番外編 その3

 仕事を終えて入浴を済ませ、あとは寝るだけの状態にしてからネロの部屋へと向かった。美味しい夜食があると聞き心がうきうきしている半面、どうにもそわそわとして仕方がない気持ちもある。
 今日こそはネロと何かあるだろうか。そう思うとどきどきして落ち着かない。
 ノックしてすぐ、ドアが開いた。ネロの部屋を訪ねるとき、ドアの前で待たされることはほとんどない。開いたドアの内側から、私と同じく気の抜けた部屋着のネロがゆったりとした笑顔で私を部屋に招き入れた。
「来たな」
「来ました」
「いらっしゃい」
 今はもう、ネロの部屋に入っても身の置き場が分からず戸惑うということもない。ネロが私の部屋で自分の部屋のように寛ぐのと同じく、私も自分の部屋のような気持ちでキッチンを覗いた。ネロが後からやってきて、私のすぐそばに立つ。腕と腕が触れて、そのままぴたりとくっついた。
「ネロ、今日の夜食は何ですか?」
「今夜は軽めの麦がゆ」
「麦がゆ?」
 ネロの夜食にしては、随分とさっぱりしている。嫌いではないが、何となく意外だった。
 私の視線を不満だと思ったのか、ネロが苦笑する。
「夕方の話が気になってさ。ほら、俺と付き合いだしてから体重がどうのってやつ。あんたは太ってねえと思うけど、気になってんなら夜食は抑え目の方がいいかと思って。あ、でも食べやすいように味は調えてあるからその辺は期待してくれて大丈夫だよ」
 流れるように説明され、私は思わずよろめいた。
 分かっていたことではあったのだが、ネロの気遣い、気の回し方はちょっと常人離れしている。そも、私を部屋に招くたびに美味しい夜食を用意してくれているところからして、私には身に余るような贅沢だ。
「本当にネロって……」
「なに?」
「一事が万事、至れり尽くせりですね……ネロと付き合うって、今更ながらとんでもない贅沢な気がしてきました」
「喜んでもらえて何より。ま、料理に関してはほとんど俺の趣味だからさ」
 そうは言っても、魔法舎の魔法使いたちの食事の用意を担っているのもネロなのだ。もとが料理人だからといったって、相当の熱意と気配りの心がなければこんなことはできない。
「私、ネロにここまでしてもらって、お返しできるものがないんですけれども」
「美味い美味いって食べてくれればそれでいいよ。それより、ほら、皿によそって持っていくから先に飲み物持ってってくれ」
「はいっ」
「いい返事」
 私にポットを手渡したネロは、そのまま腰をかがめると額にキスを落とした。

 ネロの作ってくれた麦がゆは、私が実家で食べていたものとはまったく別の料理だった。使われている麦は、南の国だけで採ることができる特別な品種の麦らしい。もちもちとした歯ごたえが食べていて楽しい。それにさらさらと流し込めてしまうわけでもないから、よく噛む分だけすぐにお腹がいっぱいになる。
「東の国の麦とはやっぱりちょっと違いますね」
 雨の街は東の国の首都なので、あまり田園風景を目にすることはない。ただ、街から少し離れると、季節によっては東の国でも金色の麦畑を目にすることができた。
 もしかしたらネロも、私と同じような光景を思い浮かべていたのかもしれない。話しながら、どこか懐かしげな表情を浮かべていた。ネロの部屋には麦の穂が大切そうに飾られている。
「この麦は前にルチルに分けてもらって、それで知ったんだ。そのときに食べてうまかったから、南の魔法使いたちが帰るときにはちょくちょく買ってきてもらうように頼んでる」
「そうだったんですか」
 東の魔法使いであるネロが、ほかの国の魔法使いたちに何か頼み事をするところを見かけることは滅多にない。相手が気のいい南の魔法使いたちだからということもあるのだろうが、それだけネロの食材へのこだわりが強いのだろう。
「自然や土地の豊かさなら東が一番と思ってたけど、この味は東では出ないよな。南はどっちかいうと牧畜のイメージだったんだけど」
「気候の違いですか?」
