番外編 その10

 7

 ネロさんに食材の場所や調理用具の場所をひとつずつ教わりながら、厨房の中をしげしげと見て回る。ブラッドリーさんにも食堂と厨房を案内はしてもらったが、彼はパントリーの中や引き出しの中身には目もくれなかった。
 パントリーには秩序がある。そしてその秩序をつくっているのは、ここにいるネロさんだ。ひとつひとつの食材がきちんと管理され整然と並んでいるさまは、見ていて感動すら覚えるほどだった。
 キッチンの窓から見える空の色は、いつのまにか夕焼けから夜空へと移り変わる途中の薄紫色になっていた。窓辺にいけられた小ぶりのひまわりが、機能的で広々としたキッチンに彩りを添えている。
 そういえば、この花は誰がいけているのだろう。厨房の主はネロさんだというから、花もやはりネロさんの趣味で飾っているのかもしれない。言葉を交わした限り、ネロさんからはそういう繊細な場の整え方ができる人のような印象を受けた。
 ネロさんの教え方は丁寧で分かりやすい。すると自然な流れでブラッドリーさんの教え方が実は相当にめちゃくちゃで破天荒だったことに気付かされる。
「で、スパイス類はここ。まあ、あんたは料理も鋭意修行中だったから、この辺のものを使うことはないと思う。この棚のスパイスはどれも使いどころとさじ加減が難しいんだよ」
「なるほど」
「ナマエが使うとしたらこっちの棚だな」
 そう言ってネロさんが指したのは、私の背の高さでも取りやすい位置の棚だった。たまたま物の配置がそうなっているのか、それとも私やカナリアさんの背丈に合わせて物の位置を決めてくれているのかは分からない。もしも後者だとしたら、ネロさんは本当に気遣いの人なのだろう。私やカナリアさんにとって適切な位置というのは、必ずしもネロさんにとっての最善ではない。
 それにしても、自分は料理を修行中だったのか。ネロさんに言われ、記憶にない自分の欠片をひとつ取り戻したような気分になった。
 自分のことが分からないというのは、何とも心許なく不安なものだ。ブラッドリーさんは私を時々「どうしようもねえやつ」扱いしていたので、自分では何となくそういう人間なのだろうと思っていた。しかしネロさんからは、そういう態度は一切感じない。私が恋人だからだろうか。それすらも今の私には分からない。
 説明を受けながら、そっと横目でネロさんを盗み見た。
 魔法使いという人たちはおしなべて見目麗しいものらしいが、ネロさんも例にもれずきれいな顔をしている。とはいえとっつきにくいタイプではなさそうで、表情はおだやかだ。ブラッドリーさんに怒鳴っていたときには怖い人なのかとも思ったが、あれは単にブラッドリーさんに対してそうであるというだけで、誰彼構わず怒鳴るような人でもないのだろう。むしろ気性の荒っぽさで言えば、ブラッドリーさんの方がずっと荒々しい。
 穏やかで、やさしくて、きれいな人。だからといって彼のことを好きになるかと言われれば、そういうわけではない。記憶を失う前の自分は、一体この人のどこに惹かれていたのだろう。この人は、私のどこを好きでいてくれていたのだろう。
 彼が好きでいてくれたところは、記憶を失くした今の私も持っているのだろうか。
 説明を聞き洩らさないようにしつつ、頭の中ではそんな思案に耽る。私はもしかしたら案外器用なのかもしれない。そんなことを考えていると、「そういえば」とネロさんが呟いた。
「エプロンのポケットにメモとか入ってないか?」
 言われて、ポケットに手をつっこむ。エプロンドレスには腿の位置に左右ひとつずつポケットがついているが、その右側にネロさんの言うとおり薄い四角い感触があった。
「あっ、あります」
「それ、多分もともとナマエが仕事を覚えるまでに作ってたメモだ。多分必要なことはほとんど書いてあると思うから、分かんないことあったら見てみるといいかもな。書いてないことがあれば教えるよ」
 ぺらぺらと捲って中身を読んでみる。たしかにネロさんの言葉通り、中には魔法舎の見取り図や部屋の配置、掃除の順序などが事細かに記されていた。急いで書きなぐったようなページは、必ず後から別のページに清書がしてある。我ながらまめだ。
「俺は夕食の支度を始めるけど、あんたはそのメモを読んでていいよ。手伝ってほしいときにはまた声を掛けるから」
 そう言って、ネロさんは調理に取り掛かった。私はやはりネロさんに言われたとおり、メモ帳を捲って過去の自分の手蹟をたどる。
 メモ帳には単に仕事のマニュアル的な内容だけでなく、個人的な疑問や感想がついでに添えられていることもある。まるで知らない誰かの日記を盗み見るようで、何となく罪悪感を感じながら読み進めていると、あるページで私の目は釘付けになった。
「シロップ……」
 書いてある文字を読み上げれば、ネロさんがつられて俎板から視線を上げる。
「え? 何か言ったか?」
「店主さんのシロップでつくったジュースが美味しかったって、そう書いてあります」
 どれどれ、とネロさんがこちらに寄ってきた。読んでいたページを開いて見せれば、ネロさんが一瞬懐かし気に目を細め、そして苦笑する。今日はじめて見るその表情に、胸がきゅっと苦しくなる。
「メモじゃなくて日記になってんな」
 苦笑まじりに言われ、私も頷いた。シロップを炭酸で割るジュースについてのメモだったが、そんなものは本来わざわざメモするほどのことでもない。多分、この日の私がシロップに心を奪われた結果のメモなのだろう。
