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 そんなふうにして、ここ数か月にわたって私の身に降りかかり続けていた呪い騒動は、一応の幕引きを迎えた。
 父の友人である無精ひげの男性は、その後土着呪術の知識を持つもの同士ミスラさんと妙にウマがあってしまい、驚いたことにミスラさんの部屋に招かれた。本来魔法舎の中を部外者の人間が歩き回るのはどうかとも思うのだが、今回はミスラさんが他者と積極的な交流を持とうとしたことが衝撃的過ぎて、全体的にそちらの問題は忘れ去られ気味だった。
 夕方になってようやくミスラさんの部屋から出てきた彼は、へろへろになりながらも楽しそうで、「さすがに永く生きている魔法使いは、知識も資料の量も桁違いだなぁ」と感嘆の声を漏らしていた。よく分からないが、この世の中にはミスラさんと渡り合える人間もいるということなのだろう。不思議な光景ではあったものの、ミスラさんが無精ひげの男性と交流する姿というのはある種の感動を私に与えた。
 厄介なことこの上ない呪い騒動ではあったものの、恐らく彼は悪い人物ではないのだろう。魔法舎の魔法使いたちも賢者様も、最後にはなんとなく好意的に送り出してくれた。
「魔法舎から人間が笑顔で出ていくって、なんだかちょっといいですね」
 そう言って笑った賢者様の言葉が、それから暫く私の胸の中にあたたかな火となって灯り続けていた。

 その夜のこと。私は夜が更けるよりもほんの少しだけ早い時間に、ひとりネロの部屋へと向かっていた。
 今宵の魔法舎は夜でもどことなく騒がしい。廊下の窓から中庭をのぞくと、西の魔法使いたちと賢者様が何やら輪になって、花火のようなことをしているのが見えた。花火のようなこと、というのは、ただ色鮮やかに火が燃えているだけではなく、何か雪のような光のような小さな煌めきが、散ったり集まったりしながらあちこちを漂っているからだ。
「きれいだなぁ……」
 窓の向こうの光景に、思わず感嘆の溜息をついた。
 魔法使いたちが身体を揺らすのに合わせ、光の華がそこかしこに舞っている。魔法を使った花火は眩く派手で賑やかで、けれど今夜のような月のない晩には、その賑やかさが夜の寂しさをやわらげてくれていた。魔法舎に来たばかりの頃は遠巻きにしていたその賑わいも、今では私の日常の一部になっている。
 窓の外から視線を外し、私は廊下をゆっくりと進む。
 やがて目的地であるネロの部屋の前に着くと、私はドアの前でそっと、深呼吸を三度繰り返した。それからコンコン、とノックを二回。もう一度気持ちを落ち着けるほどの間もなく、すぐにドアは開いた。ネロはドアの前に立つ私を見ても驚いたふうもなく、「どうした?」と小さく笑っている。
「あの、今少しだけお話をしてもいいですか」
 用意してきた言葉だったのに、それでも緊張で声が震えた。羞恥で顔が熱くなる。自分の声に滲んだ気弱さに気付かないふりをして、私は精いっぱい何でもない顔をした。
 昼間は結局、あれきりネロとはろくに話ができなかった。仕事の上で必要な話はしたものの、それだけだ。ふたりきりになることもなかったために、突っ込んだ話はできなかった。
 どうして私を抱きしめてくれたのか。
 どうして赤くなったのか。
 その理由を、私はまだネロの口から聞いていない。
 ネロのことだから、もしかしたらドアの前で追い返されるかもしれないと、覚悟はしていた。しかし意外にも、ネロはすんなりと私を部屋の中に招き入れてくれた。
「どうぞ」
 今夜のネロは、どこか纏う空気がやわらかい。緊張しながらここまで来た私は、なんだか肩透かしのような気分になりながら、ゆっくりとネロに足を踏み入れた。

 少しだけ久しぶりの、ネロの部屋。相変わらず厨房とも居室ともつかないような造りの部屋は、以前に入った時と大きく何かが変わることもない。戸棚に並べられた色とりどりのスパイスや、使い込まれた調理用具。ネロにとっての大切なもの、大切にしたいものに囲まれた部屋。逆に言えば、料理をする以外のあらゆる機能をそぎ落とされた、一切の無駄がない部屋。
 この部屋の中で自分がどう振る舞うべきか、どこに身を置くべきか、私にはまだよく分からない。それでもこの、ネロのささやかな城に何度も招いてもらえるというだけで、私はひとつ、ネロに許されたような気持ちになる。
 そばにいることを、許されたような気持ちになる。
「そのへん、座ってくれ」
 椅子を勧められ、ふとテーブルの上に目を遣った。するとそこにはポットとカップの用意があり、今にもお茶会が始まりそうな支度が整えられている。
 ティーコゼーの掛けられたポットと、伏せられたカップ。カップは不揃いでも、ちゃんと二客、向かい合わせで用意されていた。
「もしかして誰かと約束がありましたか? 出直しましょうか?」
