番外編 その13

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 眠る前に水を一杯飲んでから、と思い、椅子の背に掛けていた上着を羽織り厨房に向かった。廊下の大きな窓からは漆黒の夜空が映し出され、魔法舎の中にはしっとりとした夜の空気が満ちている。
 秋の夜長、というのだろうか。賢者の書をしたためているうちに、すっかり夜更かししてしまった。明日の朝起きられるかどうか不安に思いながら食堂に向かうと、意外にもその奥の厨房からはまだ灯りが漏れていた。
「あれ、ネロがまだ仕込みをしているのかな……?」
 しかし普段、この時間にはネロはもう片づけを終えて部屋に戻っていることが多い。魔法使いは皆私よりも睡眠時間が少なくて平気なようだけれど、それでもまったく眠らないのはミスラくらいのものだ。ミスラだって眠れるのであれば普通に眠る。ネロは朝食の準備の関係で朝が早いこともあり、晩酌していたとしても早々に切り上げ部屋に引っ込むのが常だった。
 それに、部屋に戻って朝までナマエさんと過ごすのがネロの本来の夜の過ごし方だ。執着することが苦手と言うネロではあるが、ナマエさんへの接し方を見ていると丁寧に大切に、ほんの少しも傷つけまいとしているような印象を受ける。ナマエさん本人への気遣いももちろんだし、ナマエさんと過ごす時間のことも大切にしている。人間である私やナマエさんと違い、ネロは一日一日をもっと適当に──それこそ気が遠くなるほど長い一生の間の一瞬として、流すように過ごすこともできるはずなのに、まるで掛け替えのない時間だというように、真摯に日々を過ごしている。毎晩一緒に眠るのも、一秒すら惜しまないでそばにいようとするようだ。そういうふたりを見ていると、微笑ましいのと同時に、少しだけ羨ましくも思う。
 もっともナマエさんが記憶を失ってからは、そういうこともなくなったようだ。今のナマエさんはネロの恋人だったナマエさんではないから、というのは話として分かるものの、ネロの心情を思うとどうしたって、見ていてもどかしくなってしまう。
 私はもちろん部外者なので、あまりその辺りのことを深く追及することはできない。それでもナマエさんやネロのことがまったく心配ではないということもない。ネロとの距離の取り方は難しいけれど、賢者としては一度くらい、ネロにフォローをした方がいいような気もする。
 いや、ネロはどうせ聞いても大丈夫だとはぐらかすだろうから、ここはいっそナマエさんに話を聞いてみた方がいいのかもしれない。ネロは嫌がるだろうか。極力ネロの嫌がることはしたくないけれど、だからといって何もしないわけにもいかないわけで──
 そんなことを眠気のせいでいまひとつ働かない頭でぐるぐる考えながら、私は厨房を覗く。
 覗き込んですぐ、私は「わぁっ!?」と驚き声を上げた。てっきりネロがいるだろうと思っていた厨房ではナマエさんがひとり、丸椅子に腰かけてべしょべしょと泣きはらしていた。
「ナマエさん!?」
「げんじゃざば……っ」
 涙声のナマエさんが、慌てて袖で目元を拭った。まさかこんなところでナマエさんと、しかも泣いているときに鉢合わせをするだなんて。先程までぼんやり感じていた眠気もすっかり吹き飛んで、私は驚き目を瞬かせながら目の前のナマエさんを見つめた。
 ナマエさんはまだ仕事用のエプロンドレスを着用したままだった。こんな時間まで仕事をしていたのだろうか。いや、それよりも。
「どうかしたんですか……?」
 おそるおそる声を掛ければ、一度は涙を拭われたナマエさんの瞳に、ふたたび涙がじんわりと盛り上がった。私の問いに返事をしようとして声が詰まったのか、「うっ、あうっ」と苦し気な声をもらす。
 泣きはらして真っ赤になった瞼と、幾筋も涙のあとが残る頬。本来の主不在の厨房。恋人であるネロと何かあったのだろうことは明白で、私は頭の中で素早くこの後自分がとるべき行動を定めた。
 ネロに声を掛けに行くのは、この場合多分悪手だ。だからといって、このままナマエさんを厨房に放置していくわけにもいかない。今は厨房もまだ多少暖かいものの、このまま夜が深まればどんどん気温は冷え込んでいく。こんなところにひとりでいては風邪をひく。
「ナマエさん、私の部屋にいきませんか」
「う、えっ」
「あたたかい紅茶を入れて! 気持ちを落ち着けましょう!」
 そう言って私はナマエさんに近寄ると、そっとナマエさんの手を握った。ひやりと冷たくなった指先に触れているだけで、ナマエさんの落ち込んだ気持ちが流れ込んでくるようで胸がぎゅっと詰まる。
「あの、お、おさら」
「え?」
「お皿だけ、かだづげてぎばす」
 そう言われてはじめて、私はナマエさんの前に白いお皿が置かれていることに気が付いた。何か甘いものでも食べたのだろう。カラメルがお皿にわずかに残っている。もしかして、甘いものを食べて泣いているのだろうか。いや、でもどうして?