 それにしても、シロップが美味しかったという情報以外にひとつ、私には気になることがあった。この記述にはネロさんの名は出てこない。出てくるのは「店主さん」という馴染みのない呼び方だけだ。内容からしてその「店主さん」はネロさんのことだと思うのだが、どうしてそんな呼び方をしていたのだろう。
「私はネロさんを、店主さんと呼んでいたんですか?」
 ためしに聞いてみれば、ネロさんはうっすら笑ったままで首を振る。
「いや? ネロって呼んでたよ。けど此処に来た最初の頃は、店主さんって呼んでたな」
「ネロさんはお店をされていたんですか」
「雨の街で飯屋をやってた。今は休業中。ナマエの家族はそこに時々来てたお客さんだったんで、それで店主さんって呼ばれてたんだ。あ、そっちの鍋とってくれ。一番大きいやつ」
「あっ、はい」
「重いから気をつけろよ」
 鍋を持ち上げた瞬間にこめかみに走った鈍痛に、思わずぐっと顔を顰めた。
 雨の街。知らない土地の名前のはずなのに、頭の中で何かが小さく疼いている。ネロさんの名前を最初に聞いたときと同じ、まるで土中の種が芽吹こうとするかのような感覚。それが私の失った記憶に深くかかわるものであることは、おそらく間違いない。
 大切な、記憶なのだろう。私にとっての大切な記憶があるはずの街で、ネロさんは料理屋を営んでいたという。ということは、私とネロさんの縁は魔法舎に来るより前からのものなのだろうか。
 私とネロさんがいつからの、どういう付き合いなのか。ただの客だったのか、それともその頃から特別な結び付きが、恋愛関係ではなかったとしても、何かあったのか。そのことを問おうとした矢先、ネロさんが不意に呻き声ともつかない声を発した。
「そういや今回のこと、ナマエのおふくろさんに連絡とかした方がいいのかな……」
「私の家族……」
「東の国で暮らしてるんだよ。親子仲は、まあ何処にでもいる普通の親子って感じだな」
 何故だかちょっと含みのある物言いをして、ネロさんはにやりと笑う。しかし何かありげな笑顔を向けられたところで、今の私にはその裏の何かを読み取るための記憶も情報もない。
「ネロさんは、私の母にも会ったことがあるんですね。その、お店以外でも」
「まあ、成り行きで」
 一体どんな成り行きがあったのだろう。もっと色々と聞きたいような気がしたが、残念ながらネロさんはその話をそこで打ち切ると、ふたたび調理へと戻ってしまった。
 それから暫く、私はメモ帳を眺めたり、それに飽きるとネロさんの調理を見学したりした。ネロさんの手つきは鮮やかだ。無駄がないし、食材や道具への愛着に満ちている。いつしか厨房の中は、金色の馥郁たる香りでいっぱいになっていた。
 鍋にはまさに香りと同じ色あいの黄金のスープが煮えている。ネロさんが少量のスープを小皿にとりわけ、冷ましながら味見をした。ごくりと自分の喉が鳴るのが分かる。
「ナマエ、ちょっと」
 ふいにネロさんから声を掛けられ、我に返った。
「は、はいっ」
「悪いけど、そっちの棚の左から二番目の瓶──」
「あっ、これですね」
 棚から鮮やかなオレンジ色の香辛料の瓶を取り、さっとネロさんに手渡す。調理は最終段階だ。今にもお腹が鳴り出しそうで、自然と動作も素早くなる。
 しかし、ただ空腹に突き動かされて身体を動かしたわけではなかった。自分でも意外なほどに、ネロさんの調理を補助するための私の動作はなめらかで、迷いがなかった。身体に馴染んだ動きなのだろう。
 ネロさんが虚をつかれたように、呆然と私を見つめていた。やがてはっと我に返ると、鍋の火を止め、ふたたび私の方に向く。
 視線がぶつかり、はからずもネロさんの瞳を覗き込む。そして思わず、狼狽した。
 ネロさんの瞳に滲んだ色は、寂しさのような焦りのような、複雑な感情が絡み合った色だった。
 ネロさんがぎゅっと唇を引き結ぶ。やがてその唇がゆっくりとほどかれる。
「なあ、本当に忘れちまったんだよな?」
 先ほどまでとは打って変わって、苦し気に吐き出すような声だった。問いかけることそのものが苦しみを伴うような、そんな声だ。その声を聞くだけで、胸がぎゅっと潰れるような心地がした。自分が何か、途轍もない過ちを犯しているような、そんな気分になった。
「……すみません」
 俯き、どうにかそれだけ絞り出した。それ以外に何と言っていいか分からなかったが、同時にそれがネロさんの求めている言葉でないことも分かっていた。
 俯けた視界の隅で、ネロさんが私に向け腕を伸ばすのが見える。しかしその腕が私に触れることはない。行き場をなくして宙をさまよった末、ネロさんの腕は、またぶらりと下ろされた。
 束の間の沈黙ののち、ネロさんが口火を切った。
「いや、こっちこそ悪かった。顔を上げてくれ」
 困ったように言われ、おそるおそる顔を上げる。
 ネロさんの顔は、声音と同じく困ったように笑っていた。またしても胸が締め付けられる。私はこの人の、この顔を知っている。記憶ではなく、心がそう訴えかけている。まるで心の表面を針の先でひっかいたような違和感が、ネロさんを見ていると次第に増幅されていく。
 それなのに肝心の頭は、ただ鈍く疼くばかりなのだ。もどかしい。もどかしくて苦しい。
「なんか、調理を手伝ってくれるときの様子っていうか、そういうのが今までとあんまり変わりなく見えたから」
 だから、全部嘘なんじゃないかって。ネロさんは自嘲気味に吐き出して、それから私に背を向け鍋に向き直った。コンロに火がつく音がする。私からの言葉を、ネロさんの背中が拒んでいる。
「まあ、ゆっくり思い出せばいいよ。俺は魔法使いだから、気が長いんだ」
 優しいはずのその言葉に、何故だか泣いてしまいそうになった。

