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ネロの示す線引きに、私は黙って耳を傾けていた。要するに、ネロは私とこれ以上深く関わり合うことをしたくないのだろう。そんなことをすれば私が傷つくし、ネロも傷つく。どちらも傷つくだけの行為を、誰が好き好んでするというのか。それがネロの言い分であり、建前だ。
しかし、私にはそれがネロの本心だとは、どうしても思えないのだ。
何故ならネロはこうしてお茶の準備をしてまで、来るかどうかも分からない私のことを待っていてくれた。ただ線引きをし直すならば、何も言わずに突き放してしまえばいいだけだ。そうすれば私が自分から距離を守ろうとすることを、きっとネロはもう知っているはずなのだから。
それでもネロがそうしなかったのは、心のどこかでまだ、ネロが私に何かを期待してくれているからなのではないだろうか。けして私に直接何かを求めることはしなくても、ネロはまだ、か細くて心許なくて、それでもけして消えはしない希望を、胸に宿しているのではないだろうか。
その希望の先に、私は今、触れようとしているのかもしれない。
このティーセットは、ネロの無言の期待のあらわれのように見えた。
不器用で、不格好で、けれど誠実な──それはどこまでもネロらしい、希望を求める声だ。
私は一度、ティーカップに視線を落とす。まだ思考は纏まりきらない。それでも、勘違いでなければネロの思いは私と同じはずなのだ。だからもう、あとは言葉を重ねていくしかない。
対話が苦手な者同士、どこまでできるかは分からないが。
「ネロの言いたいことは、分かりました。その、すべて理解ができているとは、とても言い難いとは思うんですけど、ひとまずのところは、おおむね」
見栄を張ることなく答えれば、ネロが呆れたように苦笑した。
「正直者だな」
「すみません」
「悪くないよ」
何故だか妙に子供扱いされているような気がした。場の空気を仕切りなおすべく、私はひとつ、わざとらしく咳払いをした。
「あの、私の話をしたいと思うんですけど、いいでしょうか」
「いいよ。俺の言いたいことは、さっきので大体全部だから」
「ありがとうございます。それで、ネロには最初に言っておきたいことがあって」
今度は小さく咳払いをした。先程から、胸が緊張でずっとずきずきしている。ひとつでも言葉選びを間違えば、折角掴みかけているネロの希望の先っぽを、瞬く間に見失ってしまいそうだった。
慎重に、丁寧に。
過剰も不足も必要ない。ネロがいつもそうしてくれるように、私もただ、ネロに誠実にあるだけだ。
「大前提として、私はネロのことを困らせたいわけではないんです。私の気持ちを伝えはしますけど、それであの、ネロにどうこうしてほしいだとか、そういう話でもありません。だから途中で、もう嫌だなとか、これ以上話をされたら困るなとか、そういうことを思ったら──」
「思ったら?」
「そのときは、私のことを遠慮なく部屋から抓み出してください」
私がそう言ったとたん、ネロがふっと顔を綻ばせた。真面目な話のつもりで話していた私は、その笑顔に早速出鼻を挫かれる。しかしネロは、何故か嬉しそうに笑っていた。
「それ、前に賢者さんからも似たようなことを言われたよ」
「そうなんですか?」
「賢者の書がどうのって言ってたときかな。話したくないことがあったら話したくないって言ってくれ、って。なんかあんたら、ちょっと似てるよな」
「そんなことはないと思うんですけど……」
私と賢者様が似ているなど、恐れ多いことこの上ない。もしも似ているのだとしたら、私が賢者様をお慕いしているからだ。賢者様のような人になりたくて、私は日々賢者様を観察している。
うっかり脱線しそうになった話を、ネロが元の道筋に戻した。
「まあいいや。じゃあ嫌になったら嫌、困ったら困ったって言わせてもらう。それでいい?」
「はい、ありがとうございます」
「お礼言うところかね」
もう一度ネロは笑って、それからテーブルの上に手を組んだ。それが話を聞く側に回ったポーズであることに気付いて、私も気を引き締めた。
何から話すべきだろうか。まずは、ネロが誤解していそうなところから手を付けていくのが、順序としてはいいだろうか。目まぐるしく思考を回転させながら、私はおずおずと切り出した。
