02

 私が魔法舎でお世話になるようになって、二週間が経過した。ここでの私の仕事は、この館の中の家政を一手に取り仕切っているカナリアさんの補助だ。
 ここに住まう魔法使いたちと賢者様は、リケとミチルという幼い子ふたりを含んでいるとはいえ、ほとんどが自立した生活を送っている。だから掃除も洗濯もそう大変ではないのだが、とはいえ大人数が共同生活を送っている以上はどうしたって散らかったり汚れたりもする。備品だって勝手に補充されていくわけではない。
 私はてっきり、カナリアさんは私を庇うために雇うのを申し出てくれたと思っていたけれど、実際に働いてみるとそれもあながち私のためだけに言い出したのではないのかもしれないと思わされた。カナリアさんが此処に来るより前は一体どうしていたのか甚だ不思議だが、ここは魔法使いたちが暮らす場所。いざとなればどうとでもなるのだろう。
 魔法舎での、私とカナリアさんの朝は早い。
 まだ朝日が昇るより先に起き出すと、カナリアさんが即席で用意した朝食をささっと胃におさめ、早速仕事を開始する。というのも、掃除をするにも何をするにも、魔法使いたちがいるところでばたばたと埃を立てるのはよくない。掃除をしている姿を見せて「手伝います」などと言わせるのもつまらないので、そういうことはできるだけ彼らの目につかない時間に済ませてしまいたいのだ。
 もっとも、それだけで終わる仕事の量でもないので、結局は日中にも仕事をしてはいるのだが──それはそれとして。
 魔法舎中のクッションを干し終えたところで、私とカナリアさんは揃って額の汗を拭った。まだ気温が上がり切るより早い時間だが、たえず身体を動かし続けていたのですっかり汗だくだ。アーサー殿下から下賜されたエプロンドレスは城の使用人たちが使っているのと同じものらしいが、これは襟が詰まっていて袖も長い。屋外での活動にはあまり向いていないように思えてならない。
 袖をまくって息をついたカナリアさんは、空になった籠を抱えると、
「それでは、ナマエさんは中庭の掃除をお願いします」
 とてきぱきと指示を出した。
「それが終わりましたら備品のチェックを。買い出しは魔法使いの皆さんにも手伝ってもらいますけど」
「分かりました」
 カナリアさんと別れ、私は中庭へと向かった。太陽はだんだんと空の高い位置に昇りつつある。中庭ではよくリケやミチルが魔法の練習を兼ねて遊んでいるから、早く掃除を済ませてしまわないと彼らの邪魔になってしまう。
 朝の空気は澄んでいて軽やかだ。雨の街は晴れた日にも空気に湿り気が強く、どことなくどんよりとした雰囲気が漂っていた。ここでは、そうした空気の重さはあまり感じない。
 慣れればきっと気持ちがいいのだろう。けれど長年住み慣れた東の国とは、水の味も空気のにおいも違うということに、私は未だ慣れていない。
 と、早足に中庭へと向かう途中の渡り通路で、ふと見知った姿を視界にとらえた。
「店主さん!」
 思わず声をあげると、私は駆け足に彼へと近づいた。店主さんはいつもと同じカフェエプロン姿でひとり歩いていたが、私に気付くと一瞬眉をひそめ、渋々といった様子で足を止めた。
「ああ、あんたか。どうも」
 ここで暮らし始めてからの二週間、店主さんとは幾度となく顔を合わせている。賢者の魔法使いたちはみな此処で生活をしているとはいえ、皆が足並みそろえて団体行動をしているわけではない。部屋に篭りがちでほとんど私と顔を合わせない魔法使いもいれば、逆に就寝時以外は自室には戻らず、団らんの輪の中で一日のほとんどを過ごす魔法使いもいる。
 店主さんはその丁度中間だ。適度に会話に参加するが、けしてべたついた関係にはならない。東の国の魔法使いたちと訓練しても、連れ立って出かけることは少ない。
 店主さんも、そして当然私も、部屋に引きこもっているわけではないから、ちょこまかと仕事で魔法舎の中を動き回っていれば、自然と店主さんと顔を合わせることも多い。
「店主さんは此処で何をされているのですか?」
 私の問いに、店主さんは呆れたように苦笑した。
「別に。通りかかっただけさ」
「どこかに行かれるところですか? それとも戻るところ?」
「食堂に──って、なんだあんた。ぐいぐい来るな」
 店主さんの声には呆れがはっきり滲んでいる。私は自分が無礼な振る舞いをしたことに気付き、慌てて店主さんに頭を下げた。
