番外編 その12

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 広い食堂の、最後に一つのテーブルを磨き上げる。厨房ではネロさんが明日の仕込みをしている。すでに夜はとっぷりと更け、私もそろそろ眠気を感じ始めていた。
 私の頭が撃ち抜かれた日から数日経っても、私の記憶が戻る兆しはいっこうに見えない。ミチルやリケ、賢者さまが中心となって、暇さえあれば私の過去の話をしてくれている。時にはネロさんが、私とネロさんしか知らないであろうこと──それは何も恋人同士のことに限らず、たとえば家族のことや生まれ故郷のことなど──を教えてくれたりもする。しかし、それらは私にとっては誰か別の人間の人生や背景のことのようで、いまひとつ自分のものという実感にはつながらなかった。記憶が戻ったわけでもない。
 ネロさんのことだけではなく、自分の名前や生まれ育った街のこと、離れて暮らす家族のことなどを話してもらうと、ふいに頭が鈍く疼くことがある。おそらく、記憶が掘り起こされるのに近い感覚だ。しかし、それでも決定的な記憶を取り戻すには至らなかった。
 だからというわけではないのだが、ネロさんのことを恋人なのだと思う気持ちも、日に日に薄まっているような気がする。むろん、恋人だった記憶がないのだから恋人だと認識しようもないのだが、当初は「この人は私の恋人なのだ」と身構えていたものが次第に薄れ、今となってはほとんど気負うこともなく「そばにいて安心できる人」というような、恋人とはまた違う何かになりつつあった。
 それでも、気付けばネロさんの横顔を追いかけている自分がいる。自分でも不思議だ。これが恋だとは思わないのに、気にかかり続けているのだから。
 そんなことを考えながら、私はせっせとテーブルを磨く。
 一昨日かはらメイドの仕事にも復帰している。働かざるもの食うべからずだ。そうでなくても、体の方にはこれといって不調はない。
 ネロさんに教えてもらった直筆のメモ帳を見れば、魔法舎で働くために必要なことは大抵分かる。何か分からないことがあれば、親切そうな魔法使いを探して聞けばどうにかなる。自分のことで周囲に迷惑を掛けるのは気が引けたが、記憶がない現状においてはそんなことを言ってもいられなかった。

 魔法使いのみんなはとても良くしてくれる。特に幼いミチルとリケは、何かにつけて私に声を掛けてくれた。聞けば、特にリケとは随分親しくしていたらしい。私が持っている自室の鍵のストラップも、リケとおそろいのものだった。リケの鍵にはもう一つ、ミチルとお揃いのマスコットもついている。
 テーブルを磨き終え、ふうと息を吐き出す。今日の仕事はこれで終わりだ。布巾を片づけようと厨房に向かおうとしたちょうどそのとき、厨房からネロさんが顔を出した。
「おつかれ。そっち終わったか?」
「はい、今終わったところです」
「じゃあその布巾はここの桶に入れておいてくれたら、明日洗濯に回すから」
「了解です」
 私の仕事はカナリアさんと重なるところが多く、分からないことがあれば基本はカナリアさんに聞けば問題ない。しかしカナリアさんは中央の国の城からも呼ばれることがあり、何かにつけて多忙の身だ。私と違って家庭もある。
 それに加えて、魔法舎の食事一切を取り仕切っているのはネロさんだ。そのため食堂の清掃などは主にネロさんと私が担うことになっている、らしい。これももちろん記憶にないので、私はやはり言われた通りに働いているだけだ。
 厨房に足を踏み入れると、腰をかがめ、洗剤入りの水を張った桶に布巾を浸す。白い布巾が水を吸い、ひたひたと桶の底に沈んでいった。視線を外してネロさんの方を見れば、彼は何やら調理台に向かって作業をしていた。
