39

 フィガロ先生の部屋を出て食堂に下りていくと、すでに夕食を食べにきた魔法使いたちのうち、第一陣の片づけはあらかた終わったところだった。まだ西や北の面々はやってきていないから、完全にネロが店じまいできるわけではない。とはいえあとは各自ぽつりぽつりと食事を摂りにくるくらいだ。カナリアさんの姿が見えないのも、仕事を上がる前の最終チェックに出てしまったのだろう。
 ネロはひとり、黙々とテーブルを拭いていた。いつもと比べると、やはり心ここにあらずといった雰囲気だ。料理のことに関してはどこまでも真摯でストイックなネロにしては珍しい。
 ネロの“料理”に含まれる領域は相当に広い。調理全般はもちろんのこと、テーブルの装飾や厨房の物の配置に至るまで、とかく食事にまつわることに関してネロは一切の妥協を許さない。
 そのネロが、ぼんやりとテーブルを拭いている。これは相当な異常事態だった。
「ネロ」
 そばまで近寄り声を掛けると、ネロはようやく私の存在に気付いたようだった。どこか覇気のない顔をこちらに向け、「ああ」と気のない返事を小さく発する。もっともネロの顔に覇気がみなぎっているところは見たことがないのだが、いつも以上に気力が足りていない感じは、見ているこちらがどきりとしてしまうほどだ。
 掃除の手を止め、ネロは布巾をテーブルに置く。
「おかえり。フィガロは何だって?」
「やっぱり身体に異常はないそうです。気持ちが落ち着くハーブを出してもらいました」
「ハーブか……」
「味は分からなくても、においは分かるだろうって」
 お借りした香皿とハーブは、食堂に戻る前に自室に立ち寄り置いてきた。このところは賢者様の部屋で寝起きをしていたが、こうなるとあまり賢者様に近寄りすぎるのもよくない気がする。何せ、私のような取り替えのきく人間と違い、異世界から招かれた賢者様は現在この世にただおひとりなのだ。今夜からは賢者様の部屋を引き上げて、また自室に戻るつもりだった。
「それから、ファウストさんにも呪い返しの術を掛けてもらいました」
 これは部屋を出る間際、フィガロ先生が思い付いたことだ。これまではファウストさんにお借りしたマナ石の欠片だけで対応していたが、そろそろ本腰を入れて対策を打つべきだ、とフィガロ先生が言ったのだ。
「呪い返しか。もっと早くかけてもらえばよかったのに」
 ネロがぼやく。するとすぐそばから不意に、
「相手が分からない以上はむやみに跳ね返すのもよくないだろう。手がかりがなくなる」
 私の声ではない反論が、むっとした調子で飛んできた。見るとフィガロ先生との話を終えたのか、ちょうどファウストさんが食堂に入ってきたところだった。
 ファウストさんは私とネロの顔を交互に見たあと、今度はネロの顔をもの言いたげに見つめる。色眼鏡を掛けているためか、それとも元の表情が陰鬱な雰囲気だからなのか、ファウストさんはネロとは別の意味で表情を窺いにくい。特にファウストさんは言葉数も多い方ではないから、どうにも機嫌や考えていることを想像しにくいのだ。
 ただ、むすりとはしていても、雰囲気までもが刺々しいわけではない。ネロのぼやきに苛立っているというよりも、むしろこれほど近づくまでファウストさんが食堂に入ってきたことに気が付かない、ネロの視野狭窄に思うところがあるように見えた。
「……食べそびれた食事をもらおうと思ってきたんだが──ネロ。きみ、ひどい顔をしているな」
 私が言えなかったことを、ファウストさんはさらりと言う。
「そうか?」
「後で鏡を見てみるといい。それより、何か食べるものはあるか」
「ああ、ちょっと待ってな。夕食の残りを温めなおしてやるよ」
 ネロが厨房へ入っていくのを見て、慌てて私も後ろから追いかけた。ついでにネロが机の上に置きっぱなしにしていた布巾も片づける。食事前のテーブルに布巾を置きっぱなしにするなど、普段のネロならば絶対にしないのに。
「あの、ネロ。あとで私も食事をいただいてもいいですか?」
 ネロの背に向かって声を掛けると、ネロがくるりとこちらを振り返る。
「そう言っても、あんた今、味分かんないんだろ」
「それでも、お腹はすきますよ」
