37

 私の半軟禁生活が開始して暫く。
 人間とは不思議なもので、一度こういう生活を始めてしまうと、案外すぐに苦労を感じなくなってしまうものらしい。最初こそ気詰まりに感じもしたが、魔法舎の中庭には出られるので日の光を浴びないということもない。忙しく立ち働いていると外に出ずとも運動にはなる。夜は賢者様のお部屋で一緒に眠り、朝は賢者様を起こさぬようそっと部屋を出る。そういう日々にも、いつしか慣れた。
 そんなある日のこと。
「おやおや、ムルのために作ったものでしたが、まさか貴女が食べてしまうとは」
 場所はシャイロックのバー。昼日中から何故こんなところにいるのかと言えば、シャイロックから「キッシュを焼いたからひと切れ如何ですか」とブラッドリーともどもお呼ばれしたからだった。
 聞けば、そのキッシュは夜にバーで出すつもりの軽食らしい。最近の私は夜は早々に寝付いてしまうので、それでわざわざ早い時間に声を掛けてくれたのだった。
 シャイロックのキッシュは以前にも一度食べたことがある。ネロの料理とはまた違い、そこはかとなくおしゃれな味がする。けれどそれが鼻につく感じではないのが、シャイロックや彼の営むバーと同じ不思議な魅力だった。美味しくて、なんだか大人になった気分になる。
 そんなキッシュをお裾分けしてもらえるというのだから、それはそれは大変ありがたいこと、なのだが──
「貴女とブラッドリーの分のキッシュは別に用意してあったのですよ。それはムルのため、少々特別な食材を使ったもの。あまり人にお出しするのには向かない方のキッシュです」
 カウンターの向こうのシャイロックが、おお嘆かわしやと言わんばかりの大仰な溜息をつく。
「ちょっと味見でもしようぜ」と、シャイロックの目を盗んで唆したのはブラッドリーだったが、彼は狡猾な魔法使いなので、味見──もとい、毒見を私にさせていたのだった。結果、キッシュを口にしたのは私だけだ。
 そしてどうやらそれは、本来私たちに出されるべきではない代物だったようで。
 背中を冷汗が伝う。呪いを掛けられたりなんだりしながらも、基本的にはのほほんとした勤労生活を送っている私だ。これほどまでにひやひやとスリリングな感覚を味わうのは、随分久しぶりのことだった。
「な、何が入っていたんです……?」
 恐々とシャイロックに尋ねれば、彼は形のきれいな口の端を上品に上げ、何とも優雅に答えてくれた。
「“おしゃべりなローズ”ですよ。これを口にすると愛を伝えずにはいられなくなるという」
「なぜそんなものを……!?」
「だから、本当はムルにご馳走する予定だったのですよ。先だってネロが仕入れた際にはほとんど食べられませんでしたから。西の魔法使いたちで試食会をする予定だったのです」
「相変わらず西のやつらは能天気だな」
「愉しみが尽きることを知らないとおっしゃって?」
「ま、そういうのは嫌いじゃねえ」
 シャイロックとブラッドリーは何だか呑気な会話を繰り広げている。このふたりは案外、話が合うのかもしれない。しかし私はそれどころではなかった。先程から足ががくがく震えて止まらない。
 “おしゃべりなローズ”ならば私も知っている。少し前に珍しい食材が手に入ったと言って、ネロが厨房に持ち込んだものだ。ちょっと見ないうちになくなってしまったので、私はついぞ口にしていない。しかし仮に食べる機会に恵まれたとしても、私ならば絶対に口にしたくない。それほどまでに恐ろしい食材だった。
 愛を囁かずにはいられなくなるだなんて、考えただけで気が触れてしまいそうだ。こちとら日々、如何に愛を誤魔化していくかだけを考えながらネロと生活しているというのに。
 もはや迂闊に口も開けなくなった私に、シャイロックがどこからか小さな木切れを取り出した。ちょうど店のドアに引っかけるオープンサインのようなサイズだ。
「≪インヴィーベル≫」
 シャイロックが呪文を唱えると同時に、木切れの表面が眩く発光した。そこにシャイロックが指先を滑らせ、何やら書きつける。さらには魔法で輪になった紐を取り付けると、彼は笑顔で私にそれを差し出した。
「とりあえず、これを首から下げておいては?」
 言われるままに受け取る。見ると木切れの表面には、
『私はおしゃべりなローズを食べたので口を開けません』
 と流麗な文字で記されていた。なるほど、たしかにこれならば口を開かずとも、相手に事情を理解してもらえる。ここの魔法使いたちは皆“おしゃべりなローズ”を知っているだろうから、これだけ書いてあれば十分だ。