 もしもそうならば、誰かのために用意されたテーブルにつくのは気が引ける。用意されているのがお酒ではないから、来客はまだ年若い魔法使いたちのうちの誰かだろうか。
 私が椅子の隣に立ち、まごまごしていると、ネロがお茶請けの焼き菓子の皿をテーブルに置いた。そして、
「いいよ。ナマエのために用意したお茶だから」
 そう言って私の向かいに腰かける。
「あんたなら来るかなと思ってた。座ってくれ」
 やわらかく、しかしはっきりとそう言われ、私はぎくしゃくとぎこちない動作で、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
 私が来ると思っていたから、お茶の用意をして待っていた。ドアの前で追い払う気はなく、最初から私を部屋の中に招き入れるつもりでいた。つまり、ネロの方でも私と話をするつもりでいたということなのだろう。
 急に胸がどきどきと高鳴り始めて、一気に緊張が押し寄せる。一方で、もしも今夜私がネロの部屋を訪れなければ、ネロはどうするつもりだったのだろうかと、そんな疑問も胸に湧いた。
 お茶の準備をする手間ならば私も知っている。一緒にテーブルにつく相手のことを思い浮かべながらのその作業は、これから始まるお茶会への期待とともに、ほんの少しの不安を伴う。もしも相手が来なかったらと思うと、それが杞憂なのだと分かっていてすら、胸の端っこがぎゅっと潰れたように苦しくなる。
 ネロは多分、自分から私の部屋に来ることはしなかっただろう。もしも今夜私が来なければ、ネロは誰にも知られずお茶の用意を片づけて、そしてまた明日、素知らぬ顔で私に挨拶をしたに違いない。そう思うと、なんとなくネロが今どんな気持ちで、どんな心づもりでいるのかが、このお茶の準備から透けて見えるような気がした。
 ネロがカップに紅茶を注ぐ。
「ミルクと砂糖は?」
「今日はやめておきます」
「へえ、珍しいな」
 湯気の立つ紅茶は、口に含むと砂糖を入れなくてもほのかな甘味が感じられた。以前ネロの部屋で出してもらった紅茶とは違う。その心遣いに、またひとつ胸があたたかくなる。
 互いにひと口ずつ紅茶に口をつけたところで、訪ねてきた私の方から先に切り出すことにした。
「その、まずは今までのお礼を。色々とご迷惑をお掛けしてすみませんでした。お気遣いもたくさんしてもらって、本当にありがとうございました」
 座ったままで深々と頭を下げた。
 賢者様や双子、ファウストさんやカナリアさんなど、今日の午後はひたすらみんなに頭を下げ続けた半日だった。この呪い騒動に関しては、とにかく魔法舎内には迷惑を掛けていない相手がいないというほどの事態だったのだ。特にファウストさんとスノウ様、ホワイト様には一生頭が上がらない。
 そうして頭を下げ続け、今、ネロがその最後のひとりだった。私がもっとも迷惑をかけ、もっともお世話になり、そしてもっとも感謝している相手──それがネロだ。
 顔を上げると、ネロが眉尻を下げ、困ったような顔で私を見ていた。こうして真っ向から畏まって頭を下げられることを、ネロがそこはかとなく苦手としていることは知っている。それでも今回は、ちゃんと気持ちを示しておきたかった。
「本当に、ありがとうございました」
「いや、いいよ。ほとんどは俺がしたくて勝手にしてたことだし」
「でも本当に、ネロにはたくさん救われましたから……その、今回のことに限らず。ずっと、今までたくさん」
 しみじみとそう言えば、ネロが揶揄するように口角を上げた。
「なんだ? まるで此処からいなくなるみたいな物言いだな」
「いえ、そういうわけではないんですけど。ただ、一応けじめといいますか」
 一緒に暮らしているからこそ、なあなあに流してしまってはいけないのではないだろうか。一つひとつのことに区切りをつけてきちんとやっていかないと、ネロの優しさに頼りきりになってしまう。
 そんな私の心情が伝わっているかは分からない。伝わっていなくても、これは別に構わない。ネロはやわらかく目を細めた。
「真面目だな。──まあいいや。礼はちゃんと受け取っておく」
 そう前置きをした上で、ネロは言葉を続けた。
「ただ、さっきも言ったけど、俺がしたくてやってたことがほとんどだから、あんたは礼とか詫びとか、そういうことをあんまり考えないでほしい。そういうのを色々考えられると、むしろこっちもやりにくいからさ」
「それはなんというか──ネロらしいですね」
「まあ、うん」
 歯切れ悪く言って、ネロは口をつぐんだ。
 以前ネロが言っていた言葉を思い出す。お礼とか労いとか──そういう当たり前のことがなくなってしまったら、人間だろうが魔法使いだろうが、信用も信頼もできなくなってしまう。相手に敬意がなくては、関係を続けられはしない。
 ネロはいつでも、礼節を重んじる。軽やかで時には冗談めかした物言いに反して、本質は実直で誠実だ。
