番外編 その5

 私もネロも歯磨きをしてしまった後なので、白湯だけ沸かしてテーブルについた。しんと静まり返った部屋の中では、ネロが何から話したものかと、話の糸口を探しているのが気配で分かる。否応なしに空気が張りつめて、私は今更ながらに自分がネロの内面に踏み込もうとしているのだということを実感した。
 いずれネロが話してくれるまで待とうと思っていたその場所に、はっきり自ら踏み込んでしまっている。マグカップから上がる白い湯気の向こうのネロが、いつもよりもさらに慎重に、おそるおそる言葉を選んでいるのが分かった。
 やがて緊張感がだんだんと空気に溶け始め、時間の経過とともに空気がゆるみ始めてきた頃、ようやくネロは重い口を開いた。
「今この魔法舎には俺も含めて二十一人の魔法使いがいるわけだけど、そのうちのほとんどは人間同士の親から生まれた魔法使いだな。詳しいことは知らねえやつもいるけど……まあ、それも当然っちゃ当然だよ。そもそもこの世界には圧倒的に人間の数の方が多いわけだし」
 予想していたのとは違う切り出し方に、私は一瞬ぽかんとした。てっきりネロの個人的な話が始まるのかと思ったが、ネロの言葉は魔法舎にいる魔法使い──いや、魔法使い一般の話だ。しかし、ネロのことだから関係ない話で誤魔化すなんてことはしないだろう。困惑しながらも、私は黙ってネロの話に耳を傾けた。
 ネロが小さく、微笑んだ。
「そういうわけだから魔法使いの家系っていうのかな、そういうもんは双子やフィガロが全盛期だったような大昔ならともかく、今はもうほとんど残ってねえんだけど。ただ、そうは言っても当然、魔法使いと人間の間に生まれたやつもいる。南の兄弟とかそうだな。あとはブラッドもそうだったはずだ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。ブラッドはたしか父親が魔法使いだけど、人間の母親との間に人間の兄弟がわんさといたって話だ」
「へえ……」
 言われてみればたしかに、ブラッドリーが人間の両親から生まれてきたというのはぴんとこない話だった。しかし、それは考えてみればという話で、今まではそも、考えたことすらなかった。
 魔法使いと共に生きること。魔法使いと家族になるということ。
 私はネロと恋人だが、家族になったわけではない。もちろん、ネロと共に生きていく覚悟は決めているものの、それはあくまでネロという個人とともに生きていく覚悟を決めたというだけ。それだけだ。
 ネロがひと口白湯で口を潤す。いつもと同じような話しぶりではあっても、どこかまだ言いにくそうな、言葉が喉に絡むような話し方をネロはしていた。
「ええと──で、だ。子供が魔法使いかどうかっていうのは、まあその魔法使いがどの程度の力を持っているかとか、そういうのにも依るんだろうけど──たとえば、そうだな。南の兄弟の母親は有名な魔女だよな。長く生きてて、強い魔力を持ってた。その結果かどうかは知らねえけど、子供はふたりとも魔法使いとして生まれた」
 南の魔法使いのルチルとミチル。彼らの出自はおそらく、この魔法舎においてはもっともよく知られたものだろう。限りなく部外者である私の耳にすら入るほどだから、いかに彼らの母親が力の強い魔女だったのかは推して知るべしというところだ。
 ここまで話を聞いていれば勘のにぶい私でも、ネロが何を話そうとしているのかの察しがつき始めていた。そしてどうしてそれを口にしづらいのかも、あわせて理解する。
 私では到底想像することができなかったであろう、ネロの思い。なるほどたしかに、重い話だとネロが言うのも頷けた。
「何が言いたいか分かった?」
 私の胸中を読んだのか、眉尻を下げてネロは笑った。私は頷く。
 それでもまだ、ネロは言葉を途切れさせることはない。言いにくそうではあっても、ひと度話すと決めたからには最後まで話し切ろうとするような、そんなネロの実直さが彼の口を開かせる。
「もちろん、父親が魔法使いだったってパターンと母親が魔法使いだったってパターンと、まあそういう要因はいろいろとあるんだろう。けど、俺は一応、弱いなりに賢者の魔法使いに選ばれた魔法使いで、古い魔法使いでもあって……そんな俺の子供が、人間として生まれてくる可能性ってどの程度なんだろうな」
「ネロはつまり、……人間の子供が欲しいんですか?」
 私の問いに、ネロは首を横に振った。
「いや、そうじゃない。そもそも俺は子供が欲しいなんて思ったことないし。ただ、やることやったら子供ができる、なんてのは十分ありうる話ってことだよ」
 はあ、と長く溜息をついて、ネロはちろりと此方に視線を寄越した。ごくりと私の喉が鳴る。
「じゃあネロは、人間の子供が欲しいのではなくて……魔法使いの子供が生まれてきたら困る……?」
「ま、そういうことかな」
 軽く笑ったネロの表情は、私を気遣うようなあたたかさに満ちている。それなのに、笑っているはずなのに、ネロの瞳はひたすら静かでしんと冷たい。たとえていうならそれは、諦めだとか投げやりさだとか、そういうものをすべて混ぜ合わせたすえに冷めてしまった、冷えて固まったガラスのような色だった。
