36

 目覚ましをかけずに眠ったが、翌朝はちゃんといつもと同じ時間に目が醒めた。一瞬、見慣れない部屋に寝起きの思考が停止する。しかしすぐに、「おはよ」と声を掛けられ状況を理解した。
 ベッドの上には寝起きなのか、いつもよりもばさばさな髪をかき上げ、大きく欠伸をするネロがいる。そうだ、昨日は何だかんだとすったもんだの末にネロの部屋を借りて眠ったのだった。ネロと話をしている途中からだんだんと眠くなってしまい、気が付いたらぐうぐう眠ってしまっていたらしい。
「お、おはようございます……」
 手ぐしで髪を整えながら、もごもご挨拶を返した。
 ネロはいつから起きていたのだろう。カーテンは閉じているものの、室内はもう十分すぎるほどに明るい。寝顔を見られていたらと思うと恥ずかしかった。慌てて口許を拭う。よだれを垂らしたりしていなければいいのだが。
 起きて早々慌てふためく私に、ネロは声もなく笑った。
「早起きだな。夜更かししたってのに」
「も、もともと、眠りは浅い方で……」
「俺もだよ。まあ、そのおかげで今朝も寝坊しなくて助かったけど」
 東の国の人間は、どちらかといえば繊細で神経質なたちの人間が多い。ネロは魔法使いではあるが、そういうタイプなのだろう。そういえばファウストさんも夢見が悪いと起きてくるのが遅いことがある。
 ファウストさんといえば。
 昨晩のことを思い出し、じわじわと恥ずかしさがこみあげてきた。マットレスの上で居住まいを正すと、気付いたネロが怪訝そうに首を傾げた。
「どうした?」
「あの……昨晩はお恥ずかしい話とお見苦しい姿を……」
 やはり、もごもご口ごもりながら私は答えた。
 ネロの優しさと雰囲気と、それから呪いのことで心がちょっと弱っていたせいで、昨夜は随分と醜態をさらしてしまった。最終的にはネロに励まされ慰められ、挙句の果てに寝かしつけられ。ひと晩明けてみればまったくいい大人が何をしているのか、と己に呆れる。
「昨日はその、ちょっと弱気になってました……」
 しゅんと項垂れ言う私に、ネロは、
「さて、何のことだっけな」
 わざとらしくすっとぼけて、それからにやりと小さく笑った。その笑顔に、先程の羞恥とは別の感情から、顔がぼうっと熱くなる。
 カーテンの隙間から漏れ入る朝の光で、ネロの灰水色の髪が銀に光っていた。やわらかなその眩さに、目がくらみそうになる。
 落ち着きなく目元をごしごしと擦った。もしかしたらまだ、心の位置が正しく定まっていないのかもしれない。気を抜くとネロの優しさに泣いてしまいそうだった。
 大きく息を吐き出して、胸の中身を全部吐き出す。それからようやく顔を上げた。
「ありがとうございます、ネロ。私そろそろ着替えてきますね」
「布団、どうする? 多分賢者さん今日は帰ってくるだろうけど」
 立ち上がった私に、ネロが声を掛ける。
「あとで運びます」
「じゃあ、その時になったら声掛けてくれ」
「はい」
 ネロの部屋を出る刹那、振り返ってもう一度、ネロの様子を盗み見る。ネロはベッドの上で胡坐をかき、背中を丸めて俯いていた。両手で顔を覆う様子は、疲れているようにも寝不足のようにも、もしくは脱力しているようにも見えた。

 その日の午前のうちには、あっという間に私の部屋に石が投げ込まれたこと、それには不思議の力がかかわっていることが魔法舎中に知れ渡った。賢者様はまだ戻られていないものの、ここにいらしたところで状況が変わったわけではないだろう。双子と年長者──各国の指導者役の魔法使いたち、ついでに昨日現場に居合わせたネロまでもが話し合いの場に呼び出された結果、呪いについての調査は継続、私には魔法舎から出ないように厳命がくだった。

 私が半引きこもり生活が開始して数日後、私宛に一通の手紙が魔法舎に届けられた。
 魔法舎宛の手紙は通常、中央の国の王城に届くことになっている。魔法使いたちが個人的な連絡を取る場合はその限りでもないそうだが、ここで働き出してからの彼らを見る限り、魔法舎から直接連絡を遣り取りしている魔法使いはほとんどいないようだ。
