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 幼児化のときにはその日の夜には元の姿に戻ったが、今回はどうもあの時のように一過性のものとはいかないようだった。私の味覚が戻らないまま三日が経ち、一週間が経ち、今日でついに半月を数えた。
 味覚がないというのは、思っていた以上に精神にくる。何せ私のここでの楽しみといえば、ネロの料理を毎食のように味わうことなのだ。その楽しみを取り上げられてしまっては、日々の暮らしの楽しみが半減しているも同然だ。
 とはいえ、それはあくまでも私の気持ちの問題。幼児化のときのように仕事に支障が出るというわけでもないので、落ち込みながらも何とか日々の仕事はこなしている。味覚がないことは小間使いの仕事には何ら差し障るところがない。だんだんと砂や泥を飲み下すような食生活にも慣れつつあり、それは寂しく侘しく、味気ない食事ではあったが、心身に不調を来すほどのことではなかった。
 というよりも、この頃の私は自分の味覚が戻らないこと以上に、気がかりなことができていた。

 ある日の晩、私は賢者様のお部屋にお邪魔して、賢者様と一緒に女性向けの本を読んでいた。味覚を失ったばかりの頃には賢者様と少し距離を置くようにしていたが、その後特に何かが起こるということもない。賢者様からも「数少ない同性の友達に距離を置かれるのは寂しい」と言っていただいたので、こうして交流を再開した。賢者様はまだこの世界の文字の読み書きには不慣れなため、以前よりこうして時々、寝る前に一緒に流行りの本を読んだりしていたのだ。
 読みたかった本を最後まで読み終えると、私は壁の時計に目を遣った。もうじき日付が変わる頃だ。賢者様も先程から眠たそうに欠伸を噛み殺している。
 そろそろお暇する時間ではある。しかし今日の私には賢者様にどうしても話したい話があった。それは昼間、人目につくところではどうにも話しにくい話題だったため、こうしてふたりきりになれる時をひそかに私は待っていたのだ。
 逡巡のすえ、私は賢者様におずおずと話を切り出した。
「賢者様。なんだかここのところ、ネロの元気がないですよね……?」
 伸びをしていた賢者様が、はっとした顔つきで私を見る。先程までの眠たげな表情から一変して、賢者様は“賢者”の表情になると、
「そうですね……」
 と神妙な様子で頷いた。やはり賢者様の目から見てもネロは落ち込んで見えるのだ。自分の感覚が当たっていたことにほっとしながら、私は最近のネロの様子を思い返した。
 元々ネロはテンションが高いわけでもなければ、感情がそのまま表に出やすいタイプでもない。数百年生きている魔法使いだけあって、感情のコントロールも相当に上手い。気持ちの上下を自分でうまく調整できるというか、何か嫌なことがあったり腹立たしいことがあったとしても、自分の感情を宥めすかすことがうまい。そういう印象が強い。
 しかしこの頃は、あからさまに落ち込んでいる日が目立つ。もちろん、誰かに心配してほしいから、というわけではないのだろう。どちらかといえば、あまり話しかけてほしくなさそうな、閉じた気の落とし方だ。だからこそ、気になる。迂闊に触れない方がいいことが分かるから、心配になってしまう。
 私でなくても、ブラッドリーだとか賢者様だとか、あるいはファウストさんだとか、とにかく誰かがその閉じた心を慰めてくれているのであれば、ひとまずはそれで私は安心できる。しかしこの雰囲気では、賢者様もまだそこに踏み込めてはいないのだろう。ブラッドリーは分からないが、恐らくファウストさんも踏み込んではいない。
「やっぱり私がネロの料理を美味しく食べられないのが原因なんですかね……? ネロはプライドを持って料理人の仕事をしていますから」
 きっと、自分の作ったものを美味しくなさそうに食べられるのは、ネロにとっては想像以上につらいことなのだ。私も私でできるだけ美味しそうに食べているつもりではあるのだが、相手はネロ、百戦錬磨の料理人だ。私のフリなど、きっとバレてしまっているに違いない。
 もちろん、ほかに何かネロが落ち込む原因があるのかもしれない。私のせいだと思うこと自体が私の自意識過剰なら、それはそれでいい。しかしもしも私のせいなのだとしたら、これほどまでに心苦しいこともない。
