番外編 その9

 5

 とにかくネロに本気でキレられるだろうことだけははっきりしていたのだが、女の面倒を見ようと買って出たのは少しでもネロの心証を良くしておこうとか、そういう魂胆とはまったく関係のないことだった。そも、俺様がネロに対してビビるということはほとんどあり得ない。たしかに三日三晩煮込んだシチュ―を空にしたときのネロの形相にはビビったが、そんなことはごく稀だ。いざとなれば凄み返して黙らせる。
 だから俺が女の面倒を見ようと言った理由など、単純に義理と責任。このふたつに尽きた。幸い、手下の面倒を見ることには慣れている。ネロの女なのだから俺の手下も同然だ。俺の傘下に入れるにはしょぼすぎることは否めないが、それはこの際見て見ぬふりをすることにした。
 一時は女の部屋に集まっていた魔法使いたちも、今はそれぞれの訓練や日課に戻っている。食べ損ねた朝食は昼食とまとめることにして、俺はひとまず女を食堂へと連れてきた。
 食堂はすでに誰かが魔法で片づけたのか、床にもテーブルにも汚れやシミひとつ残っていない。ついさっき、ここで女が頭を撃ち抜かれた現場とは思えない。四角い窓に切り取られた空は爽やかな青色で、中央の国らしい憎たらしい色を見せていた。ここが殺人未遂現場とは、言われなければ分からないに違いない。
「あのう、ブラッドリーさん」
「あ? なんだよ。つーかお前全然食ってねえじゃねえか」
「はい、おなか空いてなくて……」
 ネロが置いていったという昼食を食べながら、食堂のテーブルを挟んで俺の対面に座る女を遠慮なく眺める。ネロの女ということで多少興味をそそられたこともあったが、こうして見ると驚くほどに平凡で、ぱっとしない女だった。
 むろんネロを骨抜きにするだけあって、まったく見どころがないわけではない。しかし顔の造作はこの程度ならば何処にでもいる程度だ。ネロがこの女のどこに惹かれているのか、俺にはまったく理解できなかった。というより、理解はできるが共感はしないというのが正しいか。まあ、ネロと女の趣味がかち合ったことなど一度もないのだが。
 目の前に座った女は、いかにも不安げな様子できょろきょろと辺りを見回している。その様子を、俺は特に視線を隠すでもなく観察する。
 記憶を失くしているのだとフィガロは言ったが、文字は読めるしフォークやナイフも使える。ただ、場所や人物の記憶がごっそりと失われている。そしてその失われた記憶こそが、生きていくことにおいてもっとも重要なものだ。
 見知らぬ場所で見知らぬ魔法使いに囲まれ、自分が誰かも分からず人を頼って生活するしかない。この女でなくたって、心細くもなるだろう。
 空になった皿をテーブルの端に押しやり、俺はがたりと椅子を揺らした。女がびくりと肩を跳ねさせ、怯えたように俺を見る。そういえばこの女がぴいぴい泣きそうになるところは見たことがあっても、こんなふうに怯える様を見るのははじめてのことだった。普段から自信なさげにおどおどはしていても、怯えるということはない。東の国の人間にしては、これで案外肝が太い。
 生意気な女だからいつかびびらせてやろうとは思っていたが、実際目の当たりにしてみると、存外おもしろくなかった。
「まあ、この俺様が一度面倒を見るって言ったんだ。てめえは大船に乗ったつもりで俺に身を任せてりゃいいんだよ」
 女を安心させるため、豪放磊落を気取ってそんなことを言う。俺に任せていれば問題などないというのは本心だが、大船云々は俺様からのリップサービスだ。
 その効果があったのか、女は強張っていた表情をほんのわずかに和らげると、
「……お手柔らかにお願いします」
 そう言ってぺこりと頭を下げた。殊勝な女は嫌いじゃない。そもそもの原因が俺自身にあることもうっかり忘れ、俺は機嫌よく笑って見せた。椅子から立ち上がり、そのまま女も立たせる。
「俺の飯は済んだが、てめえもじきに腹が減る。まずは食いもんの調達の仕方からだな」
「はあ」
「どうせ今日は小間使いの仕事はねえんだろ? 魔法舎の案内がてら、このブラッドリー様が直々に魔法舎での生活っつーもんを教えてやるよ」
 食い散らかした皿はそのままにして、俺は女の腕を引き食堂を後にする。片づけはどうせお人よしの南か中央の魔法使いあたりがするだろう。俺が気にする必要はない。
 よくよく考えてみれば、ネロの女を引っ張り回すなんてことはこの数百年ではじめてのことだった。こういうことも、たまには面白いかもしれない。何せ普段はネロが嫌がるから、女にかまうのは最低限にしている。
「いいか? 面倒見てやってる間は俺様の命令は絶対だ。いいな? 口答えしたら窓から放り投げちまうぞ」
「は、はい……!」
 明日にはネロの不機嫌が降りかかるだろうことなど、最早すっかりどうでもよくなっていた。