 現にお腹はぐうぐう鳴っている。味覚がないと物を食べにくくはあるが、食べられないというわけでもない。何か残りがあればそれをもらうつもりだった。
 ネロは束の間、何か思案するように黙る。が、やがて小さく細く息を吐くと、
「じゃあ、何か飲み込みやすいものを用意するよ。味が分からないのに口当たりが悪いものは飲み込みにくいだろうから」
 そう言ってぎこちなく笑んだ。
「ありがとうございます、お手数おかけしてすみません」
 本当はネロが絶賛する雉料理を食べたかったのだが、こうなっては仕方がない。折角の雉も、味が分からないのであればただ飲み込みにくいだけの肉のかたまりだ。
 ネロが私の分の食事を作ってくれるということで、ファウストさんの分のクリーム煮を温めるのは私が代わることにした。コンロにかけた鍋の様子を確認しながら、我知らず溜息をつく。残りの食材を確認していたネロが、私の溜息に気付く。視線が合うと、ネロは私を哀れむように苦笑した。
「そんなに雉が食べたかった?」
「それはまあ……だって、なかなか食べる機会もないじゃないですか。おまけにネロが絶賛するほどですし……」
 味覚が失われるとなると、何かと困ることもあるのだろう。しかし今は、目先の雉料理だ。ネロの料理ならば何でも食べたい私にとって、今のようにネロの料理なのに食べられないという事態は悔しくてならない。
「ブランシェット領ならあんたの母親も今暮らしてるんだろ? そのうちまた食べる機会もあるさ」
「そうかもしれないですけど……。その時はまたネロが調理してくれますか?」
「いいよ。腕によりをかけて美味い料理をつくってやるよ」
「それなら、今は我慢します……」
 そうは言っても口から溜息がこぼれるのは止められず。そんな私を見てネロは、同情するような、料理を誉められて喜んでいるような、何とも複雑な顔をしていたのだった。

 ★

 ファウストさんが食事を終えたころ、ネロが私の分の夕食を出してくれた。
 対面に座るネロは、緊張した面持ちで私のことをじっと見つめている。
「麺とかの方がよかったら次からはそうするけど、とりあえず見た目と香りがよくて、なんとなくつるっといけそうなものってことで」
 そう言って出してくれたのは、細かく刻んだ具材をゼリー寄せにしたアスピックだった。少し前に魔法舎で季節の料理として流行ったものだ。
「私のためにこんな手間のかかりそうなものを……すみません……」
「いや、そう面倒ではないよ。ただ、急ぎだったから主義に反して冷やす作業に魔法使ったのだけが気がかりだけど」
「重ね重ねすみません……」
 ネロが料理に掛ける情熱を思えば、自分のせいで彼の主義に反することをさせたというだけで、相当に気が重くなる。
「謝らなくてもいいから、とりあえず食べてみてくれ。こういうもんで良さそうなら、明日以降もそうするよ」
 急かすように言われ、アスピックにスプーンを入れた。口触りはつるりとしていて、こってりと脂っぽかったりしない分だけ食べやすくはある。
 しかし──
「……うーん」
 口の中の料理を飲み下し、私は唸った。鼻に抜ける香りからして、美味しいのだということは分かる。分かるのだが、やはり舌が何も感じないのでどうにもならない。つるりとした食感の中に混ざる肉や野菜がよくないのだろうか。ころころとした物体が混入した、無味のゼリーという感じになってしまっている。
「やっぱり食べにくいか?」
「そうですね。味気ないって、こういうことなのかぁという感じです」
 食べられなくはない。嚥下機能に問題はないから、飲み込むこともできる。ただ味がないというだけだ。目に鮮やかな料理を作ってもらっている分だけ、視覚からの補正もあって食べやすくなっているとも思う。
 しかしネロの料理を万全に、余すところなく味わうというのが私の食事の楽しみなのだ。もっとも肝心な味が分からないなんて、苦痛どころの話ではない。
「ネロの料理を、美味しく食べられないのはつらいな……」
 深々と溜息をつくと、ネロもまた、疲れきった溜息を吐き出した。試行錯誤のすえ、料理に魔法を使わないという主義まで侵して作ってくれたものに対し、つらいなどと言われればそういう顔にもなる。私は慌てて言葉を足した。