「どうしたらいいんでしょう……」
 ほとほと困り果てて呟けば、賢者様は眉尻を下げて困ったように笑った。
「ネロのこともそうですけど、そう言うナマエさんだって、いつもより元気なく見えますよ」
 賢者様がそっと私の手をとった。
 やわらかくあたたかな手のひらだが、以前に比べるとその手はどこかしっかりとしている気がする。賢者様がこの世界にやってきて数か月。私などは想像もできないほどの経験をたくさんなさった賢者様は、多分“賢者”の肩書にたがわないだけの様々な人やモノを見て、感じているのだろう。
 その手に触れられていると、遠い昔、母に手を握ってもらい眠った風邪の日を思い出した。ほとんど年の変わらない賢者様にこんなことを思うなんて、自分でもどうかしていると思うのだが、それでも。
「私でよければ、話を聞きますよ」
 賢者様の声に、私はぎゅっと唇を引き結ぶ。
 以前にもこんなことがあった。あの頃の私はネロへの気持ちを理解しあぐね、感情を持て余していた。私の中の気持ちに「恋」と名前をつけてくれたのは、他の誰でもない賢者様だった。
「ネロの料理を美味しく食べられないことが、思ったよりもずっとつらくて……」
 吐き出すようにそう言えば、賢者様は何もかも承知しているというような、やさしい眼差しでただ頷いた。
「匂いは分かるし、目でも分かるし……絶対美味しいってことは分かるんです。ネロの料理の美味しさは、なんというか身に染みてよく知っていますから。それなのに、肝心の味が分からなくて……それで、だから……食べることが、苦しいです。落胆したようなネロの顔を食事のたびに見るのもつらいですし……」
 これまでも何度もネロに迷惑を掛けてはきたが、それでもネロを落胆させたことは多分、なかった。
 味のしない食事を飲み込むだけの作業をするとき、ネロが落ち込む姿が脳裏をよぎる、たとえその場にネロがいなくても、ネロがどんな思いをするのかを想像してしまう。だから余計に、苦しい。
「呪いが解けるまで、一時的にでもネロの料理を断ってみるというのはどうですか?」
 賢者様の提案に、私はゆるりと首を横に振る。
「私もそれは提案したんですけど、ネロに断られてしまって」
「厨房を任されている料理人として、そこはプライドがあるのかもしれないですね」
「はい……」
 食事を出してくれるネロの気持ちも、まったく分からないでもない。多分賢者様が言うように、プライドがあるのだろう。
 それにネロは、私が料理を苦手としていることを知っている。ただでさえ料理が不得手な私だというのに、今は味覚すらもないのだ。そんな人間に自分の食べる分の料理をさせれば、栄養も何も考えない、適当なものばかり口にするだろうことはネロでなくても分かる。
 厨房をあずかる者として、魔法舎では味も栄養価も非の打ちどころのない料理を出すことを、ネロは公言せずとも実行している。私の行いは多分、ネロのそうした主義に反するものなのだ。
 とはいえ、こんな状況だ。ある程度の妥協は仕方がないとも思う。
「でも、さっきも言いましたけどここのところのネロは元気がないですし、私のせいでその元気のなさに拍車を掛けてしまうのも嫌なので、もう一度ネロには話をしてみようと思います」
 たとえば自分できちんとした料理を作るだとか。それが簡単なことではないことは承知しているが、ネロに嫌な思いをさせないためには、自分で頑張るしかないのかもしれない。仕事もあるから毎食自炊は難しいだろうが、せめて一食、できれば二食は自力でどうにかしたいところだ。
 私の決意に、賢者様は小さく頷いた。心配そうな表情は、ネロの様子を気遣っているのだろう。近く、賢者様からもネロに何かしらのフォローをしていただけるかもしれない。
「ナマエさん、何か困ったことがあったら言ってくださいね」
「お気遣いありがとうございます、賢者様。今夜はもうお暇しますね。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
 賢者様の部屋を出ると、私はまっすぐに自室に向かった。眠る前に、フィガロ先生にいただいたハーブを焚く。そのおかげかは分からないが、その晩は夢も見ないほど、ぐっすりと深く深く眠った。