「ええと、それでですね。さっきネロの話を聞いていて思ったんですけど、そもそも私は今、この現状を幸せだと思ってるんですよ。ネロのご飯を食べられて、ネロがこうして話もしてくれて。今までに比べると、だいぶ腹を割って話もしてくれるようになりましたし……」
最初に魔法舎に来たときに比べれば、あるいはネロに気持ちを打ち明けて、きっぱりとふられたあの晩に比べれば、ネロは随分、私にいろんな話をしてくれるようになったと思う。そのことだけでも、私はもうすでに十分に幸せだ。それこそ、今日ああしてネロに抱きしめられることでもなければ、この先ずっとこんなふうでもいいかもしれないと、そう思っていた。
「だから、ネロが私を、いや私でなくてもいいんですけど、その、魔法使いだから幸せにできないっていうのは、少し違うのではないかなと、思って」
ネロは困惑したように瞳を揺らす。それでもまだ「困った」とは言わず、黙って私の言葉に耳を傾けていた。そのことに、ひとまずはほっとした。
しかし気を緩めるわけにもいかない。心が怯懦で萎えてしまう前に、私は急いで言葉を続けた。
「あとは、そうですね……。たしかに私もずっと、ネロが魔法使いで自分が人間であることには悩んでいました。悩んでいたというか、気がかりだったというか。だけどそれは、私がまだ魔法使いのことを全然ちゃんと知らなくて、それでネロに嫌な思いをさせてしまうかもしれないとか、そういうことで……」
「それは、あんただけの問題ではないんじゃないか? むしろここには魔法使いの方が多いんだから、魔法使いが知らず識らずのうちにあんたや賢者さんや、カナリアさんを傷つけることの方が多いだろうに」
「それはそうかもしれないです。魔法使いの皆さんとは、考え方が違うなって思うことがまだまだありますし」
だから今でも時々、気付かないうちに誰かのことを傷つけてしまうかもしれないと、ふいに怖くなる。自分が誰かを傷つけるかもしれないということ、ほかの誰でもないネロを傷つけてしまうかもしれないということ。それは私にとって、途轍もなく恐ろしいことだった。今回、私が味覚を失っている間のネロの姿を見ていて、一層その思いは増した。
もしかしたら自分が傷つくこと以上に、ネロが傷つくことが恐ろしいのかもしれない。そんなことすら思う。
「人間同士ですら、家族相手にすら、うまくやっていくってことはこんなにも難しくて……だけどここで生活を始めてみて、家族には話せないことでもネロには話せたり、友達にも言えないことを魔法使いの皆さんに打ち明けることができたり……そういうことも、たしかにあって」
そこで私は一度言葉を切った。知らず識らずのうちにテーブルに置いた手元に落としていた視線を上げ、私はネロと見つめ合う。
ネロの瞳にうつる自分は、自分でも情けなくなるくらいに頼りない顔をしていた。当て所なく歩き続ける、迷子の子供のような顔。時々ネロも、こういう顔をしていた。
自分に喝を入れるように、私は両手で頬を軽く打つ。目のまえのネロが驚いたようにびくりと肩を揺らし、目を見開いた。
私は構わず、続けた。
「だから、ネロ。ちょっと提案なんですけれど、ここは一旦、魔法使いとか人間とか、そういう話はわきに置いておくことにしませんか?」
多分、ネロには突拍子もない話だと思われたことだろう。彼はぽかんと私を見つめたあと、やがて訝し気に目を細めた。その反応は予想ができていたことだったから、特別傷ついたりはしない。私がネロの立場でも、恐らく同じような反応をするだろう。
何と言っていいか分からないとでもいうふうに、ネロは暫し視線を彷徨わせる。それでも何かを言わなければならないとは思ったのだろう。ややあって、やけに弱気な声が私に向けられた。
「いや、そういうわけにはいかないだろ……」
「いかない、でしょうか」
「だって、それはなんていうか、置いておけるような大きさの問題じゃないだろ」
数百年も魔法使いとして生きてきて、魔法使いであることを隠しながら人間の中で生活をしてきたネロからしてみれば、それはまっとうな主張だった。そんな簡単に置いておける問題ならば、ネロはこんなに苦労せずに生きてこられたはずだ。