「でも──」
「どうして、って? だって、俺はこんなに自分が魔法使いであることで悩んできたんだぜ。この世の中にもうひとり、俺のせいで魔法使いなんて業を背負った存在が生まれたらと思うと、考えるだけで気が滅入ってかなわんね」
「……それではもし、生まれてきた子が人間だったら」
「それはさ、ほら。父親が魔法使いなんて、どのみち生まれてきた子が可哀相だろ」
 どちらに転んでも、きっと生まれてきた子は傷つくだろう。人間の母親と人間の父親のあいだに生まれた子供より、不要な苦労をするだろう。持たずに済んだ悩みだって、持つだろう。
 きっとたくさん傷つき、たくさん痛みを抱えるだろう。
 かつてネロが、そうであったように。
 ぎゅっと胸が締め付けられるような思いがした。
 ネロの言うとおりだ。たしかに、“重い”。
「そういうわけで、俺はナマエに手を出す気がない。別にあんたがどうこうって話じゃない。というか、女としての魅力がないとか思ってたら、まず付き合わねえかな。そういうことじゃなくて、万が一のときに俺が責任とれないって話だよ」
 そう言うと、ネロはやわらかく、寂し気に、目を細めて視線を伏せた。ネロの切なげなその姿が、ぐらりと滲んで輪郭を曖昧にする。
 ぎゅっと瞼をとじてみても、こみあげてくる気持ちを押し殺すことはできなかった。熱くなった瞳の奥から雫があふれて、視界を歪ませては頬を伝い落ちた。
 諦めてほしくなんかない。ネロに幸せに手を伸ばすことを躊躇ってほしくなんかない。別に子供がいてもいなくても、そんなことはどちらでもいいことだ。そんなことはどうでもよくて、でも、ネロが本当は欲しいはずのものや愛情に手を伸ばすのをやめてしまうことが、私にはどうしようもなく悲しかった。
 リケやミチルに接するネロを見ていれば、ネロが誰かの世話を焼くことが本当は嫌いじゃないなんてこと、誰にだってすぐにわかる。私が子供の姿になったときにも、ネロはいつもは見せないくらいのゆるんだ顔で私の手を握ってくれた。
 ずっと避け、遠ざけ、諦めてきたからといって、愛していないわけではない。大体、身体を重ねることがそのまま子供に繋がるわけでもない。
 それでも、ネロは手を伸ばせないのだ。自分の生きてきた生涯が、ネロの幸福の邪魔をする。万が一のことを考えて、私を抱くことにすら躊躇する。諦める。
 それは多分、ひどく悲しいことだった。
「あんたが泣くことじゃねえんだけどなぁ……」
 テーブル越しに手を伸ばし、ネロは私の目じりに溜まった涙を指先ですくった。自分でも手の甲で涙を拭う。私の顔を覗き込むネロの表情はやさしい。どうしてそんなにやさしい顔をするのだろう。私なんかよりずっと、ネロの方が泣きたいはずなのに。
「うっ、す、すびばせん……」
「あーあー、顔ぐっしゃぐしゃにしちまって。あんま泣くと明日目が腫れるぞ。賢者さんあたり、帰ってきたら心配するんじゃねえの?」
「賢者様は、聞かれたくなさそうなことは追及しない方なので」
「そういう信頼の仕方はやめてやれよ……」
 ネロの苦笑に頷きを返して、すっかりぬるくなってしまった白湯を飲み干した。すると少しだけ心が落ち着いて、泣いてしまったことが恥ずかしくなった。
 言葉が喉のあたりで渋滞している。きっと口にしたところで、それは支離滅裂で何の役にも立たない言葉ばかりだっただろう。話をするのがうまくない私から出てくる言葉など、大抵はそんなものだ。
 咳払いをして一度言葉をリセットした。それからようやく、私はふたたび口を開いた。
「泣いたりしてすみません、もう大丈夫です」
 まずは取り乱したことを謝って、ひとつずつ、ゆっくりと私は言葉を選んだ。
 ネロの言い分は分かる。いや、正しくは分かっていないのだろうが、言わんとするところは理解できた。ネロがどうして頑なに私とその先へ進まないのかも、完全に理解はできないが納得はできる。
 ただ、それはあくまでネロの言い分だ。私には私の、つたないながらも思いと考えがある。それをネロに聞いてもらわないことには、私が今夜ネロとこうして向かい合っている意味も甲斐もなかった。
 さながら告白の夜の再演だ。ネロには魔法使いとしての言い分がある。私には私の、ネロに思いを寄せるひとりの女としての言い分がある。
「ネロは、私のことを好きだと言ってくれたときにも、そうやって自分は魔法使いだから幸せにできないって話をしましたよね」
 ああ、とネロが首肯する。やはりあの晩と同じく、ネロは真摯に私の言葉に耳を傾けてくれている。だから私も、臆することなく言える。
「だけど、ネロ。私は今、すごく幸せですよ。あの晩にも言ったけど、私はネロがどう思おうが、ちゃんと勝手に幸せを感じています」
 ネロが一緒にいてくれる。私のために時間を割いてくれる。それで私は、もう十分に幸せだ。