 明日の朝食の準備をしているのだろうか。ささやかであたたかな灯りに照らされたネロさんの後ろ姿は、男の人らしくしっかりしていながらも何処か寂し気に見える。
 その背中を眺めていると、ふいに胸がぎゅっと狭くなるような感覚をおぼえた。それと同時に、またこめかみの辺りが締め付けられるようにじくりと痛む。胸の中で焦燥が燃え、もどかしくて切ないような、不安な気分になった。
 ネロさんを見ていると、しばしばこういう気持ちになる。ただ苦しい、というのとは違う。苦しいだけなら我慢ができる。それは、そういうたぐいの感情ではなかった。
 耐え忍ぶというには、その感情の動きはあまりにも烈しすぎた。私は半ば突き動かされるようにして、ネロさんの背に向かって言葉を発した。
「そういえば、今日ミチルとリケからクッキーをもらったんです。とっても美味しいお店のクッキーだから、食べたら元気になりますよって言って」
 夕方、外から戻ってきたふたりが揃って渡しに来てくれたのだ。可愛らしいラッピングがほどこされたクッキーは、せっかくなので三人で分けて食べた。もちろん、夕食前のおやつは大人には内緒だ。
 ネロさんが首で振り返り、私を見た。やわらかな眼差しが夜の静けさを湛えている。
「よかったな。どうだった?」
「美味しかったですよ。ミチルとリケは物知りで、いろいろなことを教えてくれるんです」
「そっか。楽しそうで何より」
 そう言ってネロさんは今度こそ身体ごと私の方を向くと、ちょいちょいと私に手招きをした。腰を上げ、呼ばれるままに近寄る。
「あのさ、ちょっとあんたに食べてみてほしいものがあるんだけど」
 気のせいかもしれないが、ネロさんの声はわずかに硬さを帯びていた。話題に似つかわしくない声の調子に、胸が妙にざわつく。
 ネロさんは、調理台の上に乗せてあった白の深皿を私に見せた。
「何ですか? プリン……?」
「これ。クレームキャラメル。食堂のテーブルはもうナマエが磨いてくれたから、食べるにしてもここのテーブルで、だけど。いい?」
「もちろんです」
 どういう経緯かは知らないが、デザートを食べさせてもらえるのならば断る理由はなかった。ネロさんの声の硬さに一瞬不安が胸を過ぎったが、どうともなかったようでひっそり安堵する。そばの丸椅子に腰かけると、テーブルとは名ばかりの作業台でクレームキャラメルというらしいデザートをいただくことにした。
 つややかな黄色のプリンの上には、こんがりと深い茶色のカラメルがかかっている。見るからに美味しそうなそれに、そっとスプーンを差し入れた。ひと口すくって口に運ぶ。
 瞬間、口の中に幸福が溢れた。
「はっ、わっ、美味しい! すごく美味しいです、これ!」
 なんて贅沢で、なんて素晴らしいおやつなのだろう。ものを食べて感極まるという経験は、今の私にとってはこれが初めてのことだった。美味しい美味しいと、何度も繰り返す。それなのに、私を見つめるネロさんの表情はいまひとつ浮かない。
「ネロさん、これ明日のおやつの試食ですか?」
「まあ……そんなところ」
「すごいなぁ、こんなに美味しいものをおやつに出してもらえるなんて。リケもミチルも幸せですね」
 私の子供時代はどうだったのだろう。考えてみたところで思い出せるわけでもないのだが、おそらく日常的にこういうものを食べてはいなかったと思う。自分が高貴な家の出身でないことくらいは覚えていなくても分かる。そしてネロさんのこれは、庶民がそう易々と食べられるようなものでもないはずだ。何せネロさんは賢者の魔法使いになる前は料理人だったというのだから、このクレームキャラメルだってプロの作ったおやつということになる。
 しかし記憶を失う前の私はネロさんの恋人だったわけだから、こういう特別に美味しいおやつや料理も日常的に食べ慣れていたのだろうか。何とも贅沢な話だ。
