは腰を上げようとはしない。その様子はまるで、何かをじっと待っているようにも見えた。
「その、間違っていたら申し訳ないんですけど」
 ゆっくりと口を開くと、店主さんもゆるりと視線を私に向ける。一杯にも満たないお酒では酔わないのか、顔色も瞳のゆらめきも、昼間明るいところで顔を合わせるときと何一つ変わらないように見える。
 私の中で浮かび上がった疑問は、店主さんの素面の顔つきを見て、ほとんど確信へと変わっていた。
「なに?」
「もしかして、カナリアさんから何か言われました?」
 今度はわずかに、瞳が揺らいだ。狼狽えるとまではいかなくても、多少動じた気配がある。きっと私に図星をつかれるとは思っていなかったのだろう。そう思うと、なんとなくおかしかった。
「やっぱり言われたんですね。同郷なんだから、とか。人見知りっぽいから、とか?」
 カナリアさんが言いそうなことを順に並べると、店主さんはばつが悪そうにふいと視線をそらした。もっとも、そらした先には闇に染まった地面しかない。
「まあ、多少は……? 言われたような」
「……そうですか。気を遣わせてしまってすみません」
「いや、大丈夫だ。慣れない場所で知らないやつらと暮らすなんて、俺だって結構なストレスに感じる。特にほら、そっちは俺なんかと違って若い女の子だから。俺よりもっと大変だろ」
 店主さんの言葉には、ひとつひとつ手探りで言葉を選びながら口にしているような、そんな不器用さが滲んでいた。本来、こういう役回りには慣れていないのだろう。人に深入りすることも、悩みを聞いたり励ましたりすることも。雨の街での店主さんはいつだって、カウンターの内側でお客さんの声に耳を傾けているだけだった。そういう距離感を、常に保ち続けていた。
 カナリアさんに言われたから、気に掛けてくれたのだろう。そのことは分かる。同郷で顔見知りであることを理由に頼まれてしまったが、頼まれた以上は気に掛けてやらなければと思うところが、きっと店主さんの優しいところだ。
 その優しさに、少しだけ甘えてしまいたい。
 両手でマグカップを包むように持ち、私は視線をカップの中に落とした。
「別に、何かに深刻に悩んでいるわけではないんです。仕事もあって、食べるものもあって、誰かに後ろ指さされることもない。南の国までいかなくても、この国の人も私が出会った人たちはみんなおおらかで素敵な人ばかりです。ただ、私が新しい環境に慣れるのには時間がかかるというだけで」
 生まれてからつい最近まで、東の国を出たことなど一度もなかった。それどころか、ブランシェットの親戚の家に数年に一度行く以外、雨の街から出たことすらほとんどなかったのだ。毎日同じ場所で眠り、同じ空気を吸っていた。見知った人とだけ言葉を交わし、旅人には極力近づかないようにした。
 その私が、遠く中央の国の魔法舎で、こうして魔法使いや賢者様と一緒に生活をしている。その事実に、私の心も身体も、まだ慣れていない。
 私の言葉に、店主さんが頷く。
「分かるよ。俺も多少、そういうところがあるから。いや、俺だけじゃないな。東のやつらは多かれ少なかれ、そういうところがあるだろ。保守的っつーか何つーか……」
「そうですよね。きっとここの生活の方が雨の街での生活よりも恵まれていて、明るいはずなんですけど。でも、なんとなく……」
「いいやつばかりだからかね。時々──、そう、気詰まりになるっていうのかな」
「ふふ、怒られてしまいますね、こんなこと言ったら」
「ほかのやつらには内緒にしておくよ」
 店主さんの揶揄を含んだ声は、夜闇の中、心地よく耳に響いた。今この場所には私と店主さんのふたりしかいないのだ。そう思うと、ここに来てからの二週間、誰にも言えなかった愚痴めいた言葉も、多少軽やかな響きにのせて口にすることができた。
 魔法舎のバーからは、西の魔法使いたちの笑い声が聞こえる。その輪の中に混ざりたいとは、まだ思えない。けれど、その笑い声を楽しそうな声だと好意的に受け止めることができるのは、こうして店主さんに話を聞いてもらえたからに違いない。
 ホットミルクはすでに飲み干してしまっていた。空っぽになったマグカップの重みを手の中に感じていると、ふいに店主さんが尋ねた。
「帰りたい?」
「いえ、それはないです」
 間髪を容れず答えれば、店主さんが声をあげて笑う。
「はは、即答じゃねーか」
「そりゃあそうですよ。帰っても碌な生活できないことは分かってますし」
 それに、と、空気が重くならないうちに私は言葉を継ぐ。
「それに、ここにいれば店主さんの美味しい料理が食べられますから。店主さんの料理は、あのくすんだ雨の街での思い出の中でも、ひときわ眩くて明るくてあたたかい、そういう思い出の味なんです。だから、私はここにいたいです」
 父や母に会えなくたって、ふたりと共に食べた料理の味は、間違いなくここにある。雨の街のお店が閉じてしまった時には悲しくも思ったが、こうしてまた店主さんの料理を食べる機会に恵まれたことは、今の私にとっては何よりも大きな幸福だった。
 店主さんは一瞬ぽかんとした顔をして私を見た後、くしゃりと顔を綻ばせ、まるで子供にするように私の頭に手を置いた。その手はぽかぽかと温かい。
 明るいところで向かい合っていたのなら、目元が赤らんでいたのもきっと、もっとはっきり分かったに違いない。
「そうか。じゃあまあ、俺はせいぜいあんたの郷愁をあおるような料理を作るよ」
 店主さんの嬉しそうな声に、私もはい、と笑顔で返した。
 と、そこで私はもうひとつ、店主さんに伝え忘れていたことを思い出す。
「そういえば、今朝の果物のシロップ美味しかったです。差し入れありがとうございました」
「どういたしまして」
「あのシロップの果物、東の国ではあまり見たことない果物ですよね」
「そうそう。あれは原産地が西で、しかも結構足が早い果物だから、生だと中央のあたりまでしか流通してないんだ。東でも乾燥させたものや砂糖漬けはたまにお目にかかれるけど、それなりに高価だしな」
 先ほどまでとはまた違う、うきうきと弾んだ声音での説明からは、店主さんが本当に料理という行為を愛していることがはっきり伝わってくる。
 料理を通して、誰かに尽くすこと。その喜びを知っている店主さんにとっては、料理は言葉以上にシンプルなコミュニケーションの手段なのかもしれない。
 私も、店主さんの料理が大好きだ。あの料理の味を、やさしさを、繊細な気配りを、私は知っている。だから多少不器用で人を寄せ付けまいとするような態度をとられたところで、傷ついたりはしない。
「あの果物の旬は少し前だけど、砂糖漬けにして作ったシロップもジャムもたくさん作ってあるから、またそのうち出すよ。果実酒にしてある分もあるけど、あんたでもソースとして使うくらいならいけるかな」
「楽しみにしています」
 ホットミルクと店主さんのおかげで、心も身体も、すっかりあたたかくほぐれていた。今日は久しぶりに、ぐっすりと眠れそうな気がした。

prev - index - next
- ナノ -