 ★

 翌日、なかなかネロに話をする時間も取れないまま、気付けばお昼の時間になってしまった。すでに魔法使いの皆さんは食事を終えており、私が最後のひとりだ。
 ネロが用意してくれたスープを、食堂ではなく厨房のスツールに腰掛け、作業台でささっと飲み下す。すぐそばには、じっと私の食事風景を睨むネロ。カナリアさんは所用のため席を外している。厨房の中には私とネロのふたりきりだった。
 先程から、食事中とは思えないほどに空気が重い。ネロは疲れた顔をしていて、それでもじっと食い入るように私を見つめていた。その様はまるで、何かに憑りつかれているようだ。正直、気が散って食事どころではない。
 それに何より、ネロのそういう顔を見ながら食事をするのは、やはりつらい。
「あの、ネロ……」
 おそるおそる声を掛けると、ネロはどろんとした目をこちらに向けた。それだけでもう、胸がずんと重くなる。作業台に頬杖ついて私を見ていたネロは、「なに?」と低く答えた。
「やっぱりもう、私の分の食事はつくってもらわなくても……」
「俺の飯はもう食べたくない?」
「いえ! それだけはあり得ないんですけども!」
 そんなはずはない。それだけは、何があってもあり得ない。
 大慌てで否定すると、ネロはようやく表情をゆるめた。しかし疲れた笑顔は、却って痛ましい。
「そうだよな。あんたが俺の飯食べたくないってことはないか」
「はい……本当に、それだけはあり得ないんですけども、でも……」
「分かってるよ。俺に対して申し訳ないんだろ?」
 ネロの乾いた声に、私は遠慮がちに頷いた。ネロの様子を見ていると、どの問いに肯定を示すべきなのか、それすらにも細心の注意を払わなければならないと思う。そのくらい、今のネロはぐらぐらとして不安定に見えた。
 しかし、一体何がネロをここまでぐらつかせているのだろう。料理人の矜持というのは、これほどまでにネロを不安定にさせるものなのだろうか。数百年も生きていて、感情を御することがこんなにも上手いネロなのに。こう言っては何だが、たかがひとりの人間が料理を味わえなくなったくらいで。
「あの、ネロ──」
 何を言えばいいのかも分からない。それでも、何かを言った方がいい気がした。
 苦し紛れに名前を呼ぶ。ネロは一瞬何か言いかけて、けれどすぐに口を閉ざした。両手で顔を覆って溜息をつく姿は、ネロの部屋でひと晩を過ごした次の朝、私が部屋を出ていく刹那に見せた姿とよく似ている。
 私の知らないネロの顔が、きっとそこにはあるのだろう。それが今、ネロが弱っているせいで顔を出しそうになっている。そのことに気付いた途端、胸の中で突風が吹き抜けたように、何かが荒らされたような気分になった。
 ネロ──と。もう一度名前を呼ぼうと口を開いたのと同時に、ネロが大きく溜息をついた。その大きな溜息に妙に驚いてしまったせいで、喉元まで上がってきていたネロの名前を、私はごくりと飲み込む。
 束の間訪れた沈黙ののち、ネロが溜息まじりに呟いた。
「悪い。なんか、自分でもおかしいと思ってるんだけどさ」
 そう言って、ネロはようやく顔を覆っていた手を外した。その手を作業台の上に置き、視線を私にまっすぐ寄越す。胸がざわりと、また荒れる。ネロの青みがかった琥珀の瞳が、射貫くように私を見つめていた。
「ネロ……?」
「自分で思ってた以上に俺は多分、あんたが俺のつくった料理を喜んで食べてるのを見てるのが、好きなんだよ」
 思いがけず飛び出した「好き」という言葉に、私の心臓がびくりと跳ねる。もちろん、頭ではそんな文脈でないことは分かっている。それなのに、何故だかその「好き」は、これまでネロが口にしたどんな「好き」とも、まったく響きが違っているように聞こえた。
 ああ、そうだ。
 その「好き」の響きは、私の知っている「好き」と、よく似ている。
「当事者であるナマエを差し置いて何をって感じだけどさ。このままあんたがそのままだったら、二度と俺の料理を食べても何も感じないようになったらって思うと、な。それはなんつーか──心底、怖いよ」

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