番外編 その2

 ブラッドリーはひと頻り大笑いして満足すると、一度大きく息を吐いた。そして意外にも、真面目な顔で私の顔を覗き込む。どうやら私の質問に答えてくれるつもりはあるらしい。
「ネロの好みか。しかし一丁前にお前が昔の女に妬くのは分かるが、その『本来の』ってのは何だよ? 今はてめえとくっついてんだから、てめえみてえなガキくさいのがいいってことなんだろ。趣味悪ィとは思うけど」
「ブラッドリーの趣味のことは聞いてないですよ……」
 売り言葉に買い言葉で、私はむっつりと言い返した。それにガキくさいとブラッドリーは言うが、私だって二十歳を過ぎた立派な大人だ。何百年と生きている魔法使いから比べれば子供でも、人間の社会では立派な大人として扱われている。自分だってそのつもりでいる。
 しかし私の反論などどうでもよさそうに、ブラッドリーは鼻を鳴らした。
「大体、なんで今更んなことが聞きてえんだよ」
 くっつく前ならともかく、と。ブラッドリーはぞんざいな口調のわりに、きわめて正論で私を問いただす。正直に答えても莫迦にされることが分かっているから、
「だって、気になるんだから仕方ないじゃないですか……」
 私は無難で子供っぽい返事をした。

