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 それからさらに数日。私は相も変わらず魔法舎の住み込み小間使いとして、料理以外の雑多な仕事をこまごまとこなす日々を送っていた。
 数日前から任務に出ていた賢者様も、無事に魔法舎に戻られた。数日前に見た賢者様と西の魔法使いたちが花火をしていた様子は、どうやら新しい任務の準備のようなものだったらしい。詳しいことは私にはさっぱり分からないが、さすが西の魔法使いたちが出る任務だけあって、おそろしく派手で華やかな任務だったに違いない。
 ともあれ、久し振りに魔法舎に戻られた賢者様に、私は遅ればせながらネロとのことをかいつまんで報告した。中庭の噴水の縁に腰かけた賢者様は、きらきらと目を輝かせながら私のつたない話を来てくださった。
「よかったですね、ナマエさん!」
 本心から喜んでくれていることが分かる賢者様の笑顔に、落ち着きかけていた喜びがまたふつふつとぶり返してくる。ネロに好きだと言われた晩の、あの浮きたつような、舞い上がるような、ふわふわとした気持ち。思い出すだけで心が幸福でひたひたになるような思い。たまらず幸福の溜息をつけば、賢者様に「幸せそうですね」と笑われた。
「本当に賢者様にはお世話になりました」
「いえいえ、私なんて何もしてないようなもので……。それよりも、これからが楽しい時期ですね」
 ぐっと拳をにぎる賢者様。輝くばかりの笑顔を向けられて、私ははて、と首を傾げた。
「これから、ですか?」
「そうですよ。関係が知り合いから恋人に変わったわけですから、これから色々と楽しいことが目白押しじゃないですか」
「関係は特に変わっていませんが……?」
 私がさらに首を傾げれば、賢者様もあたまの上にクエスチョンマークを飛ばしながら、私と同じように首を傾げる。
「え? でもナマエさん、ネロと両想いになったんですよね?」
「それはそう、ですけど……でも、だからどうとも言われていませんし……私も、ネロには何かしてほしいと望んでるわけではないと伝えてありますし……」
 戸惑いながらそう答えると、賢者様はぽかんとした顔をして、私のことを食い入るように見つめた。
 賢者様が言っているのはつまり、恋人同士になったのだから、これからは恋人同士のお楽しみがあるはずだ、とそういうことなのだろう。私も二十を過ぎた女なので、そういうことをまったく知らないわけではない。要は手をつないだりとかキスをしたりとか、はたまたその先があったりということだ。
 が、今回の場合、私の相手はネロだ。気持ちを打ち明け合うだけでも此処まで掛かったというのに、いきなり恋人同士になる、ということもないに違いない。今はまだ、互いの気持ちの確認の時期だった。
 賢者様は依然言葉を失くしている。果たしてどう説明したものかと頭を悩ませながら、私は慎重に、言葉を選びながら口を開いた。
「ええと、あの、賢者様のおっしゃることは分かるんです。たしかに関係が変わったら、間にある遣り取りにも変化があらわれるものですもんね。それは分かるんです。でも、今はまだ関係が変わっていないというか……もしもこの先、私とネロが恋人同士になるとしても、それはなんというか、ネロのことですからもう少し時間をかけてゆっくりそうなっていくのではないかと……いえ、あの、そういうことになればの話なんですけど」
「なるほど……そういう……?」
「私、待つのには慣れていますし。それに、今はネロから好きだと言ってもらえただけで胸がいっぱいですから」
 笑顔を浮かべて、私は賢者様に向き合った。
 今はまだ、付き合うだとか何だとか、そんな恐れ多くて贅沢なことは望まない。いつかはそんなふうになれたらいいなと、思わないでもないのだが。
 と、昼下がりのうららかな陽気にかまけ、そんな夢物語のようなことを考えながら締まりのない顔でにやにや笑っていると。
 ふいに中庭の木々がざわりと大きく騒いだ。人の気配を感じて振り向けば、ネロがきょろきょろと周囲を見回しながら、こちらに向かって歩いてくる。ネロは私たちに気が付くと、小さく手を挙げ歩み寄ってきた。雰囲気から察するに、賢者様を探していたに違いない。
「こんにちは、ネロ」
 小さく頭を下げると、ネロが頭をかいた。
「悪いな、話し中に」
「いえ、ちょうど話が終わったところです。ですよね、賢者様」
「そうですね、今ちょうど」
 私と賢者様は目と目を見合わせ笑いあう。ネロは訝し気に眉を上げたが、それ以上追及はしなかった。
 ネロは身体の向きを賢者様に向けると、頭をかきながら言った。
「賢者さん、ちょっといいか? この間の訓練のことで少し話があるんだけど」
「あっ、はい、大丈夫です。聞きます」
 賢者様は“訓練”と聞き、すぐに表情を引き締めた。さっきまでの乙女トークのテンションの名残もなく、すっかり“賢者”の顔をしている。そういうところがかっこよくて、私などはひそかに憧れているのだった。
