03

 店主さんと別れ、中庭の掃除を済ませると、私はそのままパントリーへと向かった。
 食堂や厨房は店主さんに任せるにしても、厨房から地下へとつながるパントリーはその広さも屋敷の広さ相応だ。店主さんにも賢者の魔法使いとしてやらねばならないことがあるから、何から何まで手伝いをお願いするわけにもいかない。
 パントリーに下りるため厨房をのぞくと、丁度カナリアさんが朝食に使用した皿を拭いているところだった。声を掛けて中に足を踏み入れると、カナリアさんはにこりと笑う。
「小腹でもすいたの?」
「そ、そういうわけでは……備品のチェックをするのに、先にパントリーの中身を確認しようと思いまして」
「あら、それならさっきネロさんが食堂やキッチンの備品チェックと一緒に済ませておいてくれたわよ? ナマエさんにはもう話してあるって、ネロさんが言っていたけれど」
「パントリーのチェックまで?」
 さすがに自分の店を持っていたことがある人は、仕事が早い。私がぐずぐずと中庭の掃除をしている間に、店主さんは私の何歩も先まで手伝いを済ませておいてくれていた。
 店主さんの気遣いに有難さを感じるのと同時に、自分の愚鈍さに情けなさも感じた。本来店主さんは、来るべき<大いなる厄災>に向け、魔法使いとしての訓練をするためにこの魔法舎にいるのだ。雇われ、賃金をもらった上でここで働いている私とは違う。余計な仕事を任せるべきではない。
「はあ……」
 情けなさに、思わず溜息をつく。そう大きな溜息でもなかったはずだが、しかしカナリアさんはその溜息を見逃すことなく、厨房の隅に置かれていたスツールを一脚、私の前に置いた。自分も同じくスツールに腰をおろし、彼女は「座って」と促す。指示されるまま、私は腰を下ろした。
「それで、どうしたの? 中庭の掃除でバテちゃった?」
「あ、いえ」
 そういうわけではない。たしかに暑くはあったけれど、ここでの生活は規則正しく、食事も栄養満点だ。そうそう体調を崩すこともなさそうに思える。
 しかしカナリアさんは、自分が尋ねたわりには私の返事を聞かない。
「今日暑いものね。私も、ずっと厨房に篭っていると眩暈がしてきそう。ここって通気性があまりよくないから」
「カナリアさんが倒れては一大事です。無理はなさらず……」
「そうそう、暑いといえばさっきネロさんが……」
 話がぴょんと飛び、何処からか店主さんの名前が飛び出す。カナリアさんはスツールから立ち上がると、テーブルの上に置かれていた瓶を持ち上げ、私に見せた。
「これ、ネロさんからの差し入れ」
「それは?」
「ネロさんが漬けた果物のシロップですって。今日は暑いから、氷と炭酸水で割ってどうぞって」
 そう言うと、カナリアさんは食器棚から手早くグラスをふたつ取り出し、そこにシロップを匙で何度か注いだ。匙の動きに合わせ、赤くて丸い果実がシロップの瓶の中でゆらめいている。グラスに真四角の氷と炭酸水を注げば、あっという間に涼し気なジュースの完成だ。
 テーブルの上に控えめな甘い匂いが漂って、何ともいえず幸福な気分に満たされる。仕上げにハーブを乗せると、まるでお店で出てきそうなおしゃれな見た目の飲み物になった。実際、店主さんのお店では同じようなものを出していたのかもしれない。
 きれいに磨かれたグラスには曇りのひとつもない。小さな泡がシロップの赤と炭酸水の透明の中を浮かんでいくさまに、ごくりと私の喉が鳴る。
「わあ……!」
「氷、わざわざ北の国で切り分けてきたものを、魔法で溶けないように保存しているそうよ」
「そう聞くと、なおさら素晴らしいものをいただいているような気分になりますね……!」
 魔法はもちろん氷を保存するためだけにしか使われていないのだろうが、自分が口にするものに不思議の力の欠片が宿っていると考えると、それだけで一層心がときめく。
 カナリアさんがマドラー代わりに匙をとってくれたので、ぐるぐるとグラスの中をかきまわした。それからそっと口をつけ、グラスを傾けると、すぐに口の中でしゅわしゅわと爽やかな甘味が広がった。ただ甘いだけじゃなく、後にはほのかな酸味が後味に残る。陽の下で働いた後に飲むにはまさにうってつけ、今の私には天上の飲み物かと思われるような美味しさだった。
