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 心底怖いと、ネロは言う。
 そのとき私の胸にわいたのは、罪悪感のようにきりきりとした、冷たくて鋭い感情だった。そんなふうにネロが思っていることに対し、どうしたって己への情けなさや不甲斐なさを感じてしまう。
 その一方で、ネロの言葉をどう受け止めるべきか悩み、心が揺れてもいた。他意などないと分かっているのに、浅はかな自分がその言葉の裏側を覗き込もうとしてしまう。何もない、そこには何もないのだと、自分であれほど言い聞かせてきたのに。
「あの、ネロ──」
 口の中には、スープに入っていた細かく刻まれた野菜の感触が、まだ残っていた。
 味を感じられない私のため、極力食べやすいように作ってくれているネロの手料理。わざわざ毎日私のために別に作り直してくれている料理が、どれだけの面倒をネロに掛けているのか知っている。けれど、今日までそれをやめてほしいと頼みなおせなかったのは、料理に向き合うネロの表情が真剣そのもので、鬼気迫っていたからだった。
 何か大きな感情が、ネロを突き動かしている。憑りつかれたようにすら見えるほどに、ネロを追い詰めている。それも多分、私のせいで。
 それなのに、私は。
「悪い。自分でも、なんかよく分かんなくなってんだ」
 ネロがやにわに立ち上がり、そのまま座る私のすぐそばまで歩み寄る。
 私を見下ろすネロは思いつめた表情で、じっと私を視界にとらえて離さない。まるでその場に縛り付けられたみたいに、私は身じろぎひとつできなかった。指先ひとつ、まばたきひとつすることもできず、呆然と目を見開いてネロを見つめ返す。
 心底怖いと、ネロは言う。
 私もそうだった。
 このままネロの料理に何の喜びも見いだせなくなるということが。ネロの料理を通じて、ほんの一筋ほどのつながりでも、ネロと繋がることができると思えなくなることが。
 ネロがもっとも雄弁に語る言葉にすら等しい料理を、食べられなくなることが。
 ──私だって、心底怖い。
 私を見下ろすネロが、薄くくちびるを開く。今まさにそこから紡がれようとしている言葉は多分、普段のネロの、選び抜き、吟味した末の言葉ではない。剥き出しで、感情的で、そして痛々しいほどに深い場所から掘り出された言葉。
 その声と瞳に吸い寄せられるように、私はもう、ネロから目が離せなくなる。耳がネロの発する音を聞き漏らすまいとしている。
 小さな息遣いの音すら、鮮明に聞き取れるほどに。

「俺は、俺の料理を本当に嬉しそうに食べるあんたのことが──」

「取り込み中すまないが、急用だ」
 張りつめた厨房の空気に、小さな風穴があいたようだった。その瞬間、私とネロは揃ってはっと我に返る。厨房の入口を見れば、ファウストさんがむっつりとした顔で立っていた。
 隣には、見知らぬ男性が落ち着きのない様子できょろきょろと辺りを見回している。まるで今にも怪物にでも食われるんじゃないかというほどに、その顔には怯えが浮かんでいる。
「ファウストさん!──と、そちらは……?」
「魔法舎の周りをうろついていた不審者だ。話を聞いてみたら、どうやら君に掛けられた呪いに一枚噛んでいそうなので、ここまで同行してもらった」
 私とネロは顔を見合わせる。同行というよりはむしろひっ捕らえてきたというような様子だが、ともかくファウストさんの言葉を信じるならば、彼は此度の事態の重要参考人ということになる。ほとんど何の手がかりもないこの現状において、唯一の希望の光。
 不審者を厨房に入れるわけにはいかないので、私たちはぞろぞろと食堂へと出た。そこで改めて、ファウストさんが連れてきた男性と向かい合う。
 ここで、目にする魔法使いたちとは一線を画す、中肉中背の何処にでもいそうな風貌。どちらかといえば、私の父と似たり寄ったりな雰囲気だろうか。身だしなみに気を付けていた父とは違い、無精ひげや襤褸にも似た服装が気にかかりはする。
 言っては悪いが、私があまり関わらないようにしてきたタイプの男性だ。本当に、私に掛けられた呪いと何か関係があるのだろうか。
