番外編 その4

 夜も更けてきたころ、ネロが壁の時計にちらりと目を遣った。
「そろそろ寝るか」
 歯磨きも済ませ、ふたりともすでに寝るだけの状態になっている。ネロが先にベッドに横になり、すぐに視線で私を呼んだ。どきどきと胸を高鳴らせながら、私はその誘いに応じる。ひとり用のベッドでくっついて眠る窮屈さは、ネロと付き合って初めて知った心地よさだ。
 灯りを消した部屋の中、布団にもぐりこんだ私の腰をネロがぎゅっと抱き寄せた。片腕は腕枕をしたままなのに、ネロは見た目で分かる以上にずっと力が強い。
 ネロの寝間着のざっくりとした生地が肌に触れた。腕の位置を直しながら、ネロが私の髪を手遊びのように指先で梳く。
「中央の早起き組が任務で出てるし、仕込みも済ませてあるし、明日の朝はゆっくりでいいな」
 確認するように呟いて、ネロは私の腰に回した方の腕で、一層私を引き寄せた。
 身体と身体がぴたりと密着している。衣服越しに感じるネロの温度は、時折昼間に触れるネロの指先よりもずっと熱い。
 布団の中でするりと足を絡められたかと思えば、顔と顔がぐっと近づいた。
「──ナマエ」
 ほとんどくちびるが重なってしまいそうな距離で、ネロが私の名前を囁くように呼ぶ。声は蕩けるように甘かった。頭の芯がじんとして、たった数文字の名前を呼ばれたそれだけで、ネロの甘さに溺れてしまいそうになる。
 はい、と返事をするより先に、くちびるをついばむように食まれた。角度を変えながら何度も何度も、たしかめるようにネロは口づけを繰り返す。腰に回された手が、寝間着の上からそっと腰の線を撫でた。得も言われぬ感覚をおぼえ、口づけから意識がそれる。その隙を見計らっていたかのように、ネロがくちびるを割って舌を入れた。
「っ、んぅ」
 こじ開けられた口の端から、吐息ともつかない声が漏れる。恥ずかしくなって声をおさえようとしても、ネロの熱い舌がそれを許さない。口から溢れそうなくらいのたっぷりの唾液をからませて、ネロは私と舌を絡ませる。
 キスだけで、頭がぼんやりする。ネロのことしか考えられなくなって、気付けば私はネロの服をぎゅっと握りしめていた。
 ネロに触れているところ、ネロが触れているところ、すべてが燃えるように熱い。その熱は全身に伝播して、やがて身体の内側にある気持ちの炉をじんじんと熱くさせる。
 胸が、お腹の底が、ぜんぶ熱い。
「ネロ、」
 口づけの隙間に、ほとんど無意識にネロの名前を呼んだ。暗闇の中、顔を離したネロがじっと私に視線を注ぐ。ふだんは見る者に冷めた印象を与える青みがかった琥珀の瞳が、今夜は切実な熱を孕んで私を見つめていた。
 ふと、太もものあたりに違和感を覚える。何か固いものが触れてるその感覚に、私はほんの束の間の思案ののち、はっとした。私を抱き寄せたネロの、そこは足の付け根だった。
「ネロ、」
 味わうような口づけに蕩けていた頭が、途端にはっと冴えわたる。先程とはまるで別の騒ぎ方をする胸に、期待と不安と、ほんのわずかな恐れにも似たものが湧き上がった。ネロの服を握る手に力がこもる。
「あの……、ネロ?」
 沈黙に耐え兼ねて、おそるおそるとネロの名前を呼んだ。ネロが気まずげに目を瞑る。それは瞬きほどの瞬時のものではなく、もっとじっくりと、まるで何かを振り払おうとするような、そんな仕草だった。
 そして次にネロが瞼を開いたとき、ネロの中でくすぶっていた熱は、もうそこにはなかった。
 胸がすっと、冷たくなったようか気がした。
「──寝るか」
 いつもと変わらず淡々とした声音でネロが言う。返答に困っている私の胸中を知ってか知らずか、ネロはふたたび私に口づけを落とした。今度はくちびるにではなく、私の額に。
「──おやすみ」
 返事を待たずに瞼を閉じたネロに、私は暫し言葉を失い呆然としていた。
 先程太ももに感じた感覚は、間違いなくネロのものだ。あれは多分、もっとも分かりやすい形での、ネロの生理的な欲の発露だった。
 それなのに、ネロは何もなかったような顔をして今まさに今夜を締めくくろうとしている。今夜をこれまでの三か月に繰り返してきた夜と同じ、ただ寄り添って眠るだけの一夜にしてしまおうとしている。
 ここのところ久しく感じていなかった寂しさが、途端に胸にこみあげた。私はこの感覚をいやというほど知っている。ネロが私に対して線を引くときに見せる、あの諦めと安堵の混じり合った瞳。それが今、ふいに私の胸のうちでよみがえった。
