38

 季節が変わった。中央の国と東の国ではそう大きく気候が違うということもないが、季節の変わり目のように自然のにおいが濃くなると、やはりここは私にとっては異国の地なのだなという感慨が深くなる。
 風のにおいも水の味も、雲の形も違う。それでも、ここでの生活にもとうに慣れ、だんだんと東の国の空気や水を、忘れつつある今日この頃。
 その日私は、夕食の準備のため厨房に立つネロの隣で、小皿を持って待機していた。領地に戻っていたヒースクリフ様が、ブランシェットのお城のすぐそばの狩場から上等なきじを何羽か、お土産に持ち帰ってくださったのだ。私はその味見役として、厨房の片づけがてら呼ばれたのだった。
 夕方の厨房には橙色の陽が斜めに差し込んでいる。ネロの印象はどちらかというと寒色だが、こうしてあたたかな光に照らされていると、まるで彼の持つあたたかさと同じ色の光に包まれているようだった。
「それにしてと、雉なんて捌くの久々だったが、まあなかなかだな」
 ことことと鍋の中身を煮込みながら、満足そうにネロが言う。
「さすがですね……」
「まあ、大抵のものはな。それに俺の腕っていうより、これはヒースの土産が相当上物だっただけだな。さすが、城主の息子だよ。雉って結構身が固い記憶があったんだけど、これはほら、身がしまってはいるけど固いって感じではないし。というかむしろ柔らかい。野生でこれなんだもんなぁ。あの辺りは環境がいいけど、やっぱ雉の餌になる木の実とかの問題なのかな。そもそも雉が何食べるのかなんてよく知らねえけど」
 料理のことを話すとき、ネロは概して饒舌になる。楽しそうなネロの話は聞いていて楽しい。ふんふんと相槌を打ちながら聞いていると、ネロが小皿に小さな肉の欠片を載せてくれた。
「モモ肉のクリーム煮」
「なんと贅沢なかおり……いただきます」
 と、肉を口に放り込んだ瞬間。
「ん……?」
 口の中に違和感を感じながら、私はもそもそと肉を咀嚼した。なんだろう、まさかネロの料理に限って美味しくないはずはないのだが、しかしこれは──
 ためしに小皿に残っていたクリームもすくって飲んでみる。やはり、同じだった。
 おかしなことだが、味というものが、まったく感じられない。
「ネロ、言いにくいんですけど……なんだか味が変じゃないですか?」
 私の言葉に、ネロが怪訝な顔をする。鍋からは美味しそうなにおいがしているし、見た目も完全に美味しそうなクリーム煮だった。それなのに、味だけがおかしい。
「え、まじか。どれどれ」
 ネロも小皿にクリーム煮をすくい、それを口に運ぶ。そしてやはり、怪訝な顔をして言った。
「……普通に美味いと思うけど」
「えっ、でも……」
 ネロと、目と目を見合わせる。
 ネロの舌がおかしいのか、私の舌がおかしいのか。料理人のネロにとって、舌は大切な商売道具だ。その調子が悪いとなると、さすがに笑い話では済まされない。
 鍋の中からはやはり美味しそうなにおいが漂ってくる。ネロは私がネロの料理の大ファンであることをよく知っているから、単に味が好みではなかったとか、あるいは悪戯で私がそんなことを言うはずがないことをよく知っている。
「とりあえず、もう一口味見してみるか……?」
「そうしますか?」
 互いになんだか気まずい空気の中、もう一度小皿にクリーム煮をよそったところで、食堂の方から話し声が聞こえてきた。声の主はリケと賢者様だ。夕食の時間が近いので、一緒に食堂にやってきたらしい。
「おおーい、リケ。ちょっと来てくれるか」
 厨房から、食堂に向けてネロが声を飛ばす。リケはすぐにひょこりと顔を覗かせた。
「ネロ。どうしたんですか?」
「ちょっとこのクリーム煮を味見してみてくれないか?」
「いいんですか?」
「ひと口だけな。あ、賢者さんも丁度いいところに。あんたも味見してみてくれ」
 そう言うと、ネロはやってきたリケと賢者様にもクリーム煮を少しずつ振る舞った。ふたりは不思議そうな顔をしながらも、ネロに頼まれるままに味見をする。
「どうだ?」
「美味しいですよ?」
「クリーム煮という料理なのですか? 僕、これ好きです」
「そりゃよかった。じゃあ夕飯のときにはおかわりがいらないくらい、リケの皿にはいっぱいよそっておいてやるよ。それより──」
 ネロはふたたび私の方を向く。四人の人間が同じ鍋でつくった同じ料理の味見をして、うち私ひとりだけが味がおかしいのだと感じる。料理をつくったネロ本人は、料理の手順でおかしなところはなかったというに違いない。素人ではあるが、私も横で見ていたから間違いない。
 これはどう考えても、おかしいのは私の舌の方だ。
「どう変だと思ったんだ? 言ってみな」
「そ、その……」
 ネロの険しい視線は、私を咎めるためのものではないということは分かっている。それでも、やはり言いにくかった。
「味がまったく、感じられなくて……」
 私の返事に、ネロが息を呑むのが分かった。
 いつもは美味しいネロの料理が、弾力のある石と泥のようにしか感じられなかった。

