ファウストとネロと幸福の村

(※本編完結後)
(※ファウスト視点)

幸福の村での宴は、素朴ながらも心の尽くされたものだった。北の魔法使いたちも皆、いつになく大人しく席について食事を摂っている。彼らに限って「観月の儀」の舞で疲れ切っているということもないだろうから、振る舞われた食事に満足して文句も出ないのだろう。たしかにどの料理も滋味が豊かで味わい深い。
「へえ、これ美味いな」
 ふと、隣で食事をしていたネロが呟いた。視線は今口に運んだのだろうスープの皿へと向けられている。
「何で味付けしてんだ? ベースはブイヨンなんだろうけど、それだけじゃこの味にはならねえよな……」
 隣の僕に向けて発された言葉ではないのだろうが、それにしては随分と大きな独り言だった。暫し、相槌を打つべきか逡巡する。その間にもネロはスープを味わったり何やら呟いたりを繰り返していたが、やがて村娘のエマが給仕にやってくると、おもむろに声を掛けた。
「なあ、このスープ作ってくれた人って誰?」
「スープなら、奥のキッチンにいる村長の奥さんよ。何かあった?」
「いや、作り方が知りたくてさ。あとでキッチンが落ち着いたころに話を聞きに行ってもいいか?」
「いいと思う。奥さんにも声を掛けておくわね」
「悪いな」
 そうして立ち去るエマに礼を言うと、ようやくネロは満足したように食事を再開した。一連の遣り取りを見ていた僕は、普段のネロらしからぬ様子に面食らいつつ、ぼうとネロに視線を送る。その視線に気付いたネロが、胡乱げに「何だよ?」と尋ねた。
「君は食事のことになると、時々妙に積極的だな」
 今しがた考えていたことを率直に伝えれば、今度はネロが面食らったように目を瞬かせる。
「えっ、そうか?」
「普段ならああやって積極的に村人に話しかけたりはしないだろ」
「あー、まあ……たしかに?」
 歯切れ悪い物言いは、ネロ自身僕の言葉に心当たりがあるからなのだろう。魔法舎に来る前は接客業をしたいただけあって、ネロはけして人あたりが悪いわけではない。それでも積極的に他者に関わろうとはしないし、ああしてほとんど見ず知らずの他人に頼み事をすることも稀だ。
 東の魔法使いとして、僕もそういうところがまったくないわけではない。というより引きこもっていた期間が長い分、自分はネロよりも輪をかけて人嫌いだという自覚がある。だからネロのそういう性質を責めるつもりはなかったし、珍しいなと思う以上の感情を持つこともない。
 僕にはそれ以上その話を続ける気もなかったが、しかしネロの方がばつが悪そうに、一度閉じた口をふたたび開いた。
「俺の場合、料理は趣味で、そのまま日々の糧でもあったからさ。生活の大部分を占めてるものに分かんねえことがあったりすると、どうも気になってもやもやするんだよ。それをそのままにしておくのも、なんつーか妙な感じだろ?」
「気持ちは分かる」
「な? そう思えば、料理のことだけ聞くくらいならって思うんだよ」
 だから多分、南や中央の国の魔法使いたちのように、誰にでも気さくに、何でも物怖じせず話しかけるというわけではないということを、ネロは言外に強調して答えた。
 別に恥じることでもないだろうに。そう思ったのと同時に気付く。ネロはおそらく照れているのだ。僕よりも長く生きているわりに、ネロにはそういうところがあった。
「真面目だよな、君」
 言うか悩んだ言葉を、結局口にした。途端にネロが、一層気まずげな顔をする。数か月前ならば口にしなかったであろう言葉だが、今ならば伝えても許されるような気がした。
「真面目……。いや、そういうわけではないけど」
「料理を作ることが好きで、料理に真剣に向き合ってるからこその今の君の料理の腕があるんだろ」
「……先生に誉められたことなんてねえから、なんかこそばゆいな」
 そうして一瞬、ネロは視線を遥か遠くに送るように、そっとやわらかく目を細めた。その視線の先に誰がいるのかは、流石に僕でも察しがつく。
 ほんの僅かな間を置いて、ネロは言う。
「美味いものを食べるとさ、前までは自分で作ってみたいってそればっかり思ってたんだよ。人に食べさせるのはおまけだな。店で出すにはほかの料理や飲み物との兼ね合いとか、調理時間やコストの問題もあるし」
 だけど、と。
「今は、作ってやったら喜ぶだろうなってのが先に来る」
 ネロのその言葉を聞き届けたのは、この場で僕ただひとりだった。ヒースクリフとシノは先ほどの舞の話をしながら楽しげに食事をしているし、北の魔法使いたちは僕とネロの会話になど一切興味を持たない。
 僕だけが唯一、ネロのやわらかで、愛おしげにひそめた声を耳にした。気恥ずかしいような光栄なような、どこか懐かしいような泣きたくなるような感覚が、つと僕の胸に去来する。
 こういう感覚を、僕は昔知っていた。
 あの頃の感覚よりは落ち着いて静かでも、それはたしかに。
 かすかに震えた胸に気付かないふりをして、僕はこれみよがしに咳払いをした。
「ネロ、それは惚気か?」
 途端、ネロがはっとして、それからあからさまに狼狽える。
「あっ、いやそういうわけじゃ」
「秘密にはしておく。聞かなかったことにはしない」
「……頼むよ、先生」
 そのとき、ふたりで話し込んでいたヒースクリフとシノが僕らの会話に混ざってきて、話はそこで幕切れとなった。ネロのひっそりと赤らんだ耳を横目で確認しながら、僕はこのスープを後日振る舞われるであろう彼女がどれほど喜ぶか、ネロがどれほど心満たされるかにそっと思いを馳せる。

(20200829)

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