 怪訝に思っていると、男性はしばし不躾な視線を私に向けた後、
「あんた、ミョウジの娘さんか……大きくなったなぁ……」
 急にしみじみとした調子でそう発した。呟くというにはあまりにも大きな声に、私は一瞬びくりとする。しかし彼が発した言葉を聞き流すわけにもいかない。彼は今、私のことを「ミョウジの娘」と呼んだ。
 ネロとファウストさんは黙って私たちの様子を見守っている。ふたりも当然彼が私を「ミョウジの娘」と呼んだことには気付いているだろう。しかし口を挟む気配はない。私が自分で聞くしかない。
「あの……あなたは私のことをご存知なんですか?」
 恐る恐る尋ねれば、無精ひげの彼はほんの一瞬、ふっと寂しそうに目を細めた。しかしすぐに笑顔になると、感慨深そうに何度も頷く。
「お前さんが覚えていないのも無理はない。なにせ私がお前さんと会ったのは、お前さんが生まれて間もない、まだほんの赤ん坊だった頃だからなぁ」
「その、失礼ですがあなたは私とどういった関係で」
「お前さんの父親の友人だよ。長らく世界中を旅していて、最近ようやく故郷である東の国に帰ったんだ。帰ってみて驚いたよ、聞けばお前さんの父親は牢に入れられているというじゃないか」
 そこで無精ひげの男性は、一度言葉を切り息をついた。父の投獄が余程ショックだったのだろうか。
 それでも、暫くすると彼はまた話を続けた。
「私はすぐさまお前さんの父親に連絡をとった。獄中とはいえ、手紙のやり取りくらいはできるからな。そして、やつから頼まれたんだ」
「何を」
「お前にまじないを掛けることを、だ」
 どきんと大きく心臓が跳ねた。
 まじない──呪い。
 それはつまり、罪の自白ということだろうか。
 そのわりに、彼からは悪びれた様子は一切感じられない。
「え、あの……それじゃあ、私を呪ったのは、父からの依頼で、ということですか……?」
 重ねて私が問うと、無精ひげの彼はとんでもないとばかりに目を見開いた。いちいち仕草が大げさで、あまり東の国の人間っぽくはない。異国を流離ったという経歴からだろうか。ネロもファウストさんも、不審げな視線を隠そうともしていない。
「呪い? 莫迦を言っちゃいけないよ。私がかけたのはまじないだ。けして悪いものではない」
「いやぁ……」
 ずっと黙っていたネロが、呆れたように呟いた。しかし、それも仕方がないことだ。ここ暫く私の身に降りかかっていた不思議な現象が呪いではなくまじないだったとしても、それを悪いものではないとは断じて言えない。それが実の父親からの依頼のうえだったというのなら、いよいよ私も泣きたくなってくる。
 何とも言えなくなってしまった私の代わりに、ネロが溜息をひとつ吐き、
「掛けたのが呪いかまじないかって話はひとまず置いておくにしても、だ。じゃあ何か? ここのところのナマエに降りかかってた異変は全部、あんたの仕業だったってことか? しかしあんた、どう見てもただの人間にしか見えないじゃないか」
「私は魔法使いではない。しかし多少の呪術のおぼえはあるし、異国でその土地の土着の術を学びもした。この大陸のものとは術の体系が異なるものだが、人間でも多少は扱えるんだ」
「なるほど、それで僕には理解できないような代物になっていたのか」
 ファウストさんが、心底うんざりしたように呟いた。
「魔法舎には結界も張ってある。おおかた異国の術とかいう胡乱なものを用いたせいで、結界を通過する際に術式が変質したのだろう。おまえが彼女にかけたまじないというのは、彼女の幸福を願うものだったんだろう?」
「その通りだ」
 無精ひげの男性は即答して、それから再び私と視線を合わせた。
 私の目を覗き込むその瞳は、けして邪悪な感情を映してはいない。おそらく、父に頼まれまじないをかけたというのも事実なのだろう。慈しむような優しさをたたえた瞳は、とても嘘を言っているようには見えなかった。
 ファウストさんに視線を遣る。彼もまた、浅く頷いた。ファウストさんの目から見ても、無精ひげの男性が嘘を言っているとは思えないのだろう。
 束の間、微妙な空気のままで沈黙が続く。
 私たちが誰も何も言わないので、仕方なしとでもいうように、無精ひげの男性がまた口を開いた。