 <大いなる厄災>と戦うとはいったって、きっとネロは自分が私よりも先立つとは思ってもいないだろう。多くの知り合いを見送って生きてきた彼は、多分私のこともネロより先に逝くと思っているのだろう。
 だからこそ、寸暇を惜しんで愛してくれる。これほどまでに幸せなことなど、私の人生にはひとつだってありはしなかった。今の私は、間違いなく幸せだ。
「子供がどうっていう話は正直、私にはうまく実感がわかないんですけど……、でも、ネロが何を悩んでいるかはわかりました。生まれてくる子供のことについても、それは私とは別の人間か、別の魔法使いの話なので、どう思うはずだっていうのは如何とも言えません」
 だけど。
 それでも。
「でも私は、父親がネロなんて、世界で一番幸せな子供だと思う」
 それが今の私の、正直な気持ちだった。
 たとえネロが何と言おうとも。私が魔法使いたちの気持ちなど、まるで分かっていないと言われようとも。
 恋人がネロである私が幸せであるように、父親がネロである子供というのはやはり、幸福な子供なのではないかと思うのだ。
 私の言葉に、ネロがぽかんとしている。的外れなことを言っているかもしれないとは思ったが、それでも今は先を続けることにした。
 先程のように言葉が尻すぼみになってしまわないように。心が萎えてしまわないように。自分で勇気を奮い立たせて、私は言葉を選び続ける。
「あのですね、これは私が今思ったことなんですけど、この先の世界って多分、父親が魔法使いだろうが、本人が魔法使いだろうが、それでも幸福に生きていける世界になるんじゃないかなって思うんです。そのために今、賢者様や魔法使いの皆さんが頑張ってくださってるんだと、私はそう思っていました」
「いや、それは建前だろ? 今までだって何百年とそういうことを言うやつらはいて、でも一度だってそれはうまくいってないんだから」
「今度はうまくいくかもしれないじゃないですか。それに、駄目なら私は子供を連れて南の国で生きていきます。ルチルとミチルが生まれ育った場所なんだから、きっと大丈夫。東の国とは違いますよね」
「……そういう問題か?」
「駄目でしょうか」
「駄目ではないけど」
 ネロが呆れたように溜息をついた。そして「あんたすぐ、何かあったら南の国に逃げようとするな……」と、やはり呆れて笑う。たしかにそうかもしれない。南の国は、聞けばフィガロ先生が開拓の先頭に立って拓かれた土地だという。ルチルやミチル、それにレノックスさんの人柄を見ていても、南の国ならば東の国ほど窮屈な生活を強いられることはないだろう。
 私はまた、いつのまにか手元に落としていた視線をネロへと戻す。そうしてできるだけはっきりと、ネロが疑いようのないくらいにきっぱりとした口調で、ネロへの言葉を続けて紡いだ。
「私、ネロのことが好きです。子供ができてもできなくても、その子が魔法使いでも人間でも、そのことだけは変わらないです。ネロのくれたもの、ネロの大事なもの、ネロの愛したもの、ネロが愛せないかもしれないもの、全部私が愛して大事にします。だから──」
 だから、ネロも怖がったり諦めたりせず、私のことを好きになってください、と。本当はそう続けるつもりだったのに、言葉は声を伴うことなく喉の奥に落ちていった。
 立ち上がったネロが私のそばに寄り、座ったままの私を思い切り抱きしめていた。言葉は、抱きしめられた拍子にうっかり飲み込んでしまったのだ。
「ええと、ネロ?」
 遠慮も手加減もなく抱きしめるネロに、私は何とかそれだけ絞り出す。ネロは黙って私を抱きしめていたが、やがて長く深い息を吐き出すと、
「俺、思ってたよりだいぶ重いたちみたいなんだけど、でも、あんたも大概だな」
 そう言って、小さく笑った。
「そ、そうですか?」
「そうだよ。……ったく、こんなはずじゃなかったんだけどなぁ」
 ぼやくような声は何かを諦めるような台詞ではあったが、声音はけして沈んではいなかった。むしろ明るく、どこか嬉しそうですらあった気がする。
 ネロは私から身体を離すと、ゆるやかな笑みを浮かべたまま、私と視線を合わせた。
「さっきの質問の答え、ちゃんと答えてなかったな」
「さっきって──」
「俺はナマエのことを、ひとりの女としてちゃんと愛しく想ってるよ。本音を言えば、全部俺のものにして、全部、ナマエの全部を大切にしていきたいってくらいに」
「ぜ、全部」
「あんたの言葉を借りるなら、『むらむらする』だっけか?」
 にやりと揶揄するように言われ、ぼっと顔が熱くなった。自分がどれほど恥ずかしいことを言ってしまったのか、ネロの声で繰り返されることで改めて思い知る。穴があったら入りたい。
「あああ、ネロ、お願いですからやめてください、忘れてください……」
「先に切り出したのはそっちだよ。それに、そんな話を切り出したってことは、準備万端だって思ってもいいってことだよな?」
「じゅっ!?」
「あはは、赤くなってら」

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