 私が頭を悩ませている間に、ナマエさんはすっくと立ち上がると自分の使ったお皿とスプーンを手早く洗って片づけた。そうしてポットにお湯をわかすと、「紅茶をのむなら、お湯がいるとおもって」と控え目に告げた。身体を動かしたことで、多少は気持ちが切り替わったらしい。
「ありがとうございます。それじゃあ久し振りにパジャマパーティーにしましょう」
 ぱじゃまぱーてぃー? と胡乱な発音で繰り返すナマエさんに笑いかけ、私は彼女の手を引き自分の部屋へと向かった。

 ★

 記憶をなくしてからのナマエさんを自室に招くのは、これがはじめてだった。別にナマエさんを拒んでいたわけではない。むしろ今までの通り一緒に本を読んだり話をしたりしたかったのだが、夜になるとナマエさんはいつもすぐに部屋に戻ってしまっていた。慣れない場所で気を張って疲れているのかもしれないし、それ以外にも理由があったのかもしれない。しかし疲れていたら休息を邪魔するのは悪いので、声を掛けるのを差し控えていたのだった。
「適当に座ってください。お茶いれますね」
「すみません、賢者さまのお手を煩わせてしまって」
「いえ、私の部屋ですから」
 さっきナマエさんが沸かしてくれたお湯をポットから注ぎ、紅茶を淹れる。お茶の支度をしながらふとナマエさんの様子を窺えば、ナマエさんは落ち着かなさそうにきょろきょろしながらも、いつも私の部屋に招かれたときに座るのと同じ場所に腰を下ろしていた。思わず嬉しくなって笑いを漏らす。
「えっ、賢者さま、私なにかおかしなことをしましたか……?」
「いえ、そういうわけではないんです。ただ、そこはいつもナマエさんが座っていた場所なので。記憶がなくても、身体がちゃんと覚えているんだなと思って」
 私の言葉にナマエさんが恥ずかしそうに顔を赤らめる。しかしその表情もすぐに曇り、
「でも、記憶がないと間違えてしまうことの方が多いですよ」
 何とも漠然とした、それでいて決定的な何かがあったのだろうことを予想させる呟きを、ナマエさんはぽろりと漏らした。
 茶葉を蒸らすのを待ちながら、私はナマエさんの隣に腰を下ろす。二客のカップをお盆の上に用意し準備を万端にととのえてから、私はそうっと切り出した。
「不躾かもしれないですけど、もしかしてネロと何かありましたか」
 ナマエさんの瞳が、焦点を結ばないままぼやりと私を向く。
「あっ、もちろん話したくないことであれば全然、無理に話してもらわなくても大丈夫なんですけど! 話して楽になるのであれば、私でよければ聞きますというか……」
 そういえば、今ここにいるナマエさんは私と恋愛の話などしたことがなかったのだと、今更ながらに気付く。私の方ではナマエさんとネロが何かしらの節目を迎えるたびに話を聞いてきたという意識があったが、それはあくまで記憶を失う前のナマエさんとの間のことだった。今のナマエさんにしてみれば、何を突然と戸惑ってもおかしくはない。
 とはいえ一度言い出してしまったことを、ナマエさんからの返事も聞かないうちに引っ込めることもできなかった。暫し顔を俯けて沈黙するナマエさんの言葉を、私はカップに紅茶を注ぎながらゆっくりと待った。
 どのくらいの沈黙が過ぎ去っただろうか。
「無理に一緒にいなくていいと、言ってくれました」
 カップから立ち上る湯気が薄くなってきた頃、ナマエさんがぽつりと呟いた。
「ネロが、ですか?」
 ナマエさんがカップを手の中に包み込み、浅く顎を引いて頷く。ふせた睫毛の奥の瞳が、不安げに揺れていた。
「ネロさんなりの親切、なんですよね、きっと。私のことを思いやってくれているんだと思うんです。実際私はネロさんとのことだけじゃなく、何も思い出せていませんし……。思い出せないことを心苦しく思うこともあります。ネロさんを待たせているのだと思うと、もどかしくも感じます」
 だけど、と。小さな水晶のような涙がひと粒、ナマエさんの眼からこぼれ頬を流れ落ちた。
「だけど、一緒にいなくてもいいと言われたとき……。自分勝手だってことは分かってるけど、突き放されたような気がしました」
 苦し気に吐き出して、それからナマエさんは手の甲で頬を拭った。恥ずかし気に笑顔をつくると、遠慮がちに顔を私に向ける。
「変ですね。記憶があって、ネロさんの望むものを与えられる人間ならともかく、今の私なんてネロさんに一緒にいてほしいと願ってもらえるような人間ではないのに。そんなこと、ちゃんと、分かってるのに……。すみません。こんなことで泣いたりして、賢者さまにまでご迷惑をお掛けしてしまって」
「いいんですよ」