 そもそも、私が何故こんなことで悩んでいるのかと言えば、答えは至極単純だ。ネロの好みに己が合致していないのではないか、という不安がある──それに尽きる。
 ネロと私が付き合い始めて三か月。しかしネロは未だ、私に一切手を出していなかった。
 もちろん昨晩のようにキスはする。むしろキスまでは相当早かったのではないだろうか。
 あ、と思ったときにはくちびるが重なっていた。その直後、ネロには「駄目だった?」と聞かれた。当然、駄目ではない。全然駄目ではなかったので、「駄目じゃないです」と私は答えた。するとネロは眉尻を下げて笑って「よかった」と言ってから、もう一度やわらかくくちびるを重ねた。
 そんなわけで、私は「ネロって案外手が早いんだなぁ」と、照れたり恥じらったりしながら呑気に思っていたのだ。それが今からおよそ三か月前の出来事。
 この三か月ほど、ネロと私は毎晩のように一緒に過ごし、一緒の布団で眠っている。それなのに、ネロは一向にそこから先に進もうとしない。ただ一緒の布団で私を抱きしめて眠るだけ、それだけだ。
 だからといって、私の方からネロを誘うのも憚られる。何せ私はまだ、男の人と一線を越えたことがない。お付き合いくらいはしたことがあっても、せいぜいがキス止まりで、その先のことはまだ何も知らないも同然だった。
 おかげでこの三か月、私は毎晩のようにネロの腕の中で悶々とする羽目になっている。果てには「処女なんて面倒くせえな」とネロが思っており、そのせいで手を出されないのでは、と、そんなことまで邪推して不安になっている始末だ。
 閑話休題──
 私は目の前のブラッドリーに意識を戻す。ブラッドリーはネロの過去を知っている。のみならず、二人の間にある気安さはただの知り合いというよりも悪友に近いものを感じる。であれば、彼がネロの女性関係について、ヒント程度にでも知っているかもしれない。
 思った通り、ブラッドリーは何か知っている様子だった。暫し記憶を遡るように視線を彷徨わせていたが、ふいにぱん、と手を打つと、
「そういや昔は、もっと気ィ強そうな女とよろしくしてたこともあったか」
 思い出したようにそう言った。
「気の強そうな女性!?」
「何せあいつ、それなりに顔がいいからな。そのうえ面倒見もよくてまめまめしいとくりゃ、女の方が放っておかねえよ。悪い男好きの多い魔女からはともかく、人間の女なら選り取り見取りだっただろうぜ」
「それはたしかに、物凄く容易に、めちゃくちゃ想像がつきますね……」
 ブラッドリーの言葉を聞きながら、私は脳裏に在りし日のネロのイメージ映像を思い浮かべた。
 ブラッドリーに負けず劣らずのやんちゃそうな衣装に身を包んだネロが、グラマラスで魅惑的な大人の女性に言い寄られ、そのままワンナイトラブへと誘われていく──そんな映像がありありと思い浮かぶ。
 ネロに限ってただれた女性関係ということはないだろうが、逆に言えば何せネロだ。後腐れのない相手となら、ワンナイトだろうが何だろうがあってもおかしくない。というかモテるだろうに何もない方が不思議だ。
「あいつの方から女の尻追っかけるってことはなかったが、まあ言い寄ってくる女を適当に食ってたことはあるんじゃねえか。俺ほどではねえにしても、ほぼ百戦錬磨だな」
「百戦錬磨……!」
 さりげなく自分の歴戦ぶりをアピールするブラッドリーだが、生憎と今はそこに反応している余裕もない。百戦錬磨というその恐ろしく屈強そうな響きに、私は雷に打たれたがごとく衝撃を受けた。
 百戦錬磨って。あの如何にも人間嫌いっぽくて、こっちが一歩近寄るとすぐに三歩引いてこちらを観察するようなネロが。女性関係で百戦錬磨って。
 果たしてそんなことがあるだろうか。ブラッドリーが話をちょっと盛っている可能性はどのくらいあるのだろう。果てしない不安に襲われはするものの、しかし今の私にはブラッドリーからの情報の信ぴょう性を確かめるすべはない。
「そ、そんな……そんなに……?」
 半信半疑でわなわな震える私に、何故だかブラッドリーはわがことのように自信まんまんに頷いた。
「大体において魔法使いはあっちがうまいやつが多い。なんてったって時間なら腐るほどあるからな。オズみてえなのは別にしても、双子もフィガロも一時は相当遊んでたって聞くぜ。まあそういうわけで、古い魔法使いどもならどいつも大抵一通りの遊びはやってる」
 ミスラやオーエンのことは知らねえが、と。
 そう付け足しつつも、ブラッドリーはもう一度にやりと笑った。
「ネロの具合ならお前も身をもってよく知ってんだろ?」
「し、知りませんよぉ!」
 たまらず私が悲鳴を上げると、たちまちブラッドリーは疑わし気な顔つきになる。
「知らねえってことはねえだろ。現にお前だってネロと寝て──」
 と、そこまで言いかけて。
 ブラッドリーはその瞬間、何かを閃いたようにはっとした顔をした。まずい、そう思った時には時すでに遅し。
「ヤってねえのか!?」
「大声でそんなこと言わないでくださいっ」
 上品さの欠片もない大声に、私はふたたび悲鳴をあげながら蹲った。何故こうも情緒の欠片もない言い方をするのだろう。まだ爽やかな朝。そしてここは目下魔法使いのイメージ改善事業の中枢ともいえる魔法舎だ。その魔法舎で、何が悲しくて朝からこんな辱めを受けているのか。自分で蒔いた種だが、あんまりだ。
 しかしブラッドリーは私の羞恥よりも、ネロがまだ私と寝ていないことに驚いているらしい。
「まじか……、いやくっつくまでも相当往生際悪かったけどよ……しかしそれにしたって、あいつまじで腑抜けたのか……?」
 いっそショックでも受けているように呆然と呟くブラッドリーに、私は蹲ったままで弱弱しく反論した。
「ネロのこと悪く言うのはやめてください」
「てめえがガキくさすぎてその気にならねえのか」
「私のこと悪く言うのもやめてください」
 そんなオチもついたところで。
「はあ、いろいろ聞かせていただきありがとうございました……」
 ふらふらと立ち上がると、私は箒を片手にその場を後にした。
 ブラッドリーからの情報は私をひどく狼狽させた。もはや立っているのもやっとのような状態だ。
 ブラッドリーもブラッドリーで何やらショックを受けたらしく、私がブラッドリーを放置してその場を立ち去ろうとしても怒声のひとつも飛んでこなかった。

 ★

 その日一日、私は何をするにも気もそぞろで集中力を欠いていた。何をやっていても頭の中で、セクシーな女性がネロとくねくねしている映像が流れて邪魔をする。ネロの気だるげな瞳に女性がうつるたび、その女性の麗しさが自分とは似ても似つかず絶望的な気分になる。
 やはりネロの好きなタイプは、世慣れて酸いも甘いも知っている大人の女性なのだろうか。ここのところはすっかり面倒見がいい面ばかりが目立っているが、本来ネロは厄介ごとや面倒を嫌うたちでもある。私のようなおぼこ娘の相手など、面倒くささの最たるものではないだろうか。
「世慣れている、ふりをしなければ……」
 譫言のように呟き、決意を新たにする。掃除を終えた浴場でふらふらとガッツポーズを作ると、今度は厨房へと向かった。そろそろネロが夕食の仕込みを始める頃だった。