「でも、本当に見た目もきれいで見てるだけで楽しいですよ。匂いは分かるから野菜やブイヨンの香りは分かりますし、何より飲み込みやすいですし!」
「でもなぁ、味が分からないことにはさ」
「そう、ですけど……」
「食事が作業みたいになるのは、やっぱ悲しいものがあるだろ。お互いに」
「でも、本当に、絶対美味しいっていうことは分かるので……」
 だんだんとフォローも苦しくなってきて、結局は「その、すみません……」と謝るところに終着した。何を言ったところで、味が分からないという事実は変わりないのだ。
 がくりと肩を落とし、アスピックを飲み込む作業に戻る。ネロが苦笑した。
「悪い。あんたが今一番困ってるのに、あんたに言っても仕方ないな。はやく呪いが解けるか、ファウストがどうにかしてくれるのを待つしかない」
「そうですね。スノウ様やホワイト様も、古い文献なんかをあたってくださってるようなんですけど」
「前例がないっていうのはなぁ……」
「そうなんですよね」
 八方ふさがりの状況に、溜息をつくくらいしかすることがなかった。
 魔法舎には古今東西のあらゆる魔法の書が蒐集されている。誰が集めたものなのかまでは分からないが、長い歴史の中で歴代の賢者の魔法使いたちがそれぞれ持ち込み、置き去りにしていったものも含まれているらしく、中には相当貴重な書物もあるそうだ。
 スノウ様とホワイト様の魔法使いとしての多大な経験と、古くから記されてきた魔法書。それらを総動員して呪いの究明にあたっているというのに、解決策はいっこうに見つからないのが現状だという。
 束の間、ふたりきりの食堂に重い沈黙が落ちる。ネロはむっつりと眉根を寄せ、私がアスピックを咀嚼するのをじっと睨んでいる。いや、多分睨んでいるつもりはないのだろう。それどころか、私の方を見ているという意識すらないのかもしれない。
 しかし、現にネロの目はこちらを向いている。
 ネロに対して申し訳ない食べ方をしているという罪悪感がある手前、そうまじまじと見られると食べにくいことこの上ない。
「あの、ネロ……そんなにこっちを見られると、その言いにくいんですけど、緊張して余計に食べ物が喉を通らないというか……」
「ああ、悪い。そういうつもりじゃなかった」
「いえ、あの、はい」
 しどろもどろになりながら、よく分からない返事をした。気まずい気持ちになりながら、恐々とネロの表情を窺う。しかしそっと向けた視線は、すぐにネロに気付かれた。
「とりあえず、ナマエの分の食事はスープとか、そういうのものにしておくよ」
 そう言って、ネロは椅子から腰を上げる。そろそろ西の魔法使いたちが一人また一人と食堂に現れる頃だった。
「あ、ネロの手を煩わせるのも何ですし、自分で食事くらいつくりますよ」
「いや、あんたは料理はそんなに得意じゃないだろ」
「そうですけど、正直今のこの味覚だったら誰がつくったものでも同じというか……」
 というか、折角ネロが作ってくれたものを、美味しいと思えないことは嫌だった。ともすれば、味覚がないということそのものよりも、ネロの料理を食べているのに幸福を感じられないということの方が、私にとっては余程つらいかもしれない。
 しかし流石にそこまで口にするのも恥ずかしい。私はもごもごと吃った末に、結局その言葉を飲み込んだ。ネロもまた何か言いかけて、けれどもそれを飲み込んだ。
 代わりに苦い笑顔を浮かべると、
「……いいよ。俺がつくりたいからつくるだけだ。気にせず食べてくれ」
 そう言って、私の肩を励ますように叩く。
「そうですか? そう言っていただけるなら、お願いします」
 ネロにそこまで言ってもらっては、私に断ることなどできようはずもない。小さく頭を下げたところで、クロエとラスティカが食堂に入ってきた。
 ネロとの会話はそれきりになった。厨房に戻っていくネロの広い背中を見て、私はまたひっそりと溜息をついたのだった。

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