6

 依頼調査を終えて魔法舎に戻った俺を待っていたのは、悪夢だった。
 談話室で呆然とする俺たち東の魔法使いと賢者さんを前に、ブラッドリーはぞんざいな調子で言う。
「左から順に、賢者、東のちっちゃいの、東の兄ちゃん、呪い屋、それからネロだ」
「いや、その紹介だとネロさんしか分からないんですが……」
「ネロだけ分かりゃてめえはそれで事足りるだろうがよ」
 ブラッドリーの横にいるのはナマエ。しかし見るからにいつもとは様子が違った。普段ならば俺が任務などで出ていたときには、ナマエは犬の尻尾の幻覚が見えるほどの大喜びで俺たちを出迎える。なのに今日はそれがない。どころかおどおどと困り果てたような顔つきで、事もあろうにブラッドリーの横に控えていた。
 おまけにブラッドリーをブラッドリーさん、俺のことをネロさんなどと呼んでいる。俺以外のファウストたちや賢者さんも、事態が呑み込めないのか一様に困惑した顔をしていた。
「どういうことだ? ブラッドリー」
 何か良からぬ事態だということだけは分かる。声をおさえて尋ねれば、ブラッドリーはわざとらしく鼻を鳴らした。長い付き合いだから知っている。こういうときのブラッドリーは、腹を立てているように見せかけて、その実自分の後ろめたさや非を押し隠そうとしているだけだ。
 我知らず、眉間に皺が寄った。ブラッドリーが観念したように溜息をつく。
「俺様から説明すんのか……。おいネロ、てめえ俺様が何言っても絶対キレねえって約束できるか?」
「は? できるわけねえだろうが」
 魔法使いが約束などそう簡単に交わすはずがない。かりに交わすとしても、そんな約束はまったく守れる気がしない。守れない約束をするはずがない。
 ブラッドリーの方も俺が頷かないことは承知していたに違いない。だよな、とぶっきらぼうに吐き出して、ひとつの咳払いののち言った。
「簡単に言うとだな、ミスラの馬鹿のせいでこの女の頭が吹っ飛んで死にかけて、何とか生き返りはしたものの記憶がごそっと無くなった」
「なっ──」
 まさか、そんなことがあってたまるか。平然と言うブラッドリーに絶句した。さすがの賢者さんも言葉を失っている。目の前のナマエは困ったように眉を下げていたが、けしてブラッドリーの言葉を否定はしなかった。ただ、申し訳なさげに肩をすぼめて立っている。
「本当なのか、君」
 ファウストが、おそるおそると口を開く。それでもやはり、声には狼狽が滲んでいる。
「あの、……はい。すみません……」
「まあ、詳しい話は双子とフィガロに聞けよ。あいつらが大体の事情を知ってる」
 半ば無理やりに話を切り上げたブラッドリーは、おら、と軽くナマエの背中を小突いた。たたらを踏むように俺たちの前に躍り出たナマエは、うろうろと視線を彷徨わせたすえ、
「すみません……」
 と再び謝り視線を下げた。その居心地悪げな様子から、ブラッドリーの言葉が現実のものであるという実感が、ようやく俺に襲い掛かってくる。
「まじか……」
 正直に言えば、今この場でブラッドリーとミスラに一発ずつ拳を入れたい。しかしミスラは不在だし、そもそも北の魔法使いたちを殴ることなど俺にはできようはずもない。ナマエのことは心配だが、見たところでは身体の具合が悪いわけではなさそうだった。あまりにおどおどしているので、むしろ話しかけて混乱させるのが可哀相なくらいだ。
 癪な話ではあるが、ここはブラッドリーに従ってフィガロたちに話を聞きに行くのが先決だ。あいつらならばブラッドリーと違って、少なくとも公平で公正な情報を俺に与えてくれるだろう。
「ネロ、俺たちは自分の部屋に戻るよ。あまり大人数で押しかけてもスノウ様たちが困るだろうし」
 歩き出そうとした俺に向け、ヒースが気遣うように声を投げかける。その気遣いは今から訪う双子に向けられたものかと思ったが、よくよく考えるまでもなく俺に向けられた気遣いだった。ファウストも「そうだな。あとで事情をかいつまんで教えてくれ」と頷く。
「分かった」
 俺も頷き返して、今度こそ足を踏み出した。
 と、そのとき。
「あのう、ブラッドリーさん」
 背後でナマエが、こそこそとブラッドリーに話しかける声が耳に届く。
「あ?」
「私も一緒に行った方がいいんでしょうか?」
 俺ではなくブラッドリーに問うその声に、肌の内側がざわりと逆立つような心地になった。思わず振り返れば、ナマエが途方に暮れたような顔でブラッドリーを見ている。ブラッドリーはといえば面倒くさそうに、それでもナマエと視線を合わせるためにわずかに腰をかがめ、
「行けばいいだろ。フィガロ達の説明に過不足がありゃ自分で物申せばいいだろうし」
 と投げやりな調子でナマエに答えていた。
「でも、私から言うことも特にないと思うんですけど」
「知らねえよ。大体、ネロが帰ってきたんだからネロについていけよ」
「でも……」
 ブラッドリーに向けられていたナマエの視線が、ゆっくりと俺の方へと向けられる。その瞳には困惑と、それに俺という人物をはかりかねているような、猜疑にも似た色がありありと浮かんでいる。
 はっきり言って、まったく傷つかなかったといえばそれは嘘だった。それでも、その瞳は本来のナマエの望むものではないことは分かっている。それに、俺だってナマエが魔法舎にやって来たばかりの頃には似たような目線を送っていた。ここはとりあえず、耐えるしかない。
「ブラッドリー、フィガロ達の話がどうであれ後でてめえにも話聞くからな」
「チッ、しゃあねえ。逃げるか」
「ナマエ、行こう」
「あの……はい……」
「ブラッドリー、てめえも来るんだよ」
 戸惑うナマエに手招きして、ついでに今にも逃げ出そうとするブラッドリーをひと睨みして、俺は今度こそ歩き始めた。後ろを遠慮がちについてくるナマエの気配を感じながら、心がぐったりと疲弊するのを感じる。本当ならば今すぐにでもナマエの手を引きたい衝動に駆られながらも、どうにか自制心が衝動に勝っていた。