 首から木切れを下げるというのは、何か悪さをした子供のようで些か気恥ずかしいが、この際背に腹は代えられない。
 木切れの紐を首に掛けようと、私が腕を持ち上げたそのとき、ブラッドリーが私の手から木切れを取り上げた。声を発することができないため、無言でブラッドリーを睨む。しかしブラッドリーは私の視線などまるで気にした様子もない。
 それどころか、シャイロックが折角用意してくれた木切れを鼻で笑うと、
「つーか、こんなもん掛けてるところをオーエンにでも見つかったら、逆に無理やり口開かされるんじゃねえのか? 俺もすでに相当そうしてやりたい気分になってる。人が嫌がることは率先してやりましょう、ってな」
 とんでもないことを言い出すブラッドリーだった。ぞくりと悪寒が走る。オーエンさんやブラッドリーに愛の言葉を囁く自分など想像もできないが、もしそんなことになったら末代までの恥だ。死んでも死にきれない。
 真っ青になっているであろう私をちらりと見て、シャイロックが哀れむように、いや面白がるように笑った。
「おやおや、それは困りましたね。ついでに言えば、ムルも多分そういうタイプですよ。私もですが」
「そうだよな。西の魔法使いはそうだろうよ。お、窓の外見てみろよ。向こうから来るのはネロじゃねえか」
 ブラッドリーの言葉に窓の外を見れば、たしかに中庭を歩いているネロの姿が目に入った。
「──!?」
「丁度いい、おまえそれでネロに愛の言葉を囁きまくって来いよ。おおーい、ネロ!」
 ブラッドリーが大声で呼ぶものだから、ネロがこちらに気が付いた。私がブラッドリーと一緒にいるためか、それとも場所がバーなのがよろしくないのか、とにかくネロの表情がいきなり険しくなる。このままではほぼ確実に、ネロから厳しいお言葉を頂戴することになってしまう。
 いや、それ以前に今ネロと顔を合わせるのは大層まずい。ネロならば事情を分かってくれそうだが、それでも、だ。シャイロックやブラッドリーに口を開かされた挙句にネロに愛の言葉など囁いてしまった日には、もはや目も当てられないような大惨事になることは分かり切っている。
「〜〜〜っ!」
「あっ、てめえ逃げんな!」
 大急ぎでバーを飛び出した私の背中に、ブラッドリーの怒号が飛んでくる。それでも今、ネロの前に引き摺り出されるのは拙すぎる。
 未だかつてないというほどに本気の全力疾走で廊下を駆け抜けた私は、そのまま身を隠せる場所を探すべく、魔法舎の中を人目を忍んで徘徊することになったのだった。

 ★

 魔法舎中を当て所なく徘徊したのち、私が逃げ込んだのは魔法舎の外れも外れにある厩だった。今はもう使われていないが、かつてはここで馬を飼育していたと聞く。もはや忘れられているも同然の場所なので、当然周囲にひと気はない。薄暗い上に若干臭うが、誰かに見つかるよりはずっとましだった。
 一応、カナリアさんには書き置きを残してきた。今この時間は休憩時間を返上している。とはいえ、こうして普段はろくに立ち寄らない厩までやってきたのだ。折角なので、ついでに掃除をしていくことにした。
 厩の中に放置されていた掃除用具を手に取る。ぼろではあるものの、使えないことはない。吹き溜まった落ち葉やゴミを箒で掃く。そうしていると、ようやく少し気持ちが落ち着いた。
 それにしても、“おしゃべりなローズ”の効果はどのくらい持続するのだろうか。いつまで口を噤んでいなければならないのか分からないというのは、やはり不便だし不安だ。こんなことならば先日のうちに効果の持続時間をネロに確認しておけばよかった。
「…………」
 首を巡らせ、視線を忙しなく、しかし注意深く四方に向ける。
 周囲に誰もいないことを、よくよく何度も確認して。
「ネロ、すきです」
 試しに口を開き、愛の言葉を囁いてみた。しかしそれがローズの効果なのか、それとも自分の本心をここぞとばかりに口にしただけなのか、いまいち自分でもよく分からなかった。そういえばネロのことを好きだと口にするのも、随分久しぶりな気がする。ブラッドリーとの会話の中で言わされたりはしていたが、ああいうものは多分数のうちには入らない。
「ネロ、すきです。好き、だいすき……」
 何度か愛の言葉を連ねてみて、しかしなんだか莫迦らしくなってしまい口を閉じた。ローズの効果は知らないが、こんな言葉を口にしてみたところで、結局何がどうなるわけでもない。ネロに見て見ぬ振りされた感情は、行き先を失ってしまってすでにただの文字の連なりにしかなっていない。
