番外編 その11

 8

 食堂の片づけをようよう終えると、短い思案ののち、俺はブラッドの部屋を訪ねることにした。ブラッドには言いたいことも聞きたいことも山ほどある。どういう事情でナマエが記憶を失ったのかは分かったが、その後およそ一日もの間、ブラッドがナマエに対してどういう態度をとっていたのかまでは分からなかった。あいつに限っておかしな態度をとるとは思えないが、それでも気にかかることはある。
 食堂を出て廊下を歩く。今夜は集まって騒ぐやつらもいないらしい。廊下は森閑としていた。足音はすぐ、床に敷き詰められたカーペットに吸い込まれて消える。
 途中、廊下の空気が肌寒く感じられて身震いした。談話室に上着を出しっぱなしにしてきたことに気付く。調査依頼から戻り、食堂でエプロンをつける前に脱いですっかり忘れていた。厨房はあたたかいし、身体を動かしている間は寒さも感じない。しかし大きな窓が並ぶ廊下は、魔法舎の中でもとりわけ底冷えする。薄着では寒い時間帯だった。
 どのみち、共同スペースに私物を置きっぱなしにしておくわけにはいかない。ブラッドの部屋に行く前に、談話室に寄って回収することにした。
 と、談話室の前までやってきたとき、中から複数の魔法使いが会話する声が漏れ聞こえてきた。そっと息をひそめて談話室の中を覗けば、ちょうど俺以外の東の魔法使いたち三人が、紅茶を飲みながら話をしているところだった。俺に声がかからなかったのは、きっと気を遣ってのことだろう。ナマエが記憶を失ったことについて、少なからず俺がショックを受けていることに三人は当然気付いている。そういうとき、寄り添おうとか騒いで忘れようとかするのではなく、そっとしておいてくれることに俺は物陰から安堵した。
 上着を回収しがてら、ひと声掛けていくか。そう思い息を吐いた矢先、シノの厳しい声が耳に届いた。
「薄情だ」
 その声の持つ非難の響きに、思わず踏み出しかけた足を戻した。談話室からは「何が?」とヒースが問う声が続く。
「ネロの恋人のことだ。あれだけネロに良くしてもらっておいて、ネロのことを好きそうにしておいて、まだ思い出さないんだろ。薄情だ」
 薄情だ、と二度繰り返すシノの声は、あからさまに憮然としていた。自分が非難されているわけでもないのに、何故だか胸が嫌な具合に軋む。シノに悪意がないことが分かっていて、なおかつナマエにもどうにもできないことだけに、こういう話を聞くとどうしたって居心地が悪くなる。
「そう簡単に思い出せるものでもないんだよ、きっと」
 取り成すようにヒースが窘めた。
「でもふたりが運命の相手ってやつだったら、それこそ目と目が合った瞬間に思い出すんじゃないか」
「またお前は勝手なことを……」
「俺がもしヒースのことを忘れることがあっても、もう一度ヒースと目があえば、俺は絶対に思い出す。というか俺はヒースのことを忘れたりしない」
「それはそうなってみないと分からないと思うけど」
「分かる。俺はヒースを忘れない。ヒースにも俺のことを忘れさせたりなんかしない」
「だからそれは、シノの一存で決められることじゃないんだって」
「運命か」
 若いふたりの会話に、ファウストがぽつりと言葉を投げた。シノとヒースが黙ってファウストを見つめる姿が、物陰からでも容易に想像できる。息を殺していながらも、心臓が早鐘を打っているのが分かって呼吸が苦しくなった。
 寸の間の沈黙ののち、ファウストは告げた。
「少なくとも僕の目から見れば、ネロと彼女は運命に結びつけられた恋人同士なんてものには見えない」
「先生──」
「別に、あのふたりの結びつきがまがい物だと言っているわけではないよ。ただ、運命と片づけてしまうようなものではないだろうという話だ」
 ファウストの紡ぐ言葉を聞きながら、自分の呼吸が浅くなっていくのが分かった。他人の恋路になどまるで興味がなさそうで、実際その手の話にはとんと疎いファウストが、俺とナマエのことをそんなふうに見ていたことが意外だった。
 しかしたしかに、その所感は正しいのだ。俺自身、自分たちが運命に導かれた恋人同士などという幻想は、まったく抱いていなかった。
 手のひらをぎゅっと握る。指先が冷たいのは、廊下の冷え冷えとした空気のせいだけではなかった。
「たしかにネロは、運命の相手だからなんて理由で人間の女を大切にしたりはしなさそうな気もする」