「多分。東の国はたいていどこでも水が豊かだからな。南はそうもいかないだろ? いや、でも麦は身体を冷やす食材か。そう考えれば南で作ってるのも不思議ではないな。南は山地で標高が高いとかでない限りは温暖な土地がほとんどだろ」
「たしかに、人が暮らし始めてからの歴史は浅いですけど、南は人も土地も穏やかであたたかなイメージです」
「あと、麦は本来湿気が苦手だから。そういう意味でも南は風土的には麦の栽培に向いてるのかもな」
「ははあ、なるほど……」
 麦がゆを食べながら麦の栽培に思いを馳せるネロは活き活きとしている。ネロは本当に料理というものが好きなのだ。そのことを思い知るたび、私はむしょうに嬉しくなる。ネロのつくった料理を口にできる喜びを、しみじみと噛み締める。
 と、ネロがふっと表情を曇らせた。
「悪い。俺ばっかり喋ってんな。つまんなかった?」
 自分が麦の話に夢中になっていて、私のことを置いてきぼりにしていたと思ったらしい。私は麦がゆを頬張ったまま、ゆるりと首を横に振った。口の中のかゆを飲み込んでから、ようやく返事をする。
「いえ、楽しいです。美味しいもののルーツを知るのは、なんだか特別な楽しみという感じがしますね」
 気遣いではなく本心から答えると、ネロは表情をゆるめてほっとした顔をした。
「だよな。俺もそう思う。それにそこに興味を持つか持たないかで、多分食べものに感じる味わいも変わるんだ」
「ルーツを知っていれば、どんなふうに調理してどんなふうに味付けするのが美味しいかとかのヒントにもなりそうですね」
「そうなんだよ。そういうところは、ちょっと人間や魔法使いとも似てる」
 ルーツ。自分で発したその言葉に、ぼんやりとネロの背負っているもの──ネロの背景を想像した。
 ブラッドリーから聞いた女性関係のことだけでなく、私は魔法舎に来る前のネロのことをほとんど知らない。雨の街で店をやっていた頃のことも知っているには知っているが、所詮は時々食事をしにいくくらいの距離感だ。どうして雨の街を選んだとか、あの場所でほかにどんなお客さんと過ごし、どんな話をしたのかだとか、そういうことは何ひとつ聞いていなかった。
 過去のことはいずれ、ネロが話したくなるときまで気長に待つつもりでいる。それでも今ネロが言った通り、ルーツを知るということは相手との付き合い方のヒントになる。ネロがどんな生き方をしてきたのかを知れば、失言をしてしまったり、不用意にネロを傷つけてしまう可能性を少しでも減らすことができる。
 ネロもいつか教えてくれる日が来るのだろうか。
 彼が生まれた場所や、愛した季節、日々のことを。
 そんなことを麦がゆを頬張りながら考えていると、「そういえば」とネロが思い出したように切り出した。
「今朝、ブラッドリーと話してなかったか?」
「えっ!?」
 完全に不意を突かれ、私はあからさまに狼狽した。驚いた拍子に口の中に入っていた麦がゆがおかしなところに入り込み、盛大に咽る。ネロが慌てて差し出してくれた水を一気に飲み干し、ようやく何とか落ち着いた。
 まだ息を乱している私に「大丈夫かよ……」と戸惑いの視線を向けるネロに、こくこくと頷いて見せる。本当は大丈夫ではなかったが、大丈夫だというしかなかった。しかしまさか、ブラッドリーと話していたところをネロに目撃されていたとは。
「こ、声を掛けてくれればよかったのに……」
 何とか平静を装いそう返せば、ネロは言いにくそうに視線をそらし、
「いや、たまたま見かけたんだけど。なんか……はしゃいでたから、声掛けない方がいいかと思って」
 溜息まじりにそう答える。
「私、はしゃいでいるように見えましたか」
「きゃあきゃあ言ってなかった?」
「言ってたかもしれません……」
 ただ、それは楽し気な騒ぎ方というよりは、ネロが百戦錬磨だという予想外の情報に、うっかり衝撃を受けた悲鳴を上げていただけの話だ。いずれ、その場にいなかったネロには判別がつくはずもない。
 ブラッドリーと私の間にはしゃぐような話題があるとも思えないが、本題はそこでもない。ネロが気にしているのは、もっと別のことのはずだ。
「……ブラッドリーから何か聞いた?」