「ネロ、好きです」
 独り言でならば、何度だって言えるのに。
 肝心なネロの前では絶対に、口が裂けても言えない。持っていたって意味のない言葉。持っているだけで、何にもなりはしない言葉。持っているだけで、使ってはいけない言葉。
 またいつか、この言葉が意味を持つ日が来るのだろうか。
 はあ、と重苦しい溜息をつき、集めた落ち葉を集めていると。 
「おおーい、あ、いたいた」
 やにわに、ネロの声がすぐそばで響いた。思わず息を呑んでその場で飛び上がる。物思いにふけって完全に油断していたためか、ネロが近くまでやってきていることに少しも気付いていなかったのだ。何たる迂闊。
 というか、まさかこんなところまで私を探しに来る人がいるとは思わなかったのだ。ここは普段、誰も寄り付かないような場所だ。
 ネロの顔を見て、口を開かないようにという決意を新たにする。どうしてここまで来たのかは分からないが、大方ブラッドリーに唆されでもしたのだろう。シャイロックも多分、そういう悪ふざけを諫めたりはしない。
 私が予想したとおり、ネロは首の後ろを掻きながら戸惑いがちに、
「なんか知らねえけど、ブラッドリーたちにあんたのこと慰めにいけって言われたんだけど……どうした?」
 と尋ねる。どうした、と言われたところで答えることもできず、私は途方に暮れた。それがネロにさらなる誤解をさせたようで、ネロはさらに困りきった顔をする。
「黙ってちゃ分かんねえんだけどなぁ」
「…………」
「まあいいや。話したくないならそれでも構わないし、そもそも俺をけしかけたのがシャイロックとブラッドだからな。なんか悪だくみでもしてたんだろうけど。あのふたりには上手いこと言っておくから、気持ちが落ち着いてから戻ってくるといいよ」
 そう言って立ち去ろうとするネロの袖を、咄嗟に掴んだ。口を開くことはできないが、このまま誤解させたままにしておくのも嫌だった。
 せめてもの意思表示にぶんぶんと首を振る。その気迫に何か察するものがあったのか、ネロは驚いて目を瞬かせたのち、
「もしかして、喋れない事情とかある?」
 とおずおずと口にした。さすがネロだ。勘がいい。
 今度は首を縦に振る。ぶんぶん振りすぎて首がもげそうだったが、ネロに分かってもらえるのならば首のひとつやふたつ、安いものだった。最悪あとで魔法でくっつけてもらえばいい。
「ええと……じゃあ、筆談は? 地面に書くならできるか?」
 その提案に、私ははっと目を見開いた。筆談。なるほど、たしかにその手があった。
 手ごろな大きさの石を探す。幸いごみや落ち葉に混ざり、どこからか転がってきたのだろう石がごろりと地面に転がっていた。それを拾うと、しゃがんで地面にがりがりと文字を書いていく。すぐ隣、肩がくっついてしまいそうな距離にネロもしゃがみ、私の書いた文字を書いた端から読み上げていく。
「『おしゃべりなローズを食べてしまって、口を開けないんです』? ははー、なるほど。そういうことか」
 こくこくと頷く。ネロが同情するような目で私を見た。恐らく厨房の主として、ローズがどれほどの威力を持っているのかはネロもよく知っているのだろう。材料のことをよく知っていなければ、それを料理として人に出すことはできない。
「そりゃ災難だったな。それにしても、ローズか。在庫は全部使い切ったと思ってたけどな」
『シャイロックがもらってきたそうで』
「へえ。そういうの好きなあたり、西の魔法使いらしいよな。あの兄ちゃんも」
 感心したように言ったネロは、さて、とそこで一度、話を区切った。ネロは地面に書いた文字に向けていた視線を、すぐそばの私に向ける。そうすると自分とネロが如何に至近距離にいたかということを改めて実感し、むしょうに顔が熱くなった。
 この頃なんだかネロとの物理的な距離が随分近づいていたせいで色々とぐずぐずになっているが、本来私とネロは付き合っていない男女としては相当おかしな距離感な気がする。
 いや、そんなことないのだろうか。賢者様と魔法使いの皆さんも大概距離が近いから、もはや何が正常なのかも正直よく分からなくなっている。
 じりじりと足を地面につけたままで擦り動かし、どうにか少しだけネロとの距離をあけた。あまり近づいては全力疾走した汗のにおいがばれてしまうかもしれないし、そうでなくても心臓の音がこんなにうるさい。