 ミチルとルチルには時々、王城に南の国の子供たちから手紙が届いている。この間はリケも一緒になって返事を書いているのを見かけた。
 私宛のその手紙も、王城に届いた魔法舎宛の手紙の中の一通だった。
「あれ、この筆跡……」
 クックロビンさんが運んできてくれた手紙を仕分けしている途中、見つけた見覚えのある手蹟。それは雨の街の牢に入っている、父からの手紙だった。
 仕事の合間を見つけ、ちょうど誰もいない食堂で手紙の封を切る。
 どこから仕入れたのか、無地の封筒の中には同じく無地の便箋が一枚、それに父親が大切にしていた真鍮の硬貨が同封されていた。以前、遠い異国の地を旅した友人から貰ったという硬貨だ。環状の硬貨の中央に革ひもを通してあり、首から下げられるようになっていた。便箋にもやはり「肌身離さず持つように」と記されている。
 父が大切にしていたものだから、多分おまもりのようなものなのだろう。それをわざわざ今になって送ってくる理由はよく分からない。が、母は父の面会にも行っているそうだから、母から私の近況を聞き知った父が、なにか罪滅ぼしのつもりで送ってきたのかもしれない。父はそういう、よく言えば義理がたく、悪く言えばお節介で、ちょっと押しつけがましいところのある人なのだった。
 そんな父からの贈り物。なんとなく受け取りがたい気もするが、だからといって送り返すわけにもいかない。とりあえず、硬貨は首から掛けて服の下に滑り込ませた。肌身離さず持っていろというのだ。従っておくことにする。
 ふたたび手紙に視線を落とし、文面を確認した。書いてあるのは自分のことは心配しなくてもいいのだということ、そして私の生活を気遣う言葉。呪いのことで少しばかり精神が摩耗していた身としては、父からの気遣いは単純に有難かった。もっとも雨の街で家族三人、つつがなく暮していられれば、こんな事態に巻き込まれるはめにならなかったとも言えるが──
「あら? ナマエさん、何を読んでいるの?」
 いつの間にかすぐそばに立っていたカナリアさんが、今日も元気な笑顔で私に話しかけてきた。
 私はぱっと立ち上がる。カナリアさんは両手に買い物袋を持っていた。私が外出禁止の身なので、買い出しのほとんどをカナリアさんとネロが担ってくれている。
「買い出しありがとうございます。片づけ手伝います。あっ、お茶いれますね」
「そんなに慌てなくても大丈夫よ。じゃあ私が片づけをしている間に、お茶をお願いできる? そろそろ午後のおやつの時間だし、誰かしら食堂に顔を出すころでしょ」
「そうですね。多めにお湯を沸かしておかないと」
 そんなわけで、てきぱきと買ってきた品を片づけるカナリアさんを後目に、午後のお茶の準備を始めた。
 すべての準備が整ったところで、ようやく一息ついたカナリアさんに「ナマエさんも座って。少しお茶をいただきましょう」と誘われた。魔法舎でのお仕事は、なんというか、時々ゆるい。もちろんカナリアさんが仕事に手を抜いているということはないので、メリハリがついているという意味だ。
「それで、さっきは何を読んでいたの?」
 紅茶のカップを手に、カナリアさんはそばかすの散った顔で悪戯っぽく笑う。
「実は東の国の父から手紙が届いたんです」
「あら。お母さまからは時々お手紙が届いているけど、お父さまからは珍しいんじゃない?」
「そうなんですよ。中身は大したことは書いてないんですけど」
「こら、そういう言い方をしないの」
 諭すように叱られ、私は首をすくめた。カナリアさんとはそう年が違わないが、長いこと実家で暮らしていた私と比べ、カナリアさんの方がずっとしっかりしている。だから時々、こういう子供っぽいことでやんわり注意されたりもする。
「それにしても、お父様からか。うちの父は手紙を書いたりする人じゃなかったから、なんだか不思議な感じ」
「父は結構筆まめなんですよ。私や母は面倒くさがりですけど」
「返事は書くの?」
 軽やかに問われ、私は眉尻を下げた。テーブルの上には、便箋を中に戻した封筒。父からの手紙には返信を求めるとも求めないとも書かれてはいなかった。多分、私の暮らしぶりがイメージできなかったからだろう。私だって魔法舎という場所で勤める以上、近況などをあまり仔細に外部の人間に話すべきではないと思う。