たしかにどのように生きていくかだとか、人間と魔法使いの共生だとか、そういう話をするのなら、自らの所属はけして置いておける問題ではない。しかし、これは私とネロの間の話だ。そんな狭い世界の話をするだけならば、今くらいは魔法使いだとか人間だとかは置いておいてもいいのではないだろうか。
「これは私がちょっと考えただけの、本当に浅い考えでしかない話なんですけど……、人間とか魔法使いとかって、言ってみれば、所属のひとつでしかないというか、持ってるバッジのひとつでしかない、と思うんです」
「……バッジ?」
胡乱げに繰り返され、私は頷いた。
「ネロは魔法使いというバッジを持ってて、でも料理人というバッジも持ってる、みたいな話というか。ネロは魔法使いだけど、魔法使いであるということだけが、ネロのすべての証明ではない、というか」
「まあ、言いたいことは分かるけど……」
「私が好きなのはネロであって、魔法使いのことが好きなわけではないんです。もちろんネロが魔法使いであることは揺るがない事実だし、どうしようもできないことでもあることは分かってます」
それでも、魔法使いであることがネロを好きになってはいけない理由だとは、私は思いたくなかった。同じように、私が人間だから駄目なのだと、ネロにはそんなふうに思ってほしくもなかった。
「私はネロのことが好きです。美味しい料理をつくってくれて、優しくて、不器用で、あたたかくて面倒見がよくて、ちょっと口の悪いところがあるネロのことが好きです。そういう、私がネロのことを好きだなと思うところって、ネロが魔法使いであろうとなかろうと、変わりないものじゃないですか?」
ネロが魔法使いであっても人間であっても、私はきっとネロのことを好きになった。
私が魔法使いであっても人間であっても、きっとネロのことを好きになった。
「それと、さっきの話でひとつ気になるところがあって……」
口が滑らかになっているついでに、私はもうひとつ、聞きたかったことを聞いてしまうことにした。魔法使いだからとか、人間だとか。そういう話をする以前の話だ。私にはどうしても分からないことがあった。
「失礼ながら……、どうして私がネロを置いて逝く前提なんでしょうか。年に一度<大いなる厄災>なんて化け物と戦わなければならないんだから、ネロの方がよほど命の危険がある人生だと思うんですけど……?」
私からの質問にネロは一瞬虚を突かれたような顔をする。しかしその問いに対する答えを、ネロはまだ持っていなかったらしい。暫し仏頂面で思案したのち、
「それはたしかに……、そうだな」
ネロは渋々頷いた。
「たしかに、それはあんたの言うとおりかもしれない」
「つまり、ネロが私を置いて逝く可能性も大いにあると?」
「あるな。前回と同じ規模か、あるいはそれ以上か──そんな<大いなる厄災>が来るなんていう、悪夢みたいなことがあればだけど」
しかしそんな悪夢みたいなことが起こりうる事態だから、ネロは今こうして魔法舎でほかの賢者の魔法使いたちと共同生活を送っている。
結局は、そういうことなのだ。これまで数百年生きているからといって、賢者の魔法使いとなったネロが私よりも永く生きる保証など何処にもありはしない。明日のことが分からないのは、私もネロも変わらない。
「だから私は、ネロのことが好きなままでいてもいいかなって、そう思ってるんですけど……どうでしょう?」
「俺のが先に死ぬかもしれないから?」
「そ、そういうわけではないですけど……、いや、でもまあ、それもあります……」
「あるのかよ」
「こう、ネロにこれ以上先立たれる孤独を味わわせるのは罪悪感があるんですけど、でもどっちが先に死ぬのか分かんないっていうのなら、それはまあいいかなと……」
「すごい理屈だな……」
ネロの呆れ顔に、だんだんといたたまれない気分になってきて、私はたまらず顔を俯けた。一応言葉を選びながらではあったものの、ネロが嫌だとも困ったとも言わないものだから、当初決めていた以上に随分と言いたい放題してしまった。無論、嘘はひとつも言っていない。すべて掛け値なしの本音だ。それでも、些か言い過ぎてしまった感はあった。最後の「どっちが先に死ぬかなんて分かんない」というのは、完全に余分だった気もする。
やはり私は誰かと向かい合って言葉を交わし合うということが、あまり得意ではないのかもしれない。今までは東の国の出身のせいにしてきたが、元々の性格というか、生まれついての性質としてそういうものが不得手な気すらしてきた。