「元々は東の国から術を掛けていたんだ。しかし所用で中央の国へ来た際、風のうわさで魔法使いたちのもとで働いている人間に呪いが掛けられていると聞いた。お前さんが魔法舎で働いていることは聞いていたから、もしやと思って……」
「ご明察だな。あんたのせいで彼女はここのところ不運続きで踏んだり蹴ったりだよ。おまけに今は味覚もなくしてる」
「そ、そんなことになっていたとは……」
 ファウストさんの嫌味に、無精ひげの男性が分かりやすく狼狽えた。その様子に、私ははたと、あることを思い出す。味覚を失くす数日前に父から送られてきた手紙。同封されていた硬貨を、私は父からの言いつけどおりに肌身離さず首から下げていた。手紙には異国の友人からもらった硬貨と書かれていたが、もしかして。
「あの、父から送られてきたこれも、もしかして何か関係がありますか?」
 服の下に下げていた硬貨を、襟からたぐって取り出す。私の体温で温まった硬貨を見て、無精ひげの男性は声を上げた。
「おお、そうだ。それを触媒にしてまじないをかけた。お前さんには肌身離さず持っていてもらう方がいいからな」
「君、そういう怪しげなものを持っているなら先に言いなさい」
 ファウストさんが呆れたように言う。
「す、すみません……まさか実の父親からの贈り物のせいでこんなことになっているとは思わず……」
 正直に言えばこの硬貨のこと自体、ほとんど忘れていたも同然なのだった。入浴時と就寝時に外す以外はほとんどずっと首から下げているせいで、そこにあるのが当たり前になってしまっている。取り立てて特徴もない硬貨だから、まさか呪いに関係しているとも思わなかった。
 ともあれ、ひとまずは一連の呪い騒動の原因が分かったのだ。
「しかし、まさかまじないが変質してしまっていたとは。すぐに解呪しよう」
 そう言って、無精ひげの彼は懐から何やら様々な小物を取り出す。解呪に必要なものなのだろうが、それを眺めるファウストさんとネロの視線は険しい。
 先程話を聞いた通り、彼が使うまじないはここの魔法使いたちが用いる魔法とはそもそもの体系が違うのだろう。私からすればどちらも同じ不思議の力だが、魔法使いにとっては、彼の用いるまじないの術は怪しく胡乱なものに見えるのかもしれない。
 床に並べた雑多な小物に向け、彼は何やらぶつぶつと呪文のようなものを唱える。魔法使いたちの呪文よりもずっと長く、まるで経典か何かを暗誦しているようだ。
 やがて小物がほんのりと淡く発光する。それと同時に、私が首から下げている硬貨が一瞬ちりっと熱くなった。
「あつっ!」
 思わず声を上げる。しかし、その熱もほんの一瞬のことだった。
 すぐに淡い光は散るように消え、その場には緊張をはらんだ静寂が落ちた。
 ぽたぽたと、男性の額から汗の粒が床に滑り落ちる。彼の瞳は憔悴したように揺れていた。疲弊しきっている。もともとが私と同じ人間だからか、まじないを使うのには相当の気力と体力を消耗するのかもしれない。
 ファウストさんが、どうだ? と問うようにこちらに視線を寄越した。
「ええっと……あまり、何かが変わったという実感はないんですが……」
「味覚はどうだ、ネロ」
 ファウストさんが、私ではなくネロに声を掛けた。ネロは弾かれたように急いで厨房に向かうと、すぐに私の食べかけのスープの皿を持って戻ってくる。騒動のせいですっかり冷めてしまったが、私のためにネロが作ってくれた特製のスープだった。
「い、いただきます……」
 食堂の椅子に腰かけて、物々しい空気の中でスプーンを持つ。緊張で心臓が潰れそうな気分になりながら、スープをひと口、口に運んだ。
「どうだ?」
「お……」
「お?」
「美味しいです……! 美味しい! ネロのご飯が、こ、こんなにも美味しい……っ!」
 わぁっと私は両手を上げ、ネロの方に向き直った。久し振りに味わったネロのスープは、とてつもなく優しい味わいに満ちていた。食べやすいようにとみじん切りにされた野菜はとろとろで、滋味に富んだ深くてまろやかな味がする。