 エプロンを代えてから厨房に入ると、すでにネロはキッチンに向かって仕込みを始めていた。私にできるのは野菜の皮むきや調理器具の準備程度だが、何もやらないよりはずっとましだ。ネロの調理をそばで見ていれば調理の勉強にもなる。
 隣り合って作業を始めてしばらく経った頃、ふいにネロが鍋に視線を向けたまま、私の耳元に顔を寄せた。
「今晩、部屋来る?」
 囁くように耳打ちされた言葉に、顔がかっと熱くなる。
 カナリアさんは中央の王城のお手伝いに出ているため、厨房にはネロと私しかいない。それでも声をひそめているのは、昼間は恋人らしい雰囲気を出さないという私とネロの間の取り決めによるものだ。集団生活をしている以上、私事を持ち込んで気まずい空気になるのは絶対に避けたい。私もネロも、大っぴらな性格ではない。
 それでも、至近距離で耳打ちされれば、一瞬はネロの腕の中にいるような錯覚をおぼえる。それと同時に、朝ブラッドリーから聞いた百戦錬磨という言葉が脳裏をよぎった。
 恋人になってから知ったネロの甘い一面も、今では百戦錬磨の裏付けのように思えてしまってならない。ここで初心でどんくさい反応を返せば、ネロを失望させかねない。しかし咄嗟に気の利いた返事ができるほど、私は機転の利く人間でもない。
「ええっと……あの、はい」
 ようやく返した返事は、なんだか煮え切らないぱっとしないものだった。ネロが鍋に向けていた視線を私に寄越し、訝し気に首を傾げた。
「何か用事があるなら別にいいよ。賢者さんか?」
「あっ、いえ、そういうわけではないんですけど。その、毎晩お邪魔していて迷惑ではないかなって。ネロ、前に眠りが浅い方だって言ってましたし」
「いや、平気」
「そうですか」
 どうにか拵えた言い訳も、あっさりと否定されてしまった。
 しかし、私が賢者様との用事以外でネロの来訪を断ることはこれまで一度もなかった。魔法舎の中だけで人間関係が完結している私には、仕事の後に私用もない。
 あからさまに不審な態度をとる私を、ネロは相当に怪しんでいるようだった。
「なあ、大丈夫か? あんたこそ、疲れてるんじゃないか?」
 そう言って、ネロはエプロンで拭った手を私の額に当てた。ひやりと冷たいネロの手は、かえって自分が持つ熱を意識させる。色気のない触れ方をするネロの指先に、私ひとりだけがどんどんと熱をためこんでいく。
「熱、はないみたいだな。けど今日はやめておこうか」
 ネロの親切心に、私ははっとした。ただでさえネロは私に手を出さないのに、そういうことに持ち込むための機会をいたずらに減らすのはまったくの愚策だ。
「いえ、私はまったく疲れてないです!」
「そ、そうか……?」
 気負い過ぎたのか、やけにきっぱりとした声が出てしまった。ネロも若干面食らっている。私は慌てて「最近はお仕事も少ないのでっ」と言い添えた。一応、嘘は言っていない。
 ネロはまだ不審そうにしていたものの、ひとまずは私の説明に納得してくれたようだった。
「まあいいや。あんたがそう言うなら信じるよ。今日は俺の部屋にしようか。うまい夜食作って待ってるよ」
 熱を測られた流れで、そのまま頭を撫でられた。ただ触れ合うということには、ネロからはまったく躊躇が感じられない。私ばかりがひとりでどきどきしている。
 悶々とした気分になりながら、私は黙り込んでいる私に首を傾げるネロを見上げた。
「……私、ネロとお付き合いを始めて着実に太っている気がするんですけど」
 誤魔化すようにつぶやいた言葉に、ネロは楽しそうに笑って見せた。
「そればっかりは仕方ないな。宿命だと思って諦めてくれ」

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