頭を抱え、項垂れる。もはやネロからの返答など、期待できるはずもない。
そんな私を見て、ネロがくっくと笑った。
「なに、なんで急に反省タイムに入った?」
「いえ、慣れないことはすべきではないなと、しみじみ思っているところです……」
根暗で事なかれ主義の東の人間は、せいぜいじっとりネロを想っているくらいがお似合いだったのかもしれない。しかしネロは、私の怒涛の後悔を面白がるようにひとしきり笑うと、
「やっぱりあんた、東の人間らしくないよ」
笑いが尾を引いたやわらかな声音で、励ますようにそう言った。情けない表情を張り付けたまま、私はゆるりと顔を上げる。ネロはまだ、随分楽しそうに笑っていた。
「そ、そうですか……? 東の人間らしく、こんなにもうじうじしているのに?」
「本当にうじうじしている人間は、そんな『なるようにしかならない』みたいな割り切りはしない」
「そうでしょうか……?」
これは誉められているのだろうか。それとも貶されているのだろうか。その如何によって、今後の話の風向きが変わる気がする。私はネロの真意をはかりかね、ひとり頭を悩ませてた。それ見て、ネロがまた笑う。今度は何かが吹っ切れたような、さっぱりとした笑顔だった。
「でも、悪くないと思う。俺はあんたの──ナマエのそういうところが結構好きだよ」
一瞬、何を言われているのか理解が追いつかなかった。もしかしたら、この短時間で頭を働かせすぎたせいで、ついに幻聴が聞こえたのかもしれないと思う。
しかし目のまえのネロは、先程までとは打って変わって清々しい顔をして私を見ている。その笑顔は今しがた、私に向けられた言葉を裏付けしているようだった。
ネロが、好きだと言った。
私に向かって、好きだと言ってくれた。
その事実にようやく思い至り、だんだんと、顔に熱が集まってくる。
もしかして、夢だろうか。夢でなかったら、それでは一体何なのだろう。
「あの、確認をしておきたいんですけれども……、その、今、ネロ、好きって……好きって、言ってくれました?」
おずおずと確認すれば、ネロはまたあっさりと頷く。
「言ったよ。この期に及んで言ってない、とはさすがに言えないだろ」
「念のために聞いておきたいんですけど、夢、とかではない?」
「たしかめてみるか?」
「えっ、な、何を」
ネロがやにわに椅子から立ち上がる。状況が状況だけに、そして直前の台詞が台詞だけに、異常なまでに過敏になっていた私は思わず悲鳴を上げて目を瞑った。
たしかめてみる、とは。一体何をどう確かめるというのだろう。あまりの急展開に頭が追い付かず、とにかく私は身体を強張らせ、どんな衝撃に襲われてもいいように覚悟を決めた。
しかし、五秒待ち、十秒待ち──それでも特に何かが起こるわけでもなければ、ネロから言葉を差し出されるわけでもない。内心を恐ろしさでいっぱいにしながら、私は恐る恐る、瞼を開いた。
すると立ち上がったはずのネロは、何故だかまだ目のまえの椅子に腰かけている。その代わり、ティーセットが出ていたテーブルの上には、蓋つきの白い深皿が一枚置かれていた。
「ええっと……これは……?」
戸惑う私に、ネロがぐっとテーブルに身を乗り出す。
「夢の中って痛覚とかないっていうだろ」
「そ、そうですね……?」
話が見えず、私は混乱しながら首肯する。
「つまり、感覚とかもないわけだよな。当然、味も感じない」
「そうなんですか?」
「いや、これは勘だけど。で、ここにあるのはナマエの大好物──」
そう言ってネロが、にやりと笑って蓋を開ける。中身を目にしたその瞬間、私ははっと息を呑んだ。
皿の中にはたっぷりのカラメルがかかったクレームキャラメル。天井の灯りを受け、表面がつやつやと輝いた至高の逸品がそこにはあった。
「ね、ネロ……!」
「はは、食べる? 美味しかったら夢じゃないってことで」
「も、もちろんいただきます……!」
「どうぞ、召し上がれ」
ネロが切り分けて出してくれたクレームキャラメルに、私は舞い上がらんばかりに喜びながらスプーンを入れる。そうっと慎重に口に運んだそれは、夢のように、天上の食べ物のように美味しかった。美味しくて美味しくて、涙が出てしまいそうなくらい。
「夢じゃなかった?」
ネロが悪戯っぽく笑いかける。私は噛みしめるように、何度も何度も頷いた。