 味覚がないからといって味付けに手を抜いているということもなく、優しい口当たりの後にはほんのわずかなスパイスが香る。味覚がなかったときに食べても刺激を感じなかった程度の味付けは、ネロの料理人としてのバランス感覚と繊細さの粋のようだ。
 紛れもなく、それは幸福の味だった。
「やっぱりネロのご飯、一番おいしいです! 味が分かるようになって本当に──」
 よかった、と。
 浮かれた私は、そう続けるつもりだったのに。
 それなのに、気がつけば勢いよくネロに抱きしめられていて、おかげでその言葉はどこかにすっかり飛んで行ってしまった。
 椅子に座ったままの姿勢で立っているネロに抱きしめられたものだから、腰が椅子から浮いてしまっている。ネロの髪が私の顔のまわりに触れた。スプーンを握ったままの手がこわばって、呼吸もなんだかうまくできなくて──
 何が何やら分からないまま、私はネロに抱きしめられていた。
「ね、ネロっ」
「よかった……まじで、本当によかった……」
 耳元で紡がれるネロの声は、安堵の溜息のようだった。私は言葉を発することもできず、はくはくとただ口を動かす。押し付けられたネロの胸は、先程からずっと、どきどきと大きく鳴り続けていた。
 一体、これはどういうことなのだろう。
 これはどういう状況なのだろう。
 ネロの腕の中で放心状態になっている私を現実に引き戻したのは、咳払いというにはあまりにも大きすぎる、ファウストさんの咳払いだった。
 ネロもようやく我に返ったのか、私の背に回していた腕をゆるりと解く。私はそのまますとんと椅子に腰を下ろした。突然のネロのハグに驚きすぎて、完全に腰が砕けてしまっていた。
 ファウストさんが、室内だというのに帽子を目深にかぶりなおす。そうして気まずげに私たちから視線をそらすと、
「とりあえず、解呪がうまくいったようで何よりだ。僕は賢者たちに報告してくる」
 早口にそう言って、食堂を出ていこうとする。その背中を、私は慌てて引き留めた。
「あっ、ファウストさん。報告でしたら私が──」
「君はそこにいた方がいいんじゃないか? その男から目を離すわけにもいかないだろう。それに、ネロの気持ちを汲むためにも君のためにも、食事をとった方がいい」
「は、はい……」
 きっぱりと言われ、私は大人しく頷いた。というより、よくよく考えれば今の私は腰が砕けてしまって立ち上がることすらままならないのだ。この状況で「私が行きます」と主張するのもおかしな話だ。
 ファウストさんは立ち去り際、ネロの方に一瞥寄越すと、
「ネロ、あまり自分らしくないことはしない方がいいぞ。後から消えたくなる」
 不穏なことこの上ない言葉を残していった。その言い方はもはや同情に近い。さらに言えば、まるでファウストさん自身、身に覚えがあることを口にするような、そんな苦々しさも感じられた。
 さすがにその言葉が何を指しての言葉なのかくらい、私でも容易に想像がつく。それと同時に、ファウストさんがこの場から立ち去りたがった理由も理解した。
 つまるところ、いたたまれないのだろう。この後、羞恥でダメージを食らうこと間違いなしのネロのそばにいるということが。
「ネロ、あの──」
「料理、作ってくる」
 遠慮がちに向けた私の言葉を遮って、ネロが言った。すでにネロは私に背を向けている。ネロがどんな顔をしているのかは、だから私からは確認のしようもない。
 しかし灰水色の髪の隙間からほんのわずかに見えたネロの耳は、驚くほどに真っ赤になっていた。
「まだ食べられるよな? 何が食べたい?」
「あ、あの、ネロが作ってくれるものなら何でも……」
「分かった」
 立ち去るネロの背中を、呆然と見送る。そんな私とネロの遣り取りを黙って見ていた無精ひげの彼は、やがてネロの姿が完全に厨房の中へと消えてしまってから、妙に躊躇いがちな様子で私に尋ねた。
「お前さんとあの青髪の青年は、そういう仲なのか?」
「ち、違うはずなんですけど……」
 もはや何が何だか分からなくなっている私は、自分のことなのにやたらと自信なさげに、そう答えるのがやっとだった。

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