 ともあれ、何やら大事な話が始まりそうな空気を察し、私はさりげなくふたりから距離をとった。魔法舎で働いているとはいっても、私の仕事はあくまで小間使い。賢者様と魔法使いたちの話に首を突っ込む気はない。
 と、そのままふたりから離れていこうとした矢先、私の腕をネロが素早く捕まえた。
「っと、その前に少しだけ」
 そう賢者様にことわりを入れてから、ネロが私の腕をくんと引く。まるでたたらを踏むように、私はネロの方へと引き寄せられた。
 一体何事なのだろう。顔を上げ、ネロを見る。ネロは何故だか少しだけばつの悪そうな顔をして、しかし妙にもの言いたげに私を見つめていた。
「な、なんでしょう?」
「今日、仕事のあと時間ある?」
 短く、淡々と、ネロが問う。
「いえ、今日は賢者様と本を読む約束をしていますけど……何かありましたか?」
 恐る恐る答えると、ネロはゆるりと首を横に振った。
「いや、先約があるならいいや」
「そうですか……?」
 ネロが私の手を放す。用件はそれだけだったらしい。それならば、と私が一礼して立ち去ろうとしたところで、今度は賢者様が私を呼び止めた。
「ナマエさんっ、本なら明日でも明後日でもいいので! 今日はネロの用件に付き合ってあげてください!」
「えっ、そうですか……?」
「絶対にその方がいいと思います!」
 恐ろしいまでに力のこもった声で熱弁され、私は賢者様とネロを交互に見た。ネロは困ったように眉尻を下げ、反対に賢者様はきっと凛々しい顔をしている。私はといえば、どうしたものかと決めあぐね、ただただおろおろしていた。
 これはもしかして、賢者様が気を遣ってくださったのだろうか。
 ようやくそのことに気付き、私は内心で開手を打った。ネロの用件はよく分からないが、一緒にいられるチャンスであることには違いない。
 ただ、この状況をネロはどう思っているのだろう。こうもあからさまに賢者様にお膳立てをされては、ネロが嫌がるのではないだろうかという不安もあった。
「私はネロといられるのは嬉しいんですけど……その、いいんですか?」
 遠慮がちにネロに問えば、ネロは溜息をついて頷いた。
「いい。というか俺から誘ってんだけど」
「それでは、あの、はい。仕事が終わったら」
「分かった。じゃあ部屋で待ってるよ」
 どうにか約束を取りつけて、私は今度こそふたりに一礼した。
 賢者様とネロと別れ、私はそそくさと中庭を離れる。誰の視線もなくなってから、ようやくその場にへなへなとしゃがみこんだ。いっぺんに色んなことがありすぎて、膝がすっかり萎えてしまっていた。
 着慣れた制服の上から、先程ネロに捕まえられた腕にそっと触れる。
 少し前までのネロならば、あんなことをした直後は気まずさから視線を合わせようともしなかっただろう。それなのに、さっきは違った。咄嗟に出てしまった手ではなく、明確に意識して伸ばされたネロの手だった。
「はあ……心臓がもたない……」
 これではまるで、恋を知ったばかりの娘のようだ。身体の内側から止め処なく溢れてくる熱と胸のどきどきを逃がすように、私は膝を抱えたまま、大きく息を吐き出した。

 ★

 その日の晩、私はいつになく急いで仕事を切り上げると、大急ぎで服を着替えてからネロの部屋へと向かった。いつものように、ノックは二回。すぐに開いたドアの隙間から、ネロが「おつかれ」と私を招き入れた。
「ネロも、お疲れ様です。お邪魔します」
「……どうぞ」
 どきどきしながらネロの部屋へと入る。室内にはほろ苦いコーヒーの香りが漂っていた。ネロの部屋では紅茶を出されることが多かったが、今日はコーヒーを用意してくれているらしい。
「いいにおい……」
 鼻をひくつかせていると、コーヒーを淹れてくれたネロに笑われた。
「生クリームとか載せたい?」
「魅力的な提案ですが、もう夜ですからやめておきます」
「昼間なら載せるんだ」
「ときどき、贅沢な気分になりたいときに」
 そんな話をしながらも、視線はついつい忙しなく辺りを見回してしまう。ネロの部屋に入るのももう何度目か。それでも、この部屋には慣れない。どこを見てもネロの気配がある。厨房ですらネロの気配にそわそわしてしまうのに、私室など言うまでもない。
 コーヒーカップを目のまえに出され、ぼんやりしていた私は我に返った。見るとネロは、椅子に腰かけながら、自分のカップごしに私の顔を眺めている。悪戯っぽく笑う瞳はこれまでのネロよりもずっと親し気で、そのことがどうしようもなく私の胸をときめかせた。
 自分でも、顔がゆるんだのが分かる。咄嗟にカップを持ち上げ誤魔化そうとしたものの、ネロにはしっかり見られていたらしい。
「なんだ、その顔?」
 揶揄するように聞かれ、私はうっと言葉に詰まった。何と答えても恥ずかしいことになる気がする。しかし誤魔化すだけの余裕もないから、結局素直に自白するしかなかった。