 もはや自分とは別の誰かのようにしか感じられない「記憶を失う前の私」に思いを馳せながら、もくもくとクレームキャラメルを食べ続ける。あまりにも美味しいものだから、スプーンを持つ手が止まらない。
 と、そのとき。
 なあ、と、やおらネロさんが呟いた。
「ナマエ、もしこのままナマエが何も思い出せなかったとしたら、そのときは無理に俺と一緒にいなくてもいいよ」
 その言葉の意味を一瞬理解しそこねて、私は口にクレームキャラメルを詰めたまま、へ、と空気の抜けるような声を発した。
 ネロさんが私の頭をなでるように腕を上げ──しかし宙をかいただけで、腕はまた元の場所へと戻って、揺れる。そんなことをここ数日、ネロさんはもう何度も繰り返していた。
 ネロさんの揺れる腕を、握りしめた拳を、私は呆然と見つめる。今、ネロさんは何と言っただろう。もしもこのまま何も思い出せなかったとしたら。そのときは無理に、俺と──ネロさんと一緒に、いなくてもいい、と。たしか、そう言った。
 たしかに、そう言った。
 ごくりと喉が鳴る。甘さが喉を通ったはずなのに、味などまるで感じられなかった。
 言葉の意味を理解することに一拍遅れて、心臓がどくどくと鼓動を速め始めていた。どうして、私はこんなにも動揺しているのだろう。どうしてこんなに、焦っているのだろう。頭と胸がぐしゃぐしゃで、うまくものが考えられない。全身にそのぐしゃぐしゃが伝播して、気付けば指先がスプーンを取り落としていた。木製のスプーンが陶の皿に落ち、かつんと鈍い音がした。
「そんな顔すんなって」
 ネロさんが笑う。困ったように、宥めるように、眉尻を下げて笑っている。
「俺は魔法使いだから時間も飽きるほどあるし、気だって長い方だと思う。待つことも、まあ苦手ではない。だけど、ナマエは人間だから。好きでもない男と、記憶を失う前に恋人だったからって寄り添う必要はないと思う。そういうのは、なんつーか……不毛だろ?」
 不毛。その言葉に、脳裏には乾いて割れた地面の模様が思い浮かんだ。希望だとか生命だとか、そういうものとは正反対の景色だ。実りは望むべくもなく、生き物の気配は死に絶える。
 むろんネロさんがそんな意味で言葉を使ったのではないことは分かっている。単に希望が薄いとか徒労に終わるかもしれないとか、そういうニュアンスで選ばれた言葉なのだろう。
 それでも不毛という絶望的な響きは、私の心にずんと重くのしかかった。
 私が呑気に生きていたこの数日は、ネロさんに不毛なんて言葉を連想させてしまうほどのものだったのか。それほどまでに、昏くて重たい日々だったのか。そんなこと、私は全然知らなかった。全然、気付きもしなかった。
「まあ、別にすぐに何かを選べって話じゃないよ。今日にでも記憶が戻るかもしれない。そうなったらそれで万歳でめでたしめでたしだ」
 だけど。
「俺はただ、あんたを束縛するつもりはない」
 その瞬間胸にひらめいたのは、洪水みたいな問いの数々だった。「迷惑ですか」「重たいですか」「つらいですか」「苦しいですか」「面倒ですか」
「私に嫌気が、差してしまったのですか」──
 そんなことを聞けるはずもないのに、次々に沸く疑問は尽きることなく胸を覆っていく。
 記憶を失ってからというもの、ネロさんを恋人だと思えたことはない。いい人だと、優しい人だとは思うけれど、それ以上の感情は持っていない。つらい顔をしてほしくない、ネロさんのためにも早く何もかも思い出したい。そう思って、でも、それだけだった。
 それなのに、今こうしてネロさんからやんわりとした別れを告げられて、私は情けなくもどうしていいのか皆目わからなくなっていた。
 記憶をなくしてからはじめて、泣きたいほどに心が痛かった。

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