 ★

 それから数十分後。双子の部屋を出た俺と賢者さん、それにブラッドとナマエは、四者四様の表情を浮かべていた。一番腹立たしいのはブラッドだ。巻き込まれましたとでも言わんばかりのうんざりしたその顔つきに、俺は頭の中で堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。
「何がミスラのせいだ! ほぼてめえのせいみたいなもんじゃねえか!」
「怒鳴んじゃねえよ」
「うるせえ!」
「てめえがうるせえ」
 俺の怒鳴り声も一顧だにしない様子のブラッドは、
「見ろ、てめえの女がびびってんぞ」
 まるで俺からの攻撃を受ける盾にするかのように、ナマエの手を引き俺の前へと引っ張り出す。居心地悪げなナマエが、ブラッドの言うとおりかすかに怯えたように俺を見上げていた。
「あ……悪い……」
「いえ、あの……すみません……」
 一応俺との関係についてはすでに誰かから聞かされているのだろうが、未だ実感が伴ってはいないのだろう。先ほどから、ナマエは俺に対していっそ清々しいほどに他人行儀だった。もともと内気な性格ではあるのだろうが、恋人同士という関係があることで却って俺を避けているようにも見える。
 しかしそれだけならば仕方がないことだと諦めもつく。面白くないのは、俺に対してはよそよそしいナマエが、昨日からナマエの面倒を見ているというブラッドに分かりやすく頼り切りなことだった。ただでさえ、この二人は気が合うんだか合わないんだかよく分からないなりに、仲がいい。俺からしてみれば面白くないことこの上ない状況だった。
 そんな俺の胸中をさらに逆撫でするように、
「ブラッドリーさんはこの二日私の面倒を見てくださったので、その、あまり責めないでください」
 今もまた、ナマエはブラッドを庇う。
「ほら、女もこう言ってることだ。大体、肝心なときにてめえがいねえのが悪い」
 ブラッドが調子に乗ってけらけらと笑うのに腹が立ち、ひとまず脛を蹴り飛ばした。このくらいは正当な権利だ。
 ともあれ、大体の事情は理解した。ブラッドが半分くらいは悪いことも理解した。ついでに言えば今後フィガロに頭が上がらなくなるだろうことも理解したところで、俺たちはぞろぞろと食堂に向かって移動し始めた。そろそろ夕食の支度をしなければ間に合わない。さすがに俺たちが依頼から戻ったばかりであることはみんな分かっているだろうが、だからといってあまりにも夕食が遅くなるのも申し訳ない。魔法舎にはまだ子供と呼ぶべき年齢の魔法使いもいるのだ。規則正しい生活習慣は重要だ。
 最上階の双子先生の部屋を出て、並んで階をくだる。双子と同じ最上階に部屋があるブラッドまでついてきたのはよく分からないが、面倒なので無視を決め込んだ。
 賢者さんからの俺を気遣うような視線には気付いていたが、後ろにナマエがいる手前気付かなかったことにする。たとえ記憶がなくてもナマエはナマエだ。自分のことで俺や賢者さんを思い煩わせるのは嫌がるはずだった。
 それにしても、どうしたものか。今後のことを考えるだに、溜息がこぼれそうになる。
 思案に耽りながら黙々と階をくだっていると、やおら背後からナマエの声がした。
「あの、ブラッドリーさん」
「あ?」
「夕食はネロさんが作られるんですよね?」
 何故俺の話を俺に聞かないのか。文句を言いたくなる気持ちをぐっと堪え、俺は振り向くこともせず歩き続ける。隣の賢者さんがやはり気遣わし気に「心中お察しします」と小声で呟いた。こんな心中、みっともなくて察してほしくはなかったが。
 ナマエに問われたブラッドは、