「そうだな」
 シノの呟きに、ファウストが続いた。
「きっと、側にいられない理由や相手を好きになってはいけない理由をひとつずつ考えて、それでも側にいたい理由や好きでい続ける理由も考えて……。そうやって、あのふたりは一緒になったんだろう。運命なんかじゃない、そんな言葉で誤魔化さない。いや誤魔化せないのかもしれないが。まったく、僕はそんなことしたくもないし、しようと思ってもできない。律儀で生真面目で、途方もない『作業』のすえの関係だ」
 だから、と。
「運命とは一番遠いところにいるふたりなのかもしれないな」
 ファウストが静かにそう結び、その話はそれきりになってしまったようだった。俺は今更あの輪の中に入ることもできず、置きっぱなしの上着は諦めて、音もなくその場を立ち去った。

 ファウストは正しい。あいつはいつも正しいことしか言わないが、こと恋愛においては抜けているとばかり思っていたら、その実しっかり見透かされていて驚いた。
 俺とナマエは運命で結ばれてなどいない。俺たちの結びつきは努力と気遣い、そしてほんの僅かの諦めによって成立しているものだ。これまでの出来事の何かひとつでも違っていれば、きっと今こうして俺はナマエの恋人になってはいなかっただろう。儚くて脆くて、奇跡的な関係。そんな危ういものを、運命などと認めるわけにはいかない。
 もしもナマエが、ひとりで中央の国に来ることがなければ。俺がたまたま同郷の出身者でなければ。カナリアさんが俺にナマエを気に掛けるようにと声を掛けなければ。いや、それどころかナマエの親父さんが気の迷いで罪を犯さなければ、俺が雨の街に居つかなければ。
 ほとんど無限にも等しい偶然が重なって、偶さか俺たちは恋人同士になった。何かひとつでも機会が失われていれば、俺たちは巡り合えたところで恋人同士にはならなかったに違いない。
 今のナマエは、そうした無限に等しい偶然のすべてを失っているも同然だ。俺を好きになるような理由はなく、その必要もない。俺だけが一方的に奇跡を実感し、一方的に想っている。運命ではない、すでに失われたのかもしれない関係に、希望を捨てられずにすがっている。
 ファウストは正しい。だから俺は今、考えるべきなのだ。
 このままナマエの記憶が戻ることを信じて、ひとりでも奇跡を持続させる努力をするのか。それとも、いつものように手放してしまうのか。もともと執着すること、すがることは苦手だ。苦しいと思ってまで、ナマエの手を握っていたいのだろうか。
 ナマエはそれを、望むのだろうか。
 俺の手は、ナマエにとって重すぎはしないか。
 そんなことを考えて、思考が袋小路にはまり込んだちょうどそのとき。
 視界の先に、黒と銀の二色頭がうろついているのが目に入った。向こうも俺に気付いたらしい。一瞬嫌そうな顔をしたものの、だからといって逃げ出すこともなく、立ち止まって俺が近寄るのを待っていた。
「てめえの部屋に行こうと思ってたところだ」
 俺が言おうとしていたことを、先にブラッドが口にした。その口ぶりからは俺への罪悪感など微塵も感じられない。いわんやナマエのことなどどうとも思っていないのだろう。それでも話をしようと俺の部屋に向っていたのは、単に俺がそうしたいだろうと踏んでいただけだ。そういう気は、昔からよく回る。
「つっても、ちょうど俺の手持ちの酒は切らしてんだ。てめえの部屋はどうだ。うめえ酒はあるかよ」
「ねえよ。この間てめえが飲んだきりだ」
「チッ、じゃあしゃあねえ。一丁西のパイプ飲みのバーにでも行くか」
 行くぞ、と俺の返事も聞かず、ブラッドはバーに向って歩き出す。普段ならば文句のひとつでも言ってやりたいところだったが、そんな気力もとうに失せていた。
 先を歩くブラッドの背中を、俺は数歩遅れて追いかけた。

 9

 仏頂面のネロを引き連れバーに入ると、西のおかっぱの兄ちゃん──ムルがひとり、カウンターでシャイロックと話をしているところだった。連れだって入ってきた俺たちを見つけ、ムルがわざわざカウンターの端に寄る。ネロのやつは会話の内容を聞かれたくなかっただろうから、テーブル席につこうと思っていたのだが。とはいえネロとふたりで顔を突き合わせて話をするのには気が乗らず、俺はムルの空けた席にどかりと座った。
 腰を落ち着けた俺たちに、カウンターを挟んだパイプ飲みが猫のように寄る。