「いえ、ただネロの部屋に入ると、どうしてもこの間のことを思い出すといいますか……。なんだかちょっと照れてしまいますね……」
「へえ、照れるんだ」
「それはもう、照れますよ。だって私にとっては夢のような時間だったので。クレームキャラメルも美味しかったですし」
「そっちか」
「そっちもです」
 なんとか話題を逸らしつつ。
 コーヒーを飲んで頭をしゃっきり切り替えてから、私はそろりとネロに尋ねた。
「ええと、それで用件というのは?」
「ないよ」
 しれっとネロが答える。
「え?」
「用件がないと部屋に呼んじゃだめだったのか?」
「そ、そういうわけではないですが……」
 しかし、ネロがこうして夜にわざわざ呼び出したからには、当然用件があるものだと思っていた。そうでなければネロが私に声を掛ける理由がない。食堂で顔を合わせて一緒に食事をするのとは訳が違うのだ。ここはネロの部屋で、ネロの個人的な空間。
 訳が分からず、私は内心で激しく狼狽えた。たしかに気持ちが通じていることは確認し合ったが、だからといってネロが、あのネロが、用件もないのに私を部屋に招くなんてことがあるのだろうか。
 特に私とネロは男女なのだ。同性同士ならばあるいはとも思うが、異性ともなれば普通、そういうことは相当に親しくしている友人同士か、あるいは恋人同士でもない限り、しないものなんじゃないだろうか。
 もはや混乱の極致にまで陥った私は、すがるようにネロを見た。ネロによってこの混乱が生まれているというのが現状なのだが、だからといってこの場で私が頼りすがることができる相手もネロしかいない。まさか今すぐにこの部屋を飛び出して、賢者様に助けを求めるわけにもいくまい。
 私の泣きつかんばかりの視線を受け、ネロは暫し、真顔でじっと私を見つめた。数拍の間を置いて、それからようやく、ネロは溜息をついて切り出した。
「あのさ、もしかして付き合ってると思ってるの、俺だけだったりする?」
 えっ、という驚嘆の言葉すら、私には発することができなかった。ネロが何を言っているのか、まったく理解ができなかったからだ。
 フリーズする私を見て、ふたたびネロが溜息をつく。くしゃりと前髪をかきあげると、ネロは困った顔で頬杖をついた。
「なんていうか、そうだな……。この間、俺はあんたの気持ちを受け止めて、俺もあんたのことが好きだってことは言ったよな。それでまあ、俺としては腹をくくって付き合うって、そういう話になったのかと思ってたんだけど……」
「つ、付き合ってもらえるんですか……」
 呆然と尋ねれば、
「いや、だからこっちはそのつもりだったんだって」
 と呆れたように返された。
「でも、だって、好きだとは言いましたけど……好きだとも言われましたけど……でも、それだけでしたよね……?」
「お互い子供じゃないんだし、それだけ言えば伝わるかと」
「そ、そんなの無理ですよ! だってこれまでの流れで、私がそんな、自分に都合のよすぎる展開を確信できると思いますか……!?」
「いや、そうだな。それはちょっと無茶だったかもしれない。俺の不徳の致すところっていうか、自分で蒔いた種っていうか……」
 そう言って、ネロは今日一番の深い溜息をついた。多分、思い当たる節が色々とあるのだろう。これまで散々、ネロには焦らされ距離を置かれ続けてきた。ネロ自身その自覚はあるはずだ。
 しかし、もはや全ては過ぎ去った過去のことだ。私の胸中に今現在嵐を巻き起こしているのは、今目のまえのネロによって落とされた、とんでもない威力の爆弾。 
「う、」
 胸を押さえて呻けば、ネロが「う?」と首を傾げた。
「嬉しくて、私、死んでしまいそうです……」
「ええ? いや、死ぬなよ。俺を置いて逝く罪悪感はどうした?」
「そうでした。はい……生きます……」
 ぐるぐるとときめきの滑車が回り続ける胸を押さえたまま、私は何とかそれだけ返事をした。夢じゃない。この間好きだと言われたことも、今ネロに付き合っていると言われたことも。全部、夢じゃない。胸のときめきと疼きが、これが現実のことなのだと私に知らせ続けている。
 気持ちを落ち着けるために長く息を吐き出した。するとネロが、大きく咳払いをひとつした。
「まあたしかに、あのとき言葉にしなかった俺も悪かったよ」
 ナマエ、と。
 改まって、ネロが私の名前を呼ぶ。
「ちょっとタイミングがずれたけど、俺の恋人になってくれる?」
 胸のときめきが、これ以上ないというくらいに全身に幸福をまき散らしていた。顔がにやけるのを隠すため、大急ぎで両手で顔を覆う。そのまま顔を俯けると、私は一言、呻くように返事をした。
「末永くよろしくお願いします」
「こちらこそ、末永くよろしく」

fin.

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