「作るよな?」
 と権高に俺に声を飛ばす。こっちはこっちで俺に話しかけてこなくてもいいというのに、当たり前のように話しかけてくるのだ。
「作るけど」
 ようやく振りかえって答える。するとナマエが、
「どちらで召し上がられますか?」
 重ねてブラッドリーに問いかけた。
「あー、ここだとネロがうっせえし、部屋か」
「おい」
 当たり前のように返事をするブラッドリーに、堪らず足を止めた。ナマエがきょとんとした顔で俺を見ている。ブラッドリーは不機嫌そうに舌打ちをした。が、舌打ちしたいのは俺の方だ。
「あんた、何でブラッドリーにそんな伺い立ててんだ」
「えっ、あの、ブラッドリーさんが食事の場所は自分で決めたいから、毎回確認するようにって」
 とんでもない返事が返ってきて、俺は足元がぐらつくような感覚を覚えた。すかさず賢者さんが「ネロ、しっかり!」と俺を励ます。いや、しっかりも何もないだろう。というかブラッドリー、こいつ。
「どさくさに紛れて自分に都合いいこと吹き込んでんじゃねえ!」
「いいだろ別に。面倒見てやった手間賃みてえなもんだ」
 悪びれる様子もなく、ブラッドリーははんと鼻を鳴らした。悪びれるどころか、何が悪いのかすら分かっていなさそうな物言いだ。頭が痛くなる。誰だ、ブラッドに右も左も分からないナマエを押し付けたのは。せめてもっと他にまともな人選ができなかったのか。ルチルとかリケとか。
 そもそもブラッドは盗賊組織の頭を張っていたようなやつなのだ。そんな男にメイド業などやっているナマエを任せたら、こうなることは誰でも想像できるだろうに。戸惑うナマエを不憫に思い、俺は溜息をつく。
「この分じゃほかにも色々嘘八百を吹き込まれてそうだな」
「そうですね。どうしましょう、私がナマエさんについていましょうか?」
 賢者さんが俺を見上げ、首を傾げる。たしかに賢者さんとナマエは友人同士だし、同性の方が何かと気兼ねもしないだろう。
 しかし俺は、個人的な感情を理由に首を横に振った。
「いや、俺が引き受けるよ」
 賢者さんは「そうですか」と、それ以上のことは言わずに身を引いた。こういうとき、賢者さんの距離の取り方をありがたく感じる。
 ナマエの都合も希望も聞かないままで話がまとまったところで、ようやく食堂に到着した。当然ながら、食事の支度は何ひとつ終わっていない。今日は午後からカナリアさんが来てくれていたらしいが、食事の準備にまでは手が回らなかったようだ。
「とりあえず、夕食の準備だな。本当はあんたに下ごしらえを頼んでたんだけど、この分じゃそれも忘れちまってるよな」
「えっ、あ、はい」
 ナマエが恐縮したように返事をする。俯けた頭を撫でようと手を上げかけ──しかしそれは自制した。今のナマエは俺の恋人のナマエではないのだ。むやみやたらと触れるわけにはいかない。
 そのかわり、俺はひとり厨房に入ると、いつも定位置に置いてあるナマエの厨房用のエプロンを手にとる。食堂に戻ると、それをナマエに手渡した。
「じゃあ支度するから手伝ってくれる? 記憶がないから色々不便はあるだろうけど、どのみち働くなら覚えなおさなきゃならねえこともあるだろうから」
「はい、ありがとうございます」
「いいよ、こっちが手伝ってもらおうってんだから」
 ファウストたちへの説明を賢者さんに任せ、ついでに成り行きでついてきていたブラッドを追い払うと、俺は戸惑いがちに唇を固く引き結ぶナマエを連れて厨房に足を踏み入れた。

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