 私はネロのそういうところが好きだと思う。しかし多分、ネロは自分のそういうところを素直に認められてはいないのだろう。自分の美しい部分を、美徳としてそのまま受け容れることができない。だから冗談めかしてはぐらかしてしまうし、それを他人に押し付けたりもしない。そんなところが、却ってネロらしい。
 不器用で、遠回り。ネロの本心を覗くことはきっととても難しい。ネロ自身、本心を覗き込まれることを厭う。誰しもそういう部分はあるのだろうが、ネロは特にそれが顕著だ。
 なればこそ、私はこれまでネロの本心を知ろうとすることを避けてきた。知りたいと思いながら、踏み込みはしなかった。ネロが嫌がることはしたくなかった。
 それでも──今日は、今日だけは、踏み込もうと決めたのだ。
 そのために、この部屋までやってきた。
 もう一度紅茶のカップに口を付ける。折角出してくれたお茶請けの焼き菓子には、私もネロも手を付けていない。甘いもので口を誤魔化しては、いざというときに言葉の切っ先が鈍ってしまうような気がした。
 ドアの前でしたように、深呼吸を三回。
 それからようやく、私は本題を切り出した。
「それで、その……昼間のことなんですけれども」
 ネロが小さく息を呑む。その瞳に緊張が走ったのを私は見逃さなかった。それでも、動揺はしていないように見える。本腰を入れて話せるようにお茶の準備までして私を待ち構えていたことからしても、ネロはこの話題を避けるつもりはないようだ。
「その前に、俺の方から話してもいい?」
 やんわりと、ネロが私に尋ねた。私は頷く。
 私の仕草をまねるように、ネロは小さく深呼吸する。表情は固い。とてもではないが、楽しく希望のある話をするような表情ではなかった。私の胸中に、不穏な緊張が走る。
 数拍の間ののち、ネロは言った。
「当たり前のことだけど、俺は魔法使いで、あんたは人間、だよな」
「……そうですね」
 私はまた、静かに頷く。
 どきどきと、胸が嫌な騒ぎ方をする。
「俺はもう何百年も生きていて、ここでも一応、古い魔法使いの方に入るわけで……まあ、だから、ナマエに比べれば酸いも甘いも経験してきてるわけだ。酸いも甘いも、悪いことも、嫌なことも……それに、悲しいことも」
 たとえば死に別れる、とか。
 不意打ちのように紡がれたネロの不吉な言葉に、はっと心臓が凍りついたような気分になる。多分、衝撃が顔に出ていたのだろう。ネロは苦笑したが、それでも続けた。
「あんまり大きな声で言えた話じゃないけど、昔はそれなりに悪どい仲間とつるんでたこともある。結構危ない橋を何度も渡ったりして、それが楽しかった時期もあったけど……でも、得るものより失うものの方が多かったな。知り合いを見送ってきた数なんて、それこそ数えるのも嫌になるくらいだよ。敵も味方も、魔法使いも人間も」
 そう言って、ネロは私の目をじっと覗き込んだ。
 底が見えない深い色は、ネロの数百年にわたって抱え続けてきた孤独をうつしているようだ。
「ナマエだって、俺より先にいなくなる」
「……だから、嫌なんですか? その、親しくなることが」
 こんなことを聞いてもいいのか分からない。そのくらい、踏み込んだ話だった。
 どきどきしながら尋ねると、ネロはふっと笑みを零した。それはひどく寂しい笑い方だった。
「そうだな。どうせ近い将来見送らなきゃならない相手なら、むやみに親しくして情を移し過ぎるなんて、いたずらに自分の首を絞めるだけだから」
「近い将来……」
「魔法使いにとっては、人間の一生なんてそんなもんだよ」
 自嘲なのか、諦念なのか、それともまったく別の何かなのか。ネロがそのとき小さく笑った理由が、私には分からなかった。当然だ。私はまだ二十数年しか生きていない。近しい人間の死に立ち会ったことすらない。
 胸が、ぎゅうと痛んで苦しかった。
 ネロがどんな思いで今、こんな話を私にしているのかなど、想像すらできない自分がもどかしい。ネロがどれほどの傷を持っていて、どれほどのものを諦めてきたかなど分からない。そのことが、苦しい。
 果たしてネロは、これまでどれほどのものを手放してきたのだろう。どれだけの相手に、手放した先での幸福を願ってきたのだろう。私には分からない。結局はネロの持つ傷の数も深さも、何ひとつ、私には分からないのだ。
 また、線を引かれた。ネロはいつでも線を引く。
 自分が傷つかないように。相手を傷つけないように。もしも私が今ここで傷ついても、この線の先に踏み込みさえしなければ、これ以上傷つくことはない。ネロはその線を、きちんと私に示してくれる。
「それにさ、さっきも言ったけど俺は魔法使いだから。どのみち、俺があんたの気持ちに応えたところで、あんたのことを幸せにするなんて土台無理な話だ。な、分かるだろ?」

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