 こんなに美味しいものを、食事とは別にいただくことができるなんて。
 つくづく、ここが恵まれた職場であることを実感する。それと共に、もしかしたらこのシロップは、店主さんが先程の私との遣り取りの中に思うところがあり、それで差し入れてくれたものなのかもしれないとも思った。
 私があまりにも店主さんの料理を食べたがるから。だから店主さんは、手ずから漬けたシロップをお裾分けしてくれたのだろうか。
 そう考えてしまうのは、少し自分に都合がよすぎるだろうか。
 ちびちびとシロップを啜りながら、私がぼんやり店主さんの優しさに思いを馳せていると、同じくシロップのグラスを片手に、カナリアさんがうっとりと溜息をついた。
「ネロさんって本当によく気が回るというか、一家にひとり居てほしいタイプだわ」
「そうですねぇ……」
「料理人は天気や気候を知っておくことも大切だって言ってたわよ。私も料理はするけれど、なんとなく暑い日は冷たいものがいいなとか思うだけで、そこまできちんと天気のことまで考えて献立をつくることなんかないのに」
 一級の料理人はやっぱり心構えから違うんだわ。そう言って溜息をつくカナリアさんの言葉に相槌を打ちつつ、私はふと気が付いた。
「ああ、それで……」
 私の独り言に、カナリアさんが首を傾ける。
「それでって?」
「いえ、さっき中庭に向かう途中の渡り通路で、たまたま店主さんとお会いしたんです。店主さんは食堂に向かうところとおっしゃってたんですけど、食堂に出るだけなら渡り通路に出る必要もないから、不思議だなと思って」
 その時は特に不思議に思わなかったが、よくよく考えれば店主さんがあそこにいたのは不思議なことだった。食堂や厨房はそれぞれの居室と同じ建物の中にあるのだから、用がなければ建物から出る必要もない。魔法舎の外に用事があるのなら、中庭に通じる通路ではなく表の出入り口から出るはずだ。
 きっと、今日の天気や気温、湿度といったことを、中庭に出て確認していたのだろう。店主さんの料理から感じられる濃やかさは、そうした店主さんの五感と経験則をすべて投入されているからこそなのかもしれない。
「店主さんの料理が美味しいのは、きっと食べる人のことを一番に考えてくれているからなんでしょうね」
 炭酸水をうっすらと赤く染めたグラスの中身を見つめ、私は呟いた。
 自分ではない誰かのために、当たり前のように最善を尽くす。それがどれほど難しいことなのか、私たちはみな知っている。
 ふと視線を上げると、カナリアさんが嬉しそうに、やわらかく微笑んでいた。
「どうかされましたか?」
 不思議に思って首を捻ると、カナリアさんはやはり嬉しそうに肩を揺らして笑った。
「ナマエさんって、ネロさんのことになるとよく話すんだなと思って」
 その指摘に、自分がいつになく饒舌になっていたことに気が付いた。思わず赤面して、顔を俯ける。頭の中で思考をこねくり回すのは常のことではある。けれどそれを臆面もなく話すとなると話は別だ。面白い話のひとつでもできればまだいいが、私にはそんな話術はない。
「あっ、あの、すみません……カナリアさん、」
 慌てて謝るも、慌てたせいで妙にどもってしまう。そんな私を見て、カナリアさんはグラスを置くと、励ますようにちいさく私の腕を叩いた。
「違うの、怒ってたり呆れてるわけじゃないの。ただ、ナマエさんはまだあまりここに慣れていない感じがしたから……話のとっかかりができて嬉しいなと思っただけ」
「気を遣わせてしまって、すみません」
「だから謝らなくていいの。それにしても、東の国の人ってすごく気を遣うのね。ヒースクリフさんもよく謝ってるところを見るし」
 カナリアさんが話題をずらしてくれたことに気付き、私もそれに乗っかることにする。