 付き合ってもまだ、私はネロに線を引かれるのだろうか。
 唐突に突き放された遣る瀬無さと、行き場のない熱。それらが私の胸の中で、困り果てた子供のように無為に暴れまわっていた。鼻の奥がつんと痛い。真っ暗な部屋の中、私を抱きしめてくれているはずのネロの体温が、見えないほど遠い場所から無機的に与えられているもののような気すらした。
 あまりにも日々が幸福すぎるから、もしかしたら私は贅沢者になっているのかもしれない。どくどくと不穏なざわめきを刻む自分の胸の音を意識しながら、ぼうっとそんなことを考える。
 ネロが線引きを望むなら、ネロの引いた線を守ることも恋人としての愛し方のひとつなのかもしれない。それがネロと付き合っていくうえで、ネロとうまく関係を保っていくためのやり方であることも分かっている。実際、付き合うより前はそうしてネロの気持ちを優先させてきたし、それは多分、間違ってもいなかった。
 私はいつでもネロを困らせたくはない。ネロに少しでも幸福でいてほしい。だから、ネロの心を乱さずに関係を続けていくためには、今はこのままネロの腕に抱かれ、この夜を昨日までと同じただ幸福なだけの一夜にしてしまう方がいいのかもしれないとも思う。
 それでも──
 今夜をこのまま終えてはいけないと、胸のざわめきは警鐘のように私に訴え続けているのだ。
 おそらくこの感覚は、ネロと想いを通じ合わせた晩を経た私だからこそ得られた、直感とでもいうべきものだろう。もしもあの晩、ネロの引いた線を一度も踏み越えないままだったなら、今でも私とネロはただの知り合いのままだったに違いない。
 ネロの引いた線を守ることだけが、ネロの幸福を守ることではない。それがネロの気持ちを顧みないこととはまるきり別のことなのだと、私はもう知っていた。
 ひとつ、大きく息を吐き出してから、私はネロの腕の中から這い出した。瞼を閉じていたネロが、目を見開き視線で私を追いかける。
 私はベッドの上に座りなおすと、横になっているネロに向け、
「あの、ネロ。少しだけ話をしてもいいでしょうか」
 静かにそう、切り出した。
「話って、それは明日じゃだめな話?」
「きっと、多分」
 我ながら曖昧な物言いだった。しかしネロは逡巡ののち「分かった」と起き上がると、ふたたび部屋に灯りを灯す。この部屋の明かりはすべて、ネロが魔法で点消灯していた。
 ふたたび室内がやわらかな光で照らされ視界がよくなったところで、私は座ったままネロに向き合った。ネロもベッドの上であぐらをかいている。顔つきは明らかに困惑していたが、その中にはほんのかすかな緊張も滲んでいるように見えた。
 ネロにも多分、察するところがあるのだろう。なんだか情けなくて涙が出てきそうだが、言い出したのが自分である手前、泣いてもいられない。ともかく、恥も外聞も捨てて話をしなければどうにもならないことだった。
 きっと表情を引き締めて、私は改めてネロを見据えた。
 そうして途中で心が挫けてしまわないように心中で己を鼓舞すると、折れるより先に言い切るべし、とばかりに口を開いた。
「単刀直入にお聞きしますが、……ネロは私に、女性としての魅力を感じませんか?」
「はぁ!?」
「その、むらむらするかしないか、ということなんですけど……」
「いや、待った待った。なんでそんな突拍子もない話になった?」
 気弱なりにも何とか言い切った私に、ネロが心底困惑したように慌てている。しかし待てと言われて待っていては、私の心が情けなさゆえに萎えてしまう。
「だってネロは私のこと、全然抱こうとしないから」
 そうなんじゃないかと、思ったんですけど──と。結局途中で心が萎えてしまったので、最終的にはすっかりしおれ、尻すぼみになってしまった。こういう話をするのは気恥ずかしいし、相手がネロならば尚更だ。百戦錬磨のネロに対して、こういう話をするのは気が引けた。
 そのネロはといえば、私の気弱な訴えを聞くなり一層困った顔をしてしまった。ついには「そういう方にいくのか……」と呟いたきり、黙りこんでしまう。
 やはり言うべきではなかったのだろうか。がっくりと肩を落として、私はネロが何か言ってくれるのを待った。もはや私の方から言えることなど何もない。何か言ったところで、おそらく墓穴を掘るだけだ。
 おそろしく重い沈黙が、しばし室内を支配した。
 顔を俯けつつも上目遣いでネロの表情を窺えば、ネロは何故だか私以上に困り果てているように見えた。