 しかし返信すべきか悩んでいるのは、それだけが理由ではない。
「悩んでます。自分で郵便を出しに行くこともできないし、誰かに頼んでまで返事を書かなければならないわけでも、書きたいわけでもないですし……」
 外出禁止の身としては、少しでも人に掛ける迷惑の量を減らすに越したことはないわけで。たとえば手紙ひとつ出してきてもらうのだって、些細なことではあるのだが、誰かの手を煩わせるということに変わりはなかった。
「そんなの気にしなくたっていいのに。私が買い出しのついでに出してきてあげるわよ。そんなに気に病まなくていいのに、本当にナマエさんってなんというか……気にしいというか」
「そういうわけではないんですけど」
「遠慮も気遣いもいいことだけど、行き過ぎると却って周りに気を遣わせるだけよ」
「う、すみません……」
 またしても注意されてしまった。がくりと項垂れる私を、
「まあ、私は気を遣ったりしないからいいけどね」
 カナリアさんはあっけらかんと笑い飛ばした。
 カナリアさんと話していると、こんなふうにして私の心のわだかまりを笑い飛ばしてくれる。
 ここにはたくさんの魔法使いと少しの人間がいて、性格だってさまざまだが、優しさの形は人それぞれなのだとつくづく思う。ネロが距離をちゃんとはかった上で寄り添おうとしてくれるのも、賢者様がとことん悩みに付き合おうとしてくれるのも、カナリアさんの元気さも。全部、私には羨ましいばかりの優しさだ。
 私はここで、周りのみんなから優しさを貰うばかりだ。何かを返せたらいいのだが、返せるだけの持ち合わせが私にはない。
 そのうえ、今は呪いのことで心配と迷惑まで掛けている始末なのだった。自分にがっかりしたくはないが、どうしたってがっかりしてしまうというもの。またしてもこぼれそうになる溜息をどうにか飲み込んで、私はカナリアさんに視線を向けた。
「あの、カナリアさん。私、こんなことをしていて本当にいいんでしょうか……」
「あら、お茶おいしくない?」
「そうではなくて……その、お仕事もだいぶ融通を利かせていただいてますし」
 正直に言うと、心苦しいのだった。
 外に出ないようになったからといって、いただくお給金の額が減るわけでもない。出してもらえる料理はやはり美味しいし、布団は実家のものよりもずっとふかふかだ。
 それでも、怠けているだとか分不相応だとか、そういうことを誰からも責められたりしない。それどころか、日に日に与えられる優しさは増えるばかりだ。これまでの人生を振り返ってみれば、今の私は確実に甘やかされている。そしてそれはなんだか、呪いを盾にとってずるをしているような気分になるのだった。
「いいのよ。だって魔法舎の中でやれる仕事はナマエさんが率先してやってくれるじゃない」
 カナリアさんは当たり前のように言ってくれる。私が外出制限をされ、一番しわ寄せを受けているはずなのに、カナリアさんはけして嫌な顔をしない。
「働いてないわけじゃないでしょ? それにナマエさんが魔法舎の中でできることを頑張ってくれてるのも知ってる。だからこうしてお茶の時間が捻出できて、優雅なティータイムも過ごせる。ね?」
「それは、そうなんですけど……」
 私がさらに気弱な言葉を連ねるようとした、そのとき。
「そうだよ、気にせず事がおさまるのを待てばいいのさ」
 私の弱気な言葉に、カナリアさんではない男性の声が気軽に太鼓判を押す声が割り込んだ。カナリアさんが立ち上がり、にこりと笑って挨拶する。私も慌てて腰を上げ、振り返った。
「フィガロ先生……」
「美味しそうなにおいにつられてね。俺にも一杯もらえるかな?」
「もちろんです」
 フィガロ先生の分のカップをあたため、食堂に戻る。すでに先生は椅子に座りカナリアさんが出したクッキーを嬉しそうにつまんでいた。フィガロ先生には自分たちが飲んでいたものよりもちょっと高級なお茶をお出しして、それから私もまた椅子に戻った。フィガロ先生は「両手に華だなぁ」なんて言って笑っている。