「なんか適当にうまい酒」
「ネロはどうしますか?」
「俺は、……なんか適当に頼むよ」
 尽くし甲斐のない人たち、とパイプ飲みがこれみよがしな溜息をついた。たしかに注文というにはあまりにも大雑把だ。申し訳なさげに眉を下げるネロを後目に、俺は早々に本題に入ることにした。
「で? 用件は何だよ」
「何って」
「話があるから俺の部屋に来ようって気になったんだろ。俺だって暇じゃねえんだ。さっさと話せよ」
 とはいえ、ネロがどういう用件で俺を訪ねてきたのかなど明らかだ。わざわざネロの口から用件を言わせようとしたのは、その方がこの後の会話で俺が主導権を握れそうだからだった。
 ネロはむっつりと口を引き結び、視線を落とす。どうやら俺が想像していた以上に、ネロのやつはがっつりへこんでいるらしい。面倒くさいことではあるが、これは話をするにも助け船を出してやった方がいいのかもしれない。
 女のことだろ、と。俺がそう言うため口を開くより先に、しかしネロは重々しく、
「ナマエのことだよ」
 と低く短く告げた。声音を聞くに、ある程度腹はくくっているらしい。それならそれで気遣ってやる必要もなく、俺は当初の予定通りに話を始めた。
「女のことなら俺はもう関係ねえぞ」
「関係ねえって、そんなことはねえだろ」
 すぐにネロが反論する。俺は内心、ネロを笑った。俺とあの女に間にどんな関係でもあってほしくないと思っているだろうはずなのに、こうして俺がはっきり切り捨てると反論せずにはいられない。ネロの心は入り組んでいて、時々こうして自家撞着を起こす。
「関係ねえんだよ。てめえが帰ってくるまでの面倒は見たが、こうしててめえが帰ってきてんだから俺はお役御免だろ。たしかに俺は今神父も真っ青な慈善家だがな、亭主もちの女にまで手ェ差し出すほど耄碌しちゃいねえ」
「……どこから突っ込めばいいのか分かんねえよ」
「そいつは重畳。だったら黙って酒でも飲んでろ」
 そう言って、俺は自分も供されたばかりのグラスを呷った。パイプ飲みの趣味がいいことが分かる。ただうまい酒と言っただけなのに、出されたのは今の気分にぴったりの辛くてすっきりした酒だった。
 横でネロが溜息をつく。こいつは一体俺に何をしてほしいのか。
 大体、自分の望みや欲望と、女の感情を天秤に掛けるなんて莫迦なことをするから、こうしてどん詰まりに陥ってしまうのだ。そのうえ、見たところネロの中ではまたいつもの逃げ癖が顔を出している。その逃避に体よく利用されるなど、俺様からすればたまったものではない。
「別れようと思ってる、までならぎりぎり聞く」
 先んじて、釘を打った。不意をつかれたネロは「は、」と間抜けな声を出す。
「あの女とくっつこうが別れようが、てめえの好きにすりゃいいさ。だがあの女を俺にどうこうしろっていうなら、死んでもごめんだぜ。あんなてめえに似合いの女、俺様の好みにはまるで合わねえ」
 そうでなくても、今の俺は恩赦のためやら賢者の魔法使いとしての任務やら、何かにつけ働かされていて忙しいのだ。このうえ尻に殻をつけたような女の世話まで見る義理はなかった。そんなことはネロのような男がすることだ。
「俺様に押し付けててめえだけ楽になろうなんて、許すはずねえだろ」
「元はと言えばてめえのせいだろうが」
「俺のせいだろうが何だろうが、てめえが楽になる代わりにあの女を押っつけられてんじゃ割に合わねえよ」
 次第にネロの表情が険しくなる。いよいよ本気で怒り出したのか。あんな女のことくらいで、ネロは案外沸点が低い。
「本気か? 俺がいねえ間、てめえいいようにナマエのこと使ってたみたいじゃねえかよ」
「いたら使うだろ。それだけだぞ。莫迦みてえな勘ぐりすんじゃねえよ」
 あの女が俺にここでの生活を教わるというから、俺様が親切に教えてやったまでだ。そのついでに、メイドとしての振る舞いを少しばかし追加で教えた。しかしそれは度を超えたものではなかったし、言ってみればメイドとしての仕事の幅を広げてやった程度のことだった。やめさせろと言われれば、別にそれでもいい。大した話ではない。
 それでも、ネロはまだもの言いたげに眉根を寄せている。
「ナマエはてめえのことを……ブラッドのことを頼ってる」
「そりゃそうだろ、俺が面倒見てたんだから。てめえが最初からいりゃこうはならなかった。てめえの運の無さを俺のせいにすんな」
