ブラッドリーとネロ

(※本編完結後)
(※ブラッドリー視点)

 珍しいこともあるもので、ネロの方から俺に晩酌に付き合えと言い出した。ここのところ、くだんの人間の女にかまけていたネロだ。わざわざ俺に声を掛けてくるあたり何かあるのだろうと踏んで、思い切り焦らしてからようやく承諾してやった。
 その時点でネロは相当不機嫌だったが、今更俺からあいつの機嫌を窺うような真似はしない。適当に予定を取り付けて、俺がネロの部屋に行くかわりにつまみを用意しておけと伝えた。ネロは仏頂面をしていたが、それでも最後にはいつもどおりに俺の要求を呑んだ。

 莫迦みたいに大きな月が気味悪いほどに白白として、まるで地上のすべてを塗りつぶすように皓皓と輝いている夜だった。こういう夜には大抵、<大いなる厄災>との戦いを思い出して気分が悪くなる。押し返したとはいえ、前回の戦いはほとんど敗けも同然だったのだ。先の戦いの敗者である俺たちを見下ろす<大いなる厄災>は、俺にとって神経を逆撫でする存在以外の何者でもない。
 とはいえその不機嫌も、ネロの部屋のドアを開けた瞬間にどこかへとすっかり消え去った。ネロらしいといえばネロらしい、厨房だか部屋だか分からないような室内には、俺の好きなフライドチキンのにおいがぷんぷんと充満していた。
「よう、来てやったぞ、ネロ」
 もの言いたげな視線を寄越すネロに、自分の部屋から持ってきたとっておきの酒の瓶を押し付けて、俺はさっさとテーブルについた。

 果たして、どういう会話の流れでそうなったのかは覚えていない。俺は気分よく酒を飲んでいて、ネロは常にもの言いたげに、会話の糸口を探すように落ち着かない態度をしていた。自然な流れだったかもしれないし、ネロがいきなり言い出したことかもしれない。とにかく、ある瞬間、ネロは言った。
「俺に何かあったら──」
 奥歯に物が挟まったような物言いに、俺はネロの言葉を遮って、
「何かって何だよ?」
 と切り込む。
「分かんねえけど……」
 ネロの返事は、やはり煮え切らない。ばつの悪そうなネロの顔を眺めながら、こいつ、今夜はこの話がしたくて俺に声を掛けたんだな、と俺は察した。
 昔からネロにはこういうところがある。ネロにとっての大事な話をしたいとき、こいつは何か自分で作った飲み食いするものがある場でないと、自ら話を切り出せない。
「まあ、聞いてやるよ」もう大昔のことを懐古しながら、俺は言う。「おまえに何かあったらなんだって?」
「……後を頼みたいんだよ、ブラッドに」
「だから後って何──」
 そう問いを重ねようとしたところで、合点がいった。
「ああ、あの女のことか」
 ネロが浅く、本当に浅く頷いた。
 二十も過ぎたというわりには、どこか餓鬼くささの抜けない人間。ネロが根負けするほどの、東の人間らしく執念深い、そのくせ気弱なあの女。
 目下ネロが腕の中に閉じ込めているあの女を、ネロは自分に何かあった時には頼むと、そう言っている。それを頼みたくて俺に飯を振る舞っている。
 合点がいくのと同時に、何となく釈然としない思いが胸に沸いた。そういう頼み事をする相手として、自分が不適格だという自覚くらいはさすがに俺でも持っている。
「別にいいけどよ。てめえ、俺がどういう男かってことはよく知ってんだろ」
「知ってるさ。ろくでなしで向こう見ずで、どうしようもねえやつ」
「よし、表出ろ」
「けど、仁義とかそういうもんは守るし、女にむちゃくちゃなことはしねえだろ」
 ネロの返事に、俺は暫し返答に窮した。たしかにその返事に間違いはなかったが、こうして改めて面と向かって言われると、さすがに多少の面映ゆさは感じる。
「……俺がてめえの女を食っちまってもいいってことだよな?」
 誤魔化すようにそう尋ねると、「いいわけねえだろうが」と即答された。
「そういう話じゃねえだろ……いや、まあ俺が石になった後、ナマエがおまえに乗り換えたいって言うなら仕方ねえけど……」
「お前のお下がりか……気乗りしねえな」
「気乗りしねえなら手ぇ出すんじゃねえよ」
「どうだろうな。保証はしかねる」
 餓鬼くさかろうとネロのお下がりだろうと、女は女だ。それにあと何年かしたら化けるかもしれないという見込みも、まったくないわけではない。
 ともあれ、そんなことを頭の隅で考えながらも、俺の意識はあくまでも目のまえのネロに向いていた。
 かつて俺から離反したこいつが、こうして俺に頭を下げにくる。いや、頭を下げられてはいないのだが、ここまで言われてはほとんど頼み込まれているのと同じだろう。
 自分の手で大事なものを守れなくなったとき、結局こいつが頼れるのは俺だけなのだ。そう思うと、こんな夜でも多少は胸がすく。
「しかし、てめえも随分とまるくなったもんだな。ここぞってときに臆病風に吹かれて小うるせえこと言うのは昔っからだろうが」
「別にまるくなってなんかねえよ」
 むっとしたようにネロが返す。
「なってんだろ。人間の女なんかに惚れこむと、てめえの乳歯みてえな牙すら抜かれちまうと思うとぞっとしねえ話だぜ」
「だから──」
「心配しねえでも、人間の女ひとりくらい面倒みてやるよ」
 ネロがはっとした顔で俺を見た。むっとしたりはっとしたり、今夜のネロはいつになく忙しそうだった。
「約束はしねえけどな。これ以上くだらねえ約束させられんのは御免だぜ、俺は」
「そこまでは望んじゃいねえさ」
 ここぞというとき、ネロが頼るのは世界最強のオズでもなければミスラでもない。この俺様だ。ネロがどこまで計算しているかはしらないが、その事実はたしかに、他愛ない頼まれごとを請け負ってやろうと俺に思わせる程度に、俺の自尊心をくすぐった。

(20200806)

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