「それで? 食べてからどのくらい時間経った?」
 ネロに聞かれ、私はさてどのくらいだろうか、と考えた。まだそう経っていないような気もするが、なんだかんだで掃除もかなり終わっている。ということは、それなりに長くこの場所にいるのだろう。
『一時間くらいだと思います』
「じゃあもうそろそろ効果も切れてるだろうよ。喋っても大丈夫だぞ」
「ほんとうに……?」
 恐る恐る、そうっと声を出す。
 口から出た言葉は私が口にしようと思って、そのまま出てきた言葉だった。不本意な愛の言葉ではない。途端に安堵が胸いっぱいに広がった。勢いよくその場に立ち上がる。自由に口を利けないということが、これほどまでに窮屈なことだとは思いもしなかった。
「よかった……」
「お疲れさん」
「いえ、あの本当によかったです。ネロありがとうございます、本当にネロの作ってくれる料理が大好きです! ネロの料理を食べられることは私にとって何にも代えがたい幸福ですし、できることならこれから毎日ネロの美味しい料理を私に食べさせてくれませんか?」
 つるりと言葉が、口からこぼれ。
 慌てて両手で口を押さえるが、時すでに遅し。
 ネロはぽかんとした顔をして私を見つめていた。
「今のは……」
「あああ違うんです! 今のはまだローズが! ローズが! 多分残ってて!?」
 もうすっかり効果が切れてしまったかと思ったが、それは“おしゃべりなローズ”の最後の意地みたいなものだったのかもしれない。何せ折角口にしたというのに、私は一度も誰かに愛の言葉を伝えたりしなかったのだから。ローズとしても、さぞ不服だったに違いない。今のは多分、魔法の花の矜持。
 しかし、私にとってはとんでもない爆弾だった。
 顔から火が出そうなほどに恥ずかしい。すっかり油断していたせいで、愛の言葉を口にした自分自身が、ひどい羞恥でダメージを負う羽目になっていた。
 恥ずかしくてネロの顔が見られない。というか、こんな形で今までの頑張り──ネロの前で好意を全開にしないという涙ぐましい努力を台無しにしてしまうとは思いもしなかった。本当に、ネロにドン引きされてしまっていたらどうしよう。
 ネロは口を開かない。その沈黙が何よりも恐ろしく、どうにかしてこの場を誤魔化してしまえないかと、私がどうしようもない逃げ腰の策を講じ始めたそのとき。
 ふいに、ネロが大きく肩を揺らして笑い始めた。しゃがんでいた姿勢から前に倒れ、手を地面についてひぃひぃ笑っている。
 私はその場に立ち尽くし、腹を抱えて笑うネロを呆然と見下ろした。
「あ、あの、ネロ……?」
「ははっ、ローズの効能をもってしても、出てくるのがそれとはな……、それ、俺にじゃなくて俺の料理への愛の言葉だろ、はっ、ははっ」
「言われてみれば、たしかに……?」
 そういう解釈もできなくはない──というか、実際ネロの言うとおりだった。私がほめたたえたのはネロの料理についてだ。ネロの人間性については、一言たりとも触れていない。
 それはそれで、どうなのだろう。たしかに私はネロの料理にずっぷり惚れこんでいるし、そもそもネロを好きになったのだって、ネロの料理を好きになったところに端を発している。だからまあ、間違ってはいないのだが──
 なんだか釈然としない気分になって私が首を傾げていると、ようやく笑いの波が引いたらしいネロがよっこらせ、と立ち上がった。膝についた土をはたき落とすと、ネロは意地悪な視線を私に向ける。
 その視線に、一瞬ひやりとしたものが背中を伝った。
「そうだな。そこまで熱烈に愛を表明されちゃ、料理人としては応えてやらないわけにはいかないよな」
「えっ」
「毎日俺の料理が食べたいんだもんな? 俺の作る飯が大好きなんだもんな?」
 そう言いながらネロが私に向ける表情は、シャイロックやブラッドリーに負けず劣らずの楽しそうで意地悪な表情だ。それでもネロが嬉しそうで愉しそうなことが伝わってくるから、悔しいけれど私の心はときめいてしまう。
 ネロのことが、やっぱりどんどん好きになってしまう。
「うっ、うう……」
「いやー、料理人冥利に尽きるな」
 上機嫌のネロの背を、せめてもの仕返しに軽く小突いた。ネロは大袈裟に痛がって見せた後、「そろそろ戻ろうか」と笑う。眦に滲んだ優しさが愛しくて、私は“おしゃべりなローズ”のお節介にほんの少しだけ感謝した。

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