 どれほどの間、そうして視線を合わせないまま向き合っていただろうか。
 やがてネロは気まずげに頭をかくと、至極まじめな声で私を呼んだ。おそるおそると顔を上げる。ネロはまっすぐ、一切の偽りや欺瞞のない瞳で私を見つめていた。
 どくんと心臓が跳ねる。
 それはこれまで見てきたどんなネロの表情よりも、真剣で、思いつめた顔だった。
「ナマエは、したいの? なんつーか、まあ、そういうことを」
 言いにくそうに、しかし真摯に問われ、私も曖昧に頷いた。
「分かんないですけど、ネロがしたいなら」
「俺は……」
 開きかけた口を、ネロがふたたび閉ざした。ちくりと胸が痛む。その痛みを掻き消そうとするように、言葉が勝手に口をつく。
「別に、したくないならいいんです。ネロが私にむらむらしなくても、それでも別に構いません」
「むらむらって……」
「でも、ただ私とそういうことをしたくないってだけじゃなくて、何か手を出さない理由みたいなものがあるのなら、私はそれを教えてほしいと思います」
「知ってどうしたいんだ?」
「どうもしません。でも、ネロが何も悩んでいないと分かれば私は安心はします」
 答えた瞬間、またかすかに胸が軋み、痛んだ。
 本当は、そんなに善人ぶった思いや理屈ばかりじゃない。何が駄目なんだろうとか、私の何がいけないんだろうとか、私の何がネロに愛されるに足らないのだろうとか、そんな思いが心のほとんどを占めている。
 それでも、ネロに話した言葉のすべてが嘘というわけでもなかった。少なくともネロの口から理由を話してもらえたなら、ネロが現状維持で満足するのなら、最悪それでもかまわない。多少のもどかしさは感じても、それはネロのためならば押し殺せる程度の感情だ。
 それでもなお、ネロは迷っているようだった。悩み迷う胸中を示すように、視線をうろうろと彷徨わせる。
 私は待った。やがてネロは、仕切りなおすように溜息をついて首をぐるりと巡らせると、
「結構重い話なんだけど、いい?」
 窺うように、私に尋ねた。
「重いというのは、どういう意味で」
「いろいろと」
 気乗りしなさげな調子の声音に、胸がずんと重くなったような気がした。
 ネロのルーツ、ネロの背景。今この瞬間、もしかしたら私はそれらに触れようとしているのかもしれない。そのことに気付くや否や、あれほどまでに鼓舞したはずの心が、途端に逃げ腰になるのが自分で分かった。
 何百年も魔法使いとして生きてきたネロ。魔法使いであることを厭い、倦み、そして人間に混ざって、人間のふりをして生きてきたネロ。人間の女ひとりを好きになるのにも、随分と遠回りをしないと気持ちを認められないほどに、数多の傷を抱えて生きてきた、孤独なひと。
 そのネロをして、「重い」という話だ。生半な話ではないことは想像に難くない。迂闊に踏み込んでは、もしかしたら今のネロとの関係が破綻してしまうかもしれないほどに。
 ネロは私の答えを待っている。もしもここで私が「やっぱりやめておきます」と言ったところで、きっとネロは怒りも嘆きもしないだろう。落胆することもなく、そっか、と頷き眠りにつく。明日からもきっと、そうして日々は続いていく。
 そうして得たかりそめの幸福な日々に、しかし一体、どれほどの価値があるというのだろう。東の国で何も知らずに生きていた頃の私ならばいざ知らず、今ここでネロと生きていく覚悟を決めた私は、そんなものを求めてはいない。
 たっぷり時間をとってから、やっと腹を決めた。
 顔を上げ、ネロを見る。そして言った。
「聞きます。ネロさえよければ、聞かせてください」
 きっぱりと言い切った私に、ネロは眉尻を下げ、困ったように笑った。できるだけ逃げ腰になっているのがバレないようにと、自分では必死になって声も表情も取り繕ったつもりだ。それでも多分、ネロには見透かされているのだろう。そしてネロは、すべて見透かした上で、私の弱気を責めたりはしなかった。
「そうだよなぁ。あんたは聞くって言うよな。試すような物言いして悪かった、今のは俺の予防線みたいなもんだ」
 そう言って、ネロは私の頭をくしゃりと撫でた。慈しむように、愛おしむように、大切なものに触れるときの優しい手つきで、ネロは私に触れる。
「もう時間も遅いけど、何か飲むか」
 独り言のように言いながらベッドから下りたネロの背中は、それでもまだ、少し迷っているように見えた。

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