「今日はミチルたちは一緒じゃないんですか?」
「うん? もう少ししたら来るんじゃないかな? 俺は『あとは各自自習とすること』って言って威厳たっぷりに出てきちゃったけど」
 愉しそうに答えられ、私はカナリアさんと顔を見合わせる。
 南の国の先生役として、果たしてそれでいいのだろうか。
「フィガロ先生……」
「でも自習時間が程よくあった方が意欲が向上するって、賢者様も言ってたよ?」
「そ、そうなんですか……? 賢者様がおっしゃるなら、そうなのかもしれないですね……」
「君は本当に賢者様のことを慕ってるんだね。そんな可愛い女の子たちの集いに、たまにはお兄さんも混ぜてくれるともっとやる気が増すのになぁ」
 そう言って、フィガロ先生は私の口にむぎゅっとクッキーを押し込んだ。カナリアさん特製のクッキーは、素朴な味だがほろほろとしていて美味しい。ネロの作るおやつとは別の美味しさがあるが、リケやミチルからの人気が高いため、普段あまり私の口に入ることはない。
 フィガロ先生は、指先についたクッキーの粉をハンカチで拭い、
「そうそう、さっきの話だけど」
 と思い出したように続けた。
「カナリアも言っていたけど、外に出られないからってそう気に病むことないんじゃないかな? できることをする、できないことはできる人間に任せる。それって当然のことだし、そういうことをするために、人間はこんなにたくさんいるんだよ」
 自分よりもずっと長く生きているフィガロ先生に言われてしまうと、そういうものとして納得するしかない。私は頷き、紅茶を啜った。フィガロ先生は満足そうに頷いている。カナリアさんもまた、同じく笑顔を浮かべていた。
「それに──」
 と、フィガロ先生が愉し気に付け加える。
「あんまり君が無茶をすると、胃が痛そうな顔をする魔法使いがひとりいるからね」
「……それって、もしかしてネロのことですか?」
 果たしてネロがそんな顔をするだろうかという疑問はさておき、私が魔法舎で目下もっとも心配と迷惑を掛けている相手はネロに間違いない。フィガロ先生が「そうそう」と笑う。
「ナマエのことといえばネロの管轄だろ? 子供たちに接するところを見ていても、ネロは結構面倒見がいいなと思っていたけど。あれは同郷だからってだけが理由ではなさそうだよね」
「それは……どうでしょう」
「またまた」
 たしかに私に何かあるたびにネロは巻き込まれている。あの困り顔は、もしかしてフィガロ先生の言うところの「胃が痛そうな顔」なのだろうか。
 いや、それよりも。
 何故だろう。フィガロ先生の口からネロの話を語られると、妙に胸がざわざわする。落ち着かなくて、そわそわして、悪いことをしているような気分になる。
 フィガロ先生は、そんな私の今日中に気付いているのかいないのか、にこにこと機嫌よく続けた。
「そもそも、東の国の魔法使いがあんなふうに人間と交流するなんてね。特にネロは、歳食ってるぶんだけ頑ななところがあるだろ? 凄いことだよ」
「フィガロ先生だって人間と交流なさるじゃないですか」
「それはほら、俺は人も魔法使いも垣根なく交流する、南の国のお医者さんだから」
「たしかに、南のフィガロさんと東のネロさんではタイプが違いますもんね」
 カナリアさんもフィガロ先生の言葉に同調した。しかし、私だけはなんとなく釈然としないまま話を聞いている。
「ネロだって人間が嫌いってわけではなくないですか? 人間が嫌いだったら、そもそも人間相手に客商売なんてしないと思うんですけど」
「魔法使いとして人間と接することと、魔法使いであることを隠して接するのでは話が違うだろ?」
「それは……まあ、そうかもしれないです。多分」
 それはそうなのかもしれない。魔法使いたちの気持ちが私に理解できるわけではないから、自身も魔法使いであるフィガロ先生にそうと言い切られてしまうと、私としては納得するしかない。
「ねえ。まったく、何百年も生きているのに、ネロは俺が予想したよりずっと青いな」
 フィガロ先生が続けた言葉に、私は首を傾げた。
「青い、ですか? ネロが?」
「そうだよ。この間も