 一度持ったカップをテーブルに戻し、私はまたナマエさんの手をとった。魔法舎で日々メイドの仕事をこなすナマエさんの手は、けして艶やかで美しい貴人のような手ではない。自分の母親の手と、少しだけ似ているように思う。そしてまた、日々魔法舎の料理担当を担うネロの手とも、肌触りが少し似ている。
 けんじゃさま、と。ナマエさんが掠れた声で私を呼んだ。
 この世界での私の役割の名で、ナマエさんは私を呼ぶ。
 深く息を吸い込んで、私はゆっくりと切り出した。
「私ももともとは別の世界からひとり、この世界にやってきました。それで心細い思いもしましたし、魔法使いのみんながいてくれたから少しずつこの世界で生きる決意を固めることができました。だからというわけではないですけど、ナマエさんの心細さも少しは分かる気がします」
 もちろんナマエさんは元々この世界の住人だから、私とナマエさんが感じた心細さがまるきり同じものだとは思わない。また私にはこの世界で求められた役割があったから、それに応じながら暮らしていけばよかった。ナマエさんは違う。何処にでもいけて何をしてもいいからこそ、余計に不安を感じるということだってあるだろう。
 それでも、ともに魔法舎で暮らす魔法使いたちに支えられ、明日のことをも分からないながらも今この瞬間の自分にできることを熟して毎日を生きていく。心細さを誤魔化しながら、どうにか日々をやり過ごす。そういう部分はきっと、私もナマエさんも同じだ。
「私はネロの言葉を代弁するとか、ネロの考えていることを言い当てることはできません。もしかしたらこうかなと思うことはあっても、それが正しいとは限らないし、私が代弁することをネロが望むとも思えないですし」
 だから、今ここでナマエさんを救うための言葉を掛けることは、私には多分できないのだと思う。私はネロの代わりになれない。ナマエさんを安心させられる人がいるとするのなら、それはきっとネロしかいない。
 それなのに肝心のネロが、そのことに疑いを持っている。そのことはネロの落ち度ではないけれど、ネロが諦めてしまえばそれでおしまいなのだということを、ネロは知らずにいるのだろう。ナマエさんもまた、そのことを知らないでいる。だから拗れてしまっている。こんなにもナマエさんはネロのことを好きでいるのに、何か決定的に掛け違えてしまっている。
 私にできることがあるとするのなら、それはその掛け違えを、ナマエさんに教えてあげることだけだ。掛け違えを正すことはできなくても、掛け違えていることを伝えることはできる。
「あのですね、ナマエさん。ナマエさんは忘れてしまっていることかもしれませんが、私の知るナマエさんは、物凄く粘って頑張って、たくさんネロのことを想って考えて、それでとうとうネロの心を射止めたような人なんですよ」
「私が、ですか」
「そうです。たくさん悩んで傷ついて、でも一番にネロのことを考え続けて……。ネロって多分けっこう頑固ですよ。簡単に、好かれてるから好きになるとか、忘れられたから手を離すとか、そういう人ではないこと、ナマエさんも何となく分かるんじゃないでしょうか」
 わずかの迷いののち、ナマエさんが頷いた。私は微笑む。たとえ記憶を失っていても、ナマエさんがネロのその優しさと誠実さに気付かないはずがない。ふたりのことをすぐそばで見ていた私には、その確信があった。
「ネロは優しいから、生半な覚悟でナマエさんの手を握り返したりしませんよ。記憶を失ったくらいじゃ、手は離さないんじゃないでしょうか。それでも一度手を握った相手を突き放すことがあるのなら、きっと何か理由があるはずだと思います」
「理由……」
 ほとんど囁くのと変わらないような小さな声で、ナマエさんがそっと呟いた。
 忘れ去られてしまうことは怖いことだと思う。恋人だったネロのことを忘れて日々を生きるナマエさんを見るのは、たしかにネロにとってはつらくてしんどいことだろう。積み重ねてきたものを失ってしまったかのような気持ちは、どれだけ想像してもし尽くせないものだ。だけど。それでも。
「記憶があってもなくても、ナマエさんは変わらずナマエさんです。ネロと積み重ねてきたものは目に見えなくなってしまったかもしれないけれど、だからってナマエさんがネロの好きになったナマエさんじゃなくなったなんてことはないはずです」
 半ば自分自身に言い聞かせるように、そう言った。
 いつか私がこの世界を去ったあと、魔法使いたちは私のことを忘れてしまうかもしれないけれど。それでも、何もかもがなくなるわけじゃない。形として見えなくなっても、それはすべてが消え去ってしまうことと同じではないのだと。

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