 ★

「うーん……これといって身体的な問題があるようには見えないんだけど」
 ひと通り診察をしてくれたフィガロ先生は、そう言って首を傾げた。
 あの後、ちょうど夕食時だったこともあり、何人かの魔法使いが立て続けに食堂にやってきた。そこにたまたまフィガロ先生がいたので、頼んで簡単な診察をしてもらったのだった。味覚がないというと、真っ先に考えられるのは何かしらの病気だ。風邪など引くと、味がよく分からなくなることがある。
「健康そのものって感じだよ」
「味覚を感じないって言うのは十分に問題じゃないのか」
 フィガロ先生の見立てに、居合わせたファウストさんが異を唱える。
「そうだけど、それが医学的な問題によって起こっているのでは無さそうってこと。そっちはどう?」
「呪いの残渣がかすかに感じ取れる。恐らく、いつものやつだろう」
 ファウストさんが溜息をつき、私もまた「いつものやつって……」と項垂れた。たしかにまあ、いつものやつではあるのだが、こうも度々呪い騒動を引き起こしていては、そろそろ本当に魔法舎から追い出されかねない勢いだ。
 ほかの魔法使いたちも、神妙な顔をして私たちを囲んでいる。今この場に居合わせているのは、先ほど厨房にいたネロとリケ、それに賢者様の他にはアーサー殿下とカイン、そしてカナリアさんだ。こう見ると、中央の魔法使いたちが規則正しい生活をしていることがよく分かる。
「味覚が失われた以外には問題はなさそうか?」
 アーサー殿下に声を掛けられ、思わず椅子に座ったままで姿勢を正した。殿下は中央の王城に顔を出している日の方が多く、あまりお話する機会もない。もとより私のような庶民が軽々に声を掛けてもいいような方ではない。
 緊張で顔がこわばるのを感じながら、私はアーサー殿下の質問に頷いた。
「はい……身体もすこぶる元気ですし……何ならここ数日感じていた肩こりが軽減されたような」
「なるほど、つまり健康な身体を手に入れたということか……」
「いや、味覚が失われてるんだから健康ではないんじゃないですか」
 カインにそう突っ込まれ、殿下は「たしかに」と頷いた。アーサー殿下は少し、というかわりと大いに不思議なところがある。凛々しいお顔立ちの中に浮かべるそうしたやわらかな雰囲気は、カナリアさんによると城内の女性たちから絶大な人気を誇っているらしい。
 その端正なかんばせを、殿下は頼るようにフィガロ先生へと向けた。フィガロ先生はこの中では年長者であり、また医師でもある。殿下は最終的な判断をフィガロ先生に求めることにしたらしい。
 一国の王子から無言の指名を受けても、フィガロ先生はまったく動じない。いつものつかみどころのない飄飄とした態度で私の顔を覗き込み、
「ひとまず、一度俺の部屋に行こう。もう少しきちんと診たいし、ここで衆人環視のなかっていうのは、ナマエも居心地が悪いだろ?」
 そう提案した。私に異存があるはずはない。強いて言えば夕食時なのでお腹が空いているというくらいだが、味が分からないのであれば食事もどのみち進まない。
「すみません。それじゃあちょっと抜けさせていただきますね」
 椅子から立ち上がり、様子を見にやってきたカナリアさんに頭を下げる。カナリアさんは心配そうにしながらも、にっこり笑って私の手を握った。
「こっちのことは気にしないで。しっかり診てもらってね」
「ネロもお騒がせしてすみません」
 せっかく美味しい雉が手に入ったと喜んでいたところだったのに、私のせいで余計な水を差してしまった。
 しかしネロは、声を掛けられたことに気付く様子もなくぼんやりしている。その視線は床に向いているが、何かに焦点を結んでいるということもない。
「あの、ネロ?」
 もう一度声を掛けると、ようやくネロは私の声に気が付いたようだった。はっと顔を上げ、私の方にぎこちない表情を向ける。
「ああ、いや、悪い。なんだって?」
「いえ、お騒がせしてすみません、と言うだけなんですけど……その、ぼんやりしてましたが、どうかしましたか……?」
 心なしか、少し顔色が悪いような気もする。これまでも私の身に様々な呪いや災難が降りかかるたび、ネロは必ずと言っていいほどすぐそばにいてくれたが、しかしネロまで狼狽しているのを見るのはこれがはじめてのことだった。石を投げ込まれたときのような恐怖がない分、私よりもネロの方が動揺しているように見える。
 自分の作った料理に「味がしない」と言われることは、それほどまでにショックなことなのだろうか。ネロに限っては、もしかしたらそうなのかもしれない。
「ネロ、大丈夫ですか……?」
 当事者は私なのだが、ひとまずそれは棚上げした。おそるおそる尋ねると、ネロは固い笑顔をつくって見せた。
「俺は大丈夫だけど、それよりナマエ、ひとりで行けるのか? フィガロのところだろ?」
「え? もしかして今、俺の信用がないみたいな話になってる?」
「僕が一緒に行こう。フィガロと話したいこともある」
 ファウストさんが名乗りを上げ、ネロは「頼んだ」とファウストさんの肩を叩いた。フィガロ先生だけは「俺、そこまで見境なくないんだけどなぁ」と釈然としないようにぼやいている。ネロとの間に何があったかは分からないが、ここのところネロはフィガロ先生に対して時々妙に辛辣だ。