 ヒースクリフ様といえば、同じ東の国の中でも有力な貴族の御曹司だ。さすがにリケやミチルのように呼び捨てにするのは憚られるので、私は勝手にヒースクリフ様と呼ばせていただいている。もっとも、まだヒースクリフ様と言葉を交わしたことはない。
 この魔法舎で私が話をしたことがある魔法使いはリケとミチル、ルチル。それに店主さんとシャイロック、小さな双子。あとは騎士のカインと──東の森のシノくらいだろうか。
「たしかに、ヒースクリフ様は貴族なのによく頭を下げていらっしゃるような……。でも同じ東の国の魔法使いでも、シノはまた少し違いますよね?」
「そういえばそうね。お国柄っていうのはあるんだろうけれど、それだけで人や魔法使いを分類して分かった気になるのは、少し早計だったかも」
 すぐさまカナリアさんが自分の言葉を訂正したので、私は思わず顔を綻ばせた。魔法使いたちの住まう館の使用人を申し出るだけあり、カナリアさんは何事にも柔軟な思考を持っているのだ。
 軽やかで、芯があるのに柔らかい。カナリアさんのそういうところに、私はひそかに憧れている。
 グラスの中で氷が揺れる。エプロンで濡れた指先を拭うと、私は、
「カナリアさんは、素敵な人ですね」
 と小さな声で発した。カナリアさんに聞こえなければ、それならそれでいいと思って発した言葉だったのだが、カナリアさんは聞き逃すことなく私の言葉をつかまえると、からりとした中央の国の晴天のように笑った。
「ナマエさんも、きっと素敵な人なんでしょう? 私はまだ、あまりナマエさんのことを知らないけど」
 それから一度視線をゆるめると、いささか表情を引き締め私を見据える。
「私はナマエさんと知り合って日が浅いし、此処で暮らしている人たちはこの国──ううん、この大陸全土にとって大切な人たちばかりだから、本当はこんなことを言っていいのか分からないけど」
 カナリアさんの前置きに、私はごくりと唾を飲む。その後に続くのが、世間話の延長にありながらもカナリアさんにとって大切な思いを示す言葉であることは、言われなくても明白だった。
「ナマエさん、私の本心を言えば、もしも困ったことがあったら、私には何でも気兼ねなく言ってほしい。でもきっと、ナマエさんは何でも誰かに相談できるタイプではないでしょ」
 責めるわけでもなく、カナリアさんは言った。まだほんの短い期間しか一緒に働いていなくても、カナリアさんはもう私の性格をある程度見抜いているようだった。
 内弁慶で、人見知り。店主さんのような元からの顔見知りに話しかけることはできても、ほかの魔法使いたちに自ら話しかけることは苦手。そもそも人付き合い全般が得意ではないから、店主さんに話しかけるときにも異様に馴れ馴れしくなってしまったりする。
 カナリアさんや賢者様は同性だから、それでもまだ話をしやすい。けれどそれは、けして親しく付き合っていけるという確信を持つことと同じではない。
 信頼できる人間をひとり増やすということが、私にとってどれほどの一大事であるのかを、カナリアさんは薄々察しているのだろう。
 だから、とカナリアさんは言葉を継ぐ。
「だから、もしも私に相談しにくいこと、相談できないことなら、賢者様に相談してもいい。賢者様ならきっと、親身になってナマエさんの話や相談を聞いてくれる。賢者様にも話しにくいことであれば、ネロさんに話せばいいと思うわ」
「店主さんに、ですか」
「同郷だから話しやすいこと、っていうのだって、きっとあるでしょ」
 それだけ言うと、カナリアさんはスツールから腰を上げ、空になったグラスの片づけを始めた。
「ナマエさん、お昼まで書庫の掃除をお願いしてもいい? できたところまででいいから」
「分かりました」
 指示を受けた私もまた腰を上げると、早足に厨房を後にした。
 カナリアさんからの優しさに胸がいっぱいになるのと同時に、内向的な私の性格ゆえに親身になってくれるカナリアさんに気を遣わせていることに、幾ばくかの申し訳なさを感じていた。

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