「すみません、私がここで顔見知りなのって店主さんだけなものですから、ついつい話し相手になってほしい気持ちが。いえ、別に店主さんのことを友達だとか馴れ馴れしいことを思っているわけではないんですけど」
「いや、もういいよ……」
 分かってるから、と付け足して、店主さんは嘆息した。
 東の国の民の性質として、私も例にもれずあまり人付き合いがうまい方ではない。生まれついての性分として、人見知りなのだ。さすがに私に仕事を教えてくれているカナリアさんや、同じ年頃の女性である賢者様とはそれなりに言葉を交わすが、けして友人のように付き合っているというわけでもない。長年の雨の街での生活のすえ、私は噂話や立ち話といったものに抵抗を覚えてしまうようになっていた。
 もっとも、店主さん相手にはそうした遠慮や気詰まりをあまり感じない。それは同じ東の国の出身、雨の街の出身として、似たような雰囲気を感じ取っていたからかもしれないし、あるいは店の中では比較的自由に言葉を交わすことができていたからというのを、中央の国で再会してからも引き摺っているのかもしれない。
 つまるところ、店主さんは私がこの魔法舎で唯一、気兼ねなく話しかけることができる相手なのだった。
 店主さんが、今にも立ち去りたそうに視線を泳がせている。私は無駄話を中断すると、本題を切り出すことにした。
「あの、」
「何?」
「店主さんの食事をまた食べたい、というときにはどのようにしたらいいんでしょうか」
 脈絡のない私の問いに、店主さんは「はあ?」と胡乱な返事をした。それも仕方が無いことなので、私は特に驚いたり傷ついたりすることもなく、その返事を受け流した。
 当然ながら私はここで毎日三食の食事をいただいている。それこそ、故郷にいたころよりもずっと恵まれた生活をしているくらいだ。ただ、食事のほとんどは自分かカナリアさんが作った食事だ。私はここに来た初日以来、店主さんの手料理を一度も食べていなかった。
 と、そのことを考えたのと同時に、私ははっと自分の口許を抑えた。
「あっ、違うんです。けしてカナリアさんの料理が美味しくないとか、そういうわけではないんですけど。ただ、その……」
 ここにいれば、また店主さんの料理が食べられると思っていたものですから……。
 恥をしのんで、正直に、そう口にした。
 私が言いたいことが伝わったのか、店主さんが「ああ」と手を打つ。
「そういや、あんたはいつも俺たちの朝食より先に朝食を済ませちまってるのか」
「え? ええ、はい」
 私が首を傾げると、店主さんが教えてくれた。
「朝食は、俺がカナリアさんを手伝って作ることが多いんだよ。もっともカナリアさんやあんたが食べてるのは、俺の作ったものじゃない。俺が作ってるのは大抵、魔法使いのやつらに出す分。パン焼いたりオムレツ作ったりな」
「ええっ!? それじゃあ魔法使いの皆さんには、店主さんの焼きたてパンが毎朝出されているんですか!?」
「そうだよ。朝はカナリアさんも忙しいしな。カナリアさんはサラダの準備なんかだけして、あとは俺がやるんだ」
「ぐう……」
 そういえば、私とカナリアさんの朝食はいつもささやかで、大人数分を用意しているようではなかった。その時点で私は魔法使いの皆さんとは別のものを食べているのだと気付いてもよさそうなものだったけれど、生憎と朝はあまり頭が働いておらず、目のまえにあるものをそのまま口に運んでいたのだった。
 しかし、まさか店主さんの焼きたてパンが供されていたとは思わなかった。
 店主さんのパンは雨の街の店で何度か食べたことがある。あくまでもメインの食事についてくるものでしかなかったが、その美味しさはパン屋としても通用するようなシンプルでやさしい美味しさだった。やたらに柔らかくて甘いだけではない、何もかもが絶妙なバランスのパンは、おそらくこの中央の都でもそうそうお目にかかれるものではないだろう。
「ぐう……店主さんの焼きたてパン……」
 想像しただけでも口内に涎が溢れてくる。そんな私を見て、店主さんが眉を下げ笑った。
「今度からはあんたのために、パンはいくつかとっておくことにするよ。焼きたてには劣るけど、それでもよければ」
「嬉しいです!」
 間髪を容れずに即答すると、店主さんは一層笑みを深めた。
「それに、簡単なものなら、いつでも作ってやるよ。もちろん食材があればだけど──」
「本当ですか!?」