 案の定、ネロは私に尋ねた。探るような、何かに怯えるようなネロの瞳。その瞳をまっすぐに見返すことができず、今度は私が視線をそらした。ネロに対して後ろめたい気持ちを抱くのは、付き合ってはじめてのことだ。
「えーっと……」
 果たして本当のことを言うべきだろうか。私は内心で頭を抱えた。
 本当のことを言うというのはつまり、ブラッドリーからネロの昔の女性関係について話を聞いていた、と正直に打ち明けるということだ。しかしそのことを明かせばほぼ間違いなく、何故そんなことを気にしているのかと追及されることになるだろう。そうなれば、私がネロに不埒な思いを抱いていることまですっかり全部明るみに出てしまう。
 ただでさえ「処女は面倒だな」と思っているかもしれないネロに、この上さらに面倒くさい女という印象を植え付けることだけは絶対に避けねばならない。しかし、いつまでもネロに隠し事をするのもつらい。進むも地獄、退くも地獄。二進も三進もいかないとはこのことか。
「ええと、ですね……」
 どうにかしてお茶を濁せないだろうか。そんな姑息なことまで思案し始めた、そのとき。
「いや、やっぱりいいや。今のは聞かなかったことにしてくれ」
 何とも苦々し気な表情で、ネロがそう言った。思わず胸中で胸を撫で下ろす。私にとっては追求されないだけでもありがたい。
 しかし発する言葉とは裏腹に、ネロの表情は浮かないままだ。
「いい、というのは……?」
 おずおずと尋ねると、ネロはスプーンを置き、頬杖をつく。
「いや、なんつーか、束縛するみたいなこと言うのはどうかと思って。それこそ俺何百年生きてんだよ、って話だし……」
 苦虫を噛み潰したような顔で言うネロは、重くて長い溜息をついた。
 三か月という短い期間ではあるものの、ネロと付き合い始めてからの日々のなかで、私はネロに束縛されていると感じたことは一度もない。それでも私が思っているよりずっと、ネロは私と付き合うということにおいて、色々な意味で気を回してくれている。
 特に年の差については、年嵩のネロの方が私に比べ思うことも多いのだろう。年上として余裕ある対応をすべきだとか、とにかくそんなようなことをネロが思っているのだということが、ネロの何気ない言動の端々から感じられる。
「あんただってここで働いてるんだから、ここの魔法使いたちと仲が悪いよりは親しくしていた方がいいに決まってるよな」
「それは……まあ……」
 たしかにネロの言うとおりだった。ここで住み込みで働いていく以上、ほかの魔法使いたちともできる限り良好な関係を築いていくことは必須だ。ネロと付き合い始めたからと言って、それを疎かにするわけにもいかない。
 しかしそれがネロの本意でないことは、表情から容易に察することができた。ネロは案外考えていることがすぐに顔に出る。今もやはり、嫌そうな顔をしている。
 これは相手がブラッドリーだから嫌なのか、そういうわけではなく、相手が誰であっても面白くないのか。その判別は難しいが、今はひとまずブラッドリーとの話に限っておくことにした。その方が、話が簡潔だ。
「ネロは私がブラッドリーと一緒にいたり話したりしてると、ちょっと不機嫌になりますよね」
 私がそう言うと、ネロは一瞬大きく目を見開いた。しかしすぐに困ったような呆れたような顔をして、溜息まじりに「そう見える?」と私に問う。「そういうときもあります」とだけ、私は返した。
「ブラッドリーとはまあ、昔のちょっとした知り合いなんだけど」
 ブラッドリーとまったく同じ台詞なのは、口裏を合わせているからなのか、それとも昔馴染みで思考回路が似ているのか。その後に続く言葉を半ば面白がって待っていたが、しかしネロはそれ以上の話をしようとはしなかった。
「まあいいや。なんで俺らがここにいねえブラッドリーの話しなきゃなんないんだか」
 空になった皿に視線を落とし、溜息をつく。私もまた、ネロと同じようにそっと息を吐き出した。私の場合は話題がうまい具合にそれてくれたことに対しての、安堵の吐息だった。

prev - index - next
- ナノ -