「そういう話じゃねえよ。そうじゃなくて、もしナマエがこのままだったら、このままブラッドがナマエの助けになってやった方が──」
「だーから、それはお断りだって言ってんだろうが」
 話が堂々巡りになっている。いい加減、ネロの弱腰な主張にはうんざりし始めていた。これ以上ネロと話を続けても、俺にとって得な話は出そうにない。それどころかネロのうじうじとした部分に八つ当たりをされ続け、面白くもないことになるのは容易に予想が付いた。
 ここいらが引き上げる潮時か。
 グラスに残っていた酒を飲み干し、腰を上げようとしたちょうどそのとき。
「ねえねえ、ナマエは鳥なの?」
 唐突に、ムルが俺たちの会話に脈絡なく割り込んだ。そのあまりの突拍子のなさに、俺もネロも「は?」と声を揃える。パイプ飲みだけが嫣然として、
「ムル、もう少し分かりやすく」
 とそれとなくムルを窘めた。窘められたムルの方は、かまわず機嫌良さげに笑っている。
「んー、だからナマエはひな鳥なのかってこと!」
 先程の言葉と大して変わらない言い回しだった。依然意味が分からず頭の上にクエスチョンマークを浮かべる俺とネロに、ムルは歌うように言葉を続けた。
「ネロの話を聞いてると、頼ってるってのと好きだってのは同じことのように思える! でも生まれて最初に見たからって理由で、ナマエはブラッドリーのことを好きになるの? それだとじゃあ今までは、一番最初から知ってたからって理由でナマエはネロを選んでたことになるのかな? それじゃあネロは? ネロの方がナマエを好きになった理由は何? 逆にネロの記憶を持たない今のナマエに選ばれて、それでネロは嬉しい?」
 畳みかけるように疑問を重ねられ、ネロは返答に詰まった。いや、そうでなくても返す言葉はなかっただろう。ムルの問いは無邪気な子供のようでいて、その実今のネロがもっとも触れられたくない部分を無遠慮にまさぐるような問いかけだった。
「ムル、言い過ぎですよ」
「どうして? 俺とネロは同じだよ、ともに愛を求める求道者だ! ねえねえ、ネロはどう思う? ネロは何を愛情と見做していて何をナマエから得られれば満足なんだろう。今のナマエと前のナマエと、愛情を傾けるときにその差はどう影響するんだろう。俺はそれに興味がある!」
「でしたらそれは、ネロの機嫌がいいときにお聞きなさい。今はいけませんよ」
「あれ? シャイロックって禁欲者だったっけ?」
「あなたと違ってデリカシーがあるんです」
「そっか、じゃあ代わりにシャイロックが答えてもいいよ! 前の俺と今の俺、愛情を注ぐのにどちらがどう都合がいい?」
「私からの愛情を疑わないその厚かましさには感心しますが、そういう話はふたりきりのときにするものですよ」
 目の前で交わされる西の魔法使いたちのえらく意味深な会話に聞き耳を立てつつも、俺はネロの様子をちろりと伺った。言い負かされた、というのとは違うのだろう。ムルの言葉は否応なしに、自分で覆い隠した本心を暴き立てる。たちが悪いのは、その問いはムルの知識欲を満たすためだけの問いであり、問われた相手がどう思うのかなど二の次であることだった。
 気まずげに視線を伏せていたネロが、やがて溜息をひとつ吐いて笑った。
 自嘲的な笑みだった。
「ムルって元は学者──なんだっけ? すげえ嫌な質問の仕方してくるな」
「俺も引いた。俺が引くほどのデリカシーのなさって、こいつとミスラくらいだぞ。あとフィガロか」
「なになに? 新しいカテゴライズの話?」
「フィガロとミスラとムルが属するカテゴリですか。容易く世界を滅ぼしてしまいそうですね」
「オズが入れば終わりだな」
 それまでの不穏な空気を払拭するように、敢えて的外れな会話で問いの矛先を逸らす。俺もネロのうじうじした態度に苛立ち始めていたところだったが、だからといってムルの無神経の餌食にされるのを黙って見ていられるほど、俺は非情ではない。パイプ飲みの兄ちゃんも同じような心境のようだった。いや、向こうは向こうでムルの始末をつけているだけなのかもしれないが。
 ともあれ。
「愛情と執着って、見てくれはそっくり!」
 <大いなる厄災>によって狂わされた稀代の天才学者は、そう言ってひとり、満足そうに笑っていた。

prev - index - next
- ナノ -