番外編 その1

 その日の仕事も無事に終え、自室のソファでのんびりまったりと秋の夜長を過ごしていた、ある晩のこと。
「ネロ、そっちの本を取りたいです」
 読んでいた本を閉じ、ネロに声を掛ける。ネロは顔をこちらに向けた後、視線を周囲に巡らせると、
「これ?」
「それです。その一番上の」
「ああ、はい」
 気が抜け間延びした声を出しながら、ソファーの端に置いてあった本の山の中から一冊、私に取って寄越してくれた。
「……一応言っておきますけど、自分で取れますよ」
「まあでも、俺が手を伸ばせば届いたし」
 そうしてそのまま、再びネロは私の肩に頭を凭れかけさせ、自分も読みかけの魔術書──ファウストさんからの課題図書に視線を戻した。
 遠くから、ラスティカさんが演奏しているのか、チェンバロの響きが聞こえてくる。窓の外は雨。部屋の中にはネロがポットで持ってきてくれた、コーヒーの香りで満たされている。
 適度にかけられた体重を身体の左側に感じながら、私は視線をネロの水色の頭に向けた。ソファーの上で半分寝そべるようにして、ネロは私に凭れている。まるで自分の部屋のように我が物顔でくつろいでいる様は、付き合い始めて三か月経っても未だに見慣れない。
「…………」
 喉元まで上がってきていた言葉をすんでのところで飲み込む。ミルクをたっぷり淹れたコーヒーを流し込んで駄目押しすると、気を取り直して、ネロに取ってもらった本を開いた。
 ルチルに貸してもらった南の国で流行っているというファンタジー小説は、全十巻から成るなかなかの長編だ。そのあまりの面白さに、ルチルからまとめて貸してもらってからというもの、ずっと夢中になって読んでいる。
 しかし今は、文章を読んでもさっぱり中身が頭に入ってこなかった。
 諦めて本を閉じ、私は左側のネロを見る。視線に気付いたネロは、それでもまだ私に凭れかかったまま「なに?」と軽く尋ねた。
 上目遣いになっているネロは、普段見慣れていない角度のためか、妙に可愛く見えてずるい。私の何十倍も生きているのに、これが魔法使いの魅力ということなのだろうか。
 先程飲み込んだはずの言葉が、ふたたび喉元まで上がってくる。今度はそのまま飲み下せず、完全に気を抜いているネロに向け私は衝動的に口を開いた。
「ネロって、なんというか……」
「なに?」
「付き合う前と後で態度が違いすぎません……!?」
 ここ三か月思い続けてきた言葉をついに口にしてしまった。わぁっと叫ぶなり、私は両手で顔を覆った。

 ネロと付き合い始めて、早いもので三か月経つ。日に日に次の<大いなる厄災>が近づいてはいるのだが、ひとまずのところは大きな騒動もないまま、私は魔法舎の小間使いとして安穏とした日々を送っている。
 魔法使いの皆さんと賢者様もそれについては同じようで、依頼を受けてあちこちに出張して異変に対処しながらも、基本的には日課の訓練をしたり勉強をしたり、それぞれ気ままに生活をしている印象だ。
 そんな毎日のなか、私とネロは着実に恋人として距離を縮めている。日中こそ互いに仕事や役割があるので話をする機会も少ないが、ひとたび私の仕事が終わってしまえば後は恋人同士の甘い時間だ。私の部屋かネロの部屋か、どちらかで一緒に過ごしては、そのまま朝まで一緒に眠るのが習慣のようになってしまった。
 正直、どうにかなってしまいそうなくらい幸福な生活を送っている。どうにかなってしまいそうなところを、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。
 顔を覆って悶絶する私を見て、ネロはようやく身体を起こした。アーサー殿下によって下賜されたソファーは、大の大人の男の人であるネロが身体を起こしても小さくすら軋まない。
 今日はこのまま私の部屋で寝るつもりでいるのか、ゆるっとした寝間着のシャツ一枚のネロは、ソファーの上で身体の向きを変えると私に向き合った。
「そりゃあまあ、恋人扱いと知り合い扱いがそのまんま同じ方がいろいろ問題だろ」
「それはそう、それはそうなんですけどっ」
 わっと感情が溢れそうになって、私は眉尻を下げてネロを見た。しかし人の気も知らず、ネロは面白そうに笑っているだけだ。
「大体、そういうそっちだって、満更でもない顔してると思うけどな」
「だ、だって……」
 図星をつかれ、私は言葉に詰まった。意地の悪い笑顔を浮かべているネロの視線は、じわじわ私のことを追い詰めているみたいだ。たまにネロは、こういう意地の悪いことをする。ブラッドリーみたいだと思わないでもないのだが、それはネロに言うと怒られそうだから口にしないことにしている。
 暫く返答できずに呻いていた私だが、やがてネロからの視線に耐えかねて、渋々絞り出すように答えた。
「好きな人にこんなふうに甘い態度とられたら、まんざらでなくなるのは仕方ないことだと思うんですけど……」
 その答えに満足したのか、ネロは「お互い満足してるならいいんじゃねえの」とそれだけ言って、再び私に凭れかかった。さっきまでよりも容赦なく体重を掛けられている気がするのは、多分ネロなりの照れ隠しのようなものだろう。ネロのシャンプーのにおいがかすかに香る。なんだか頭がくらくらした。
 数百年生きている男の人でも、恋人を前にするとこんなふうに甘くなってしまうものなのだろうか。それともこれが、ネロの本来の姿なのだろうか。いずれか私には分からないが、もしも前者であるならば、恋の力とはつくづく恐ろしいものだ。
 そんなことを思いながら溜息をついていると、
「まあ、ナマエが離れてほしいなら離れるけど」
 私の溜息にまぎれてしまうような小さな声で、ぼそりとネロが呟いた。その声を耳が拾った瞬間に、私の胸がぎゅうっと引き絞られたような甘い苦しさをおぼえる。
 私の気持ちを知っているのに、そんなふうに寂しい声を出すなんて。
「……それはちょっと、ずるくないですか?」
 歯を食いしばり、こみあげる胸のときめきをどうにか堪えながら返す。付き合い始めてからというもの、次から次へと私の知らなかったネロが出てくる。そのたび、私の心臓はいちいち悲鳴を上げている。
 それなのに、ネロは私の心臓のことなどまったくお構いなしなのだ。
「何がずるいって? 俺はナマエの希望を叶えてやろうとしてるだけだけど」
 意地悪な声でそんなことを嘯く。
「私の希望はネロが幸せそうにしてくれてることです」
「なるほど。じゃあこのままでいいってことだ」
 そう言って、ネロは笑った。しかしその茶化すような言葉の中にも、小さな安堵が滲んでいることが分かってしまうから、私は結局ネロの重さを受け容れてしまうのだ。それにもとより、ネロのそうした仕草を拒む気もない。だからこうして「折れてあげる」ようなポーズをとることにだって、本当は何の意味もない。ネロもそれは分かっているのだろう。分かっていてやっている。じゃれあいみたいだ。
 べったりしていて、甘やかな時間。
 それがいずれネロを置いて私が先立つ日に向けて、文字通り寸暇を惜しんで愛情を交わそうというネロの魔法使いなりの愛し方であることを、言われなくても私は察している。だから私は困ったふりをして、本当はちっとも困ってなどいないのにネロに溜息をついて見せるのだ。
「またファウストさんに浮かれてるって言われてもしりませんよ」
「大丈夫だよ。人前ではちゃんとしてるだろ?」
「たまに漏れてますよ。そこはかとなく甘い何かが」
「まじか。気を付けないとな」
 言いながら、ふうと大きく息を吐きネロはふたたび私に顔寄せる。
「言ってることとやってることがちぐはぐです」
 幸福で胸をいっぱいにしながら、私は笑った。
 胸の端っこに引っかかる、たったひとつの悩み事には見て見ぬふりをして。

 ★

 翌朝、魔法使いたちが起き出すより先にさっさと朝食を済ませた私は、日課となっている朝の中庭掃除に勤しんでいた。昨晩の雨のためか、今日はいつもよりも落ち葉や花殻が多い。地面にぺったりと張り付くように落ちたそれらを、私は溜息をつきつつ掃いて集めた。
 つい先日、ミスラさんとオズさんが魔法舎を破壊せんばかりの騒動を起こしてくれたおかげで、今の魔法舎はどこもかしこも新築同様にぴかぴかだ。正直、掃除をするにもあまり張り合いがない。こうも仕事がなくてはお賃金をいただくのが申し訳ないということで、カナリアさんも一時的にお城の手伝いに出てしまった。そのくらい、ここのところは小間使いとしては暇な毎日なのだった。
「はあ……」
 箒を左右に動かし、溜息をつく。溜息をついているのは何も仕事が暇だからというだけではない。昨晩のことを思い返すと、どうしたって溜息がこぼれてしまう。
「ネロの気持ちが分からない……」
 周囲に人の目がないのをいいことに、そんなことまでぼやく。
 すると直後、一体どこから現れたのか、
「ネロが何だって?」
 いつものスーツにモッズコート姿のブラッドリーが、私の独り言に返事を寄越した。爽やかな朝には些か不似合いな人物の登場に、私はどろりとした視線を向ける。
「ああ、ブラッドリー。おはようございます……」
「んだよ、そのツラ。辛気臭ェな」
 覇気のない挨拶をすれば、ブラッドリーは面白くなさそうに眉をしかめる。しかしそれも一瞬のことだった。ブラッドリーはすぐにピンときたとでもいうような顔をすると、にやにやと笑って私に顔を寄せた。
「ははー。てめえ、さてはお楽しみの一夜だったな? それで寝不足なんだろ」
「お楽しみ……?」
 ブラッドリーの言葉を繰り返し、私は首を傾げた。その緩慢なリアクションがブラッドリーのお気に召さなかったのか、ブラッドリーは一瞬悪そうに輝かせた瞳をすぐに曇らせ、訝し気に目を眇めて私を睨んだ。
「なんだよ、もっと慌てるとかしろよ。面白くもねえ」
「お楽しみ……? そうですね、お楽しみ……、お楽しみか……」
 譫言のように呟けば、ブラッドリーは一層眉を顰める。
「なんだよ、ネロの生々しい話なら聞きたくねえからやめろよ。ただでさえこっちは再三釘さされてんだから」
「釘?」
「あいつも年食って肝が小さくなってんのか、いちいちうるさくってかなわねえよ」
 苛立たし気に吐き出す様子に、私はああ、と思い当たった。おそらく私が知らないところで、ネロはブラッドリーに何かしらの念押しをしているのだろう。元々ネロはブラッドリーから自分の過去が私に漏れるのを嫌がっている。ブラッドリーもブラッドリーで、意外にもネロのその念押しに従っているから不思議だ。ここの上下関係は私にはよく分からない──
 と、そのとき、私はふと妙案を思いついた。何についての妙案なのかといえば、今私の心の中に暗雲として立ち込めている、ネロとのとある問題についてのだ。
 ブラッドリーはネロの過去を知っている。それは多分、前にネロから聞いた「悪どいやつらとつるんでた時期」のことだろう。そこについては私はそう興味もなく、またネロが私に知ってほしくないというのであれば、それをわざわざ無下にするつもりもない。
 しかし、ブラッドリーがその時期のネロを知っているということは、今の私にとってはこれ以上にないほどの僥倖だ。
「あの、ひとつお聞きしたいんですけど、ブラッドリーはネロと昔からのお知り合いなんですよね?」
 脈絡なくそう切り出せば、ブラッドリーは途端に嫌そうな表情を顔をいっぱいに表した。
「は? なんだよ、ネロにそう言われたのか?」
「そういうわけではないですけど、おふたりが旧知の仲だってことは見ていれば分かります」
 というより、隠しきれている相手など、リケやミチルあたりまでがせいぜいだろう。ネロとブラッドリーは見るからに気安いし、ネロは時々口を滑らせブラッドリーを愛称で呼ぶ。プライドの高いブラッドリーがそれを咎める様子もない。東の国の魔法使いなど、生粋の北の国の魔法使いであるブラッドリーから見れば取るに足らない存在だろうはずなのに。
 私がそのようなことを説明すると、ブラッドリーはちょっと考えるように視線をそらした。しかし否定しても仕方がないと思ったのか、
「まあ、知ってるっちゃ知ってるけどな。大したことは知らねえよ。ちょっと知り合い程度のもんだ」
 あくまでも知り合い程度、と強調したうえであっさりと頷いた。
「そういうことにしておくのでもいいですけど……。あの、それなら私、ブラッドリーに教えていただきたいことがあって」
 そう前置きをして、意を決し、私はブラッドリーに尋ねた。
「あの、昔のネロってどんな感じでしたか? その、主に女性関係全般に対して」
「女関係だぁ?」
 ブラッドリーは私の問いに胡乱げに目を細めた。が、すぐににやりと笑ったかと思えば、今度は楽しそうに大きな口を開けて大笑いを始める。
「なんだお前、一丁前に昔の女に妬いてやがんのか!」
 あまりにもあけすけな物言いに、私はかっと顔が赤らむのを感じた。ブラッドリーにはデリカシーだとかプライバシーへの配慮だとか、そういう感覚が著しく欠けている気がする。第一、今はそういう話をしたいわけではない。
「そ、そういうわけではないんですけど……。ただ、その、どういう女性が本来好みなのかなぁと、そ、そう思っただけで……」
「好み?」
「そうです。好みの話です。特に女性の見た目について、ネロがどういうタイプを好きになってきたのかが知りたいんです」
 私を見下ろし莫迦にしたような顔をするブラッドリーに、それでも私は誠心誠意心を砕いて説明をした。
 それにしても、こうして言葉で説明していると、自分が如何に情けない質問をしているかを改めて実感し、ほとほと悲しくなってくる。しかも質問の相手はよりにもよってブラッドリーだ。もしかしたら向こう十年はこの情けない質問で笑われ続けるかもしれない。そう思うと、自分がとんでもない失態を犯しているような気分になった。

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