 あまりにも有難い言葉に、柄にもなく踊り出したくなった。勿論、店主さんの作った料理にありつきたいと思ったから、こうして店主さんに声を掛けたのだ。けれどそれはあくまで叶うならばおこぼれにありつきたいという話で、まさか自分のために何か作ってもらえるとは思ってもみなかった。
 最後に店主さんの料理を食べたのはもう一年近く前だが、今でもあの時の気分をありありと思い出すことができる。細かな味付けの話ではない。店主さんのつくった料理を食べたときの、幸福感。
「あの幸福をまた味わえるだなんて、中央に来た甲斐がありました……!」
 ごくりと喉を鳴らして言う。店主さんは暫し呆れ気味な笑みを私に向けていたが、やがてはたと何かに思い至ったように表情を引き締めた。
「あのさ、こう言っちゃなんだけど、あんたみたいな綺麗な顔してたら、俺の料理なんかよりもっと洒落てたり豪華だったりする料理を食べる機会も、今まで何度もあったんじゃないのか」
「それって、男の人にご馳走になってってことですか?」
「そう」
 店主さんが頷く。その表情からは私を揶揄おうとか茶化してやろうという意図は読み取れない。どうやら店主さんは本心から疑問に思っているようだった。
「そうですねえ……。そうは言っても私はあんまり家から遠くに出たことが無いですし、近所には顔なじみの人しか住んでいませんでしたから。そういう出会いというか、機会はほとんどなかったですよ」
 無論、私も妙齢の女子だからまるきり男性を知らないわけではない。よく知っているとは言えないが、まったくの無知ということもない。けれど私を好きになってくれる人というのは、良くも悪くも私の身の丈にあった相手ばかりだ。高級なお店に私を連れていくような男性とは付き合ったことがない。それにもし連れていかれたとしても、私に適切なマナーや振る舞いができるとも思えない。
「だから、私が人生で食べたことのある一番おいしい料理は、店主さんがつくった料理です」
 高級で、高価な食事でなくたって、美味しいものは美味しい。店主さんのつくる料理からはひと品ずつ丁寧に、手間と工夫のもとつくられているのだということが伝わってくる。そうして作られた料理が、必ずしも高級で豪華な料理に劣っているとは言えないはずだ。
 私の言葉に店主さんが納得したのかしていないのか、それは私には分からない。けれど店主さんはひとまず私の言い分を受け容れた。
「そうかい。まあ、誉められて悪い気はしないよ」
「……そう仰る割には複雑な顔をしていらっしゃいますが」
「はは、ばれたか」
 悪びれたふうもなく、店主さんは笑った。
 きっと店主さんは、はなから私と議論をするつもりなどないのだろう。だから表面上、私の意見を受け容れたように見えた。私にもそういうところがあるから、店主さんの気持ちはよく分かる。人と意見を言い合うことは、多分東の国の人間が苦手とする行為のひとつだ。
 乾いた笑いを顔に貼り付けたまま、店主さんはふっと息を吐いた。そしてどこか自嘲するような色を滲ませた瞳を私に向けると、
「俺くらいの腕の料理人なんて、それこそ中央の国にはいやってほどいるだろうよ」
 何てことないように、そう言った。
「だから、あんたがいつまで、俺の料理が一番だって言ってくれるのかと思ってね」
「……ずっと、一番にしていては駄目なんですか?」
「駄目ってことはないが……」
 歯切れ悪く呟き、一度口を噤むと、店主さんは溜息をついて首を振った。
「まあいいや。それよりそっちこそ何処かに行く途中だったんじゃないのか」
「ああ、そうでした。カナリアさんに備品のチェックをしてほしいと頼まれてたんでした」
「そうか。そういうことなら食堂は俺が見ておくから、食堂以外を見に行ってくれ。足りないものがあったら俺が直接カナリアさんに言っておく」
「え、でも」
「いいって」
 あくまでも柔らかな物腰で、けれど断固として私をそれ以上寄せ付けまいとするように。店主さんははっきりと私を拒むと、私が立ち去るよう視線で促した。
「そう、ですか……それでは、お願いします」
「はいよ」
 これ以上店主さんを困らせるわけにもいかない。私は落ち込みそうになる気持ちを何とか励まし、店主さんに一礼してからその場を立ち去った。

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