 ★

 その日の晩は、はやくに布団に入った。特に何をしたというわけでもないのだが、何故か身も心もぐったりと疲弊しきっていた。
 記憶を失う前の私は、ネロさんの料理に心底惚れこんでいたらしい。それでも、ネロさんの料理を口にしたからといって、記憶を取り戻したりはしなかった。ネロさんはきっと、そうなることを期待していたのだと思う。つまり、ネロさんの料理に触発されて私が記憶を取り戻すというようなことを。それだけに、私の様子が変わらないと知ったときのネロさんは落胆を隠しきれていなかった。申し訳なさすぎて消えたくなるほどだった。
 正直に言えば、ネロさんが私の恋人だなどという話には、まるきり実感がわかない。記憶を失う前の私は毎夜ネロさんと一緒に眠りについていたというが、それだってネロさんは、
「今日は自分の部屋でひとりで寝た方がいいよ。恋人だって実感もない男と一緒に寝るのはさすがに嫌だろ?」
 そう笑って言ってくれた。「一人で寝るのが心細けりゃ賢者さんのところにでも転がり込んだらいい。賢者さんならきっとついていてくれる」、とも。
 優しい人だ。優しくて、気遣いができて、大人だ。それこそ、私なんかの恋人でいてもらうには勿体ないほどに。それでもネロさんが私のことを好いてくれているということは、彼の言動の端々から察することができる。あの優しい愛情を、恋人として受け容れることができたらどれほど幸せなことだろう。ネロさんに抱きしめてもらって眠る夜は、さぞ満ち足りているに違いない。
 今の私にはそれを受け容れるだけの資格がない。心細く思いながらも、まだほとんど言葉を交わしていない賢者さまを頼ることもできず、ひとり慣れないベッドに横たわっているしかない。今の私が気兼ねなく横になれるベッドなど、どのみちこの世の何処にもありはしない。
 真っ暗な部屋の中で、私はひとり自問する。
 私はネロさんのことを好きになるだろうか。想像はしてみたが、うまくイメージを描くことができなかった。誰かと恋に落ちた記憶も、誰かと結ばれた記憶もない。自分が誰かも分からないのに、誰かを幸福にできるなんて思えない。
 ただ、夕方厨房で見たようなネロさんの表情を、できればもう見たくはないとは思う。好きになれるかとは別の問題だ。私は多分、ネロさんを困らせたくない。ネロさんにつらそうな顔をしてほしくはない。今の私が間違いなく胸に持っているものといえば、それでほとんどすべてだった。
 自分が何者か思い出せないことよりも、自分が何者か思い出せないことでネロさんを傷つけることが怖い。じりじりと焦燥が胸の底を焦がしていくような心地がして、堪らず毛布を頭からかぶった。

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