 そんなわけで、フィガロ先生とファウストさんとともに、フィガロ先生の部屋にお邪魔することになった。先生の部屋には以前にも一度、北の国から帰ってきた直後に入ったことがある。その時は今よりもっとずっと身体の具合が悪かったため、入ったと言ってもほとんど担ぎ込まれたも同然だった。
 先生の部屋では、食堂で診察してもらったときよりももう少しきちんとした診察をしてもらったが、それでも結局これといった問題は見つからなかった。
 椅子に腰かけたフィガロ先生は、「困ったねぇ」と溜息をつく。
「味覚がないからと言って、ものを食べられないわけではないんだよね」
「は、はい……多少違和感というか、かなり違和感はありますけど、何とか飲み込めなくはないです」
 先程の雉のクリーム煮の味見をしたときに確認したから間違いない。においも食感も分かるし、飲み込むこともできる。ただ、味が分からないだけなのだ。
「じゃあ、ひとまずはやっぱり様子見しかないのかな。ファウストでもどうにもできないんだろ?」
「きちんと然るべき手順を踏んで掛けられた呪いならば解呪の手だてもあるだろうが、前にも言った通り、この術者はめちゃくちゃなんだ。却って手を出しにくい」
「ううん、ファウストの呪い屋稼業も案外……」
「何か言ったか?」
「素人が玄人を翻弄することもあるんだなって話さ」
 睨むファウストさんに、フィガロ先生が適当に言い繕う。ネロからもおそらくこんな感じで苛立ちを買っているのだろうと思うと、なんとなくネロのあの態度にも頷けた。こうしてお世話になっている身なので私には何も言うことはできないが。
 ともかく、とフィガロ先生は開手を打った。
「前に身体が縮んだときには一日で戻ったんだ。今回もそうなるかもしれない。一応、気持ちが落ち着くような効果のあるハーブを出しておくよ。味は分からなくてもにおいは分かるだろう? 香皿は持ってる?」
「いえ、そういうものは」
「じゃあ俺のを貸してあげる。これ自体が退魔の紋を刻んでいるから、多少呪いを弱める効果があるかもしれないしね。まあ、気休め程度の品ではあるんだけど」
「ありがとうございます、フィガロ先生」
「いつも魔法舎を整えてもらっているお礼だよ」
 結局のところ、それ以上の収穫は何も無さそうだった。まだフィガロ先生と話があるというファウストさんに追われ、私はフィガロ先生の部屋を後にする。
 石を投げ込まれるほど怖くはないが、身体が小さくなるほど呑気でもない。一体どうしたものかと頭を悩ませながら、私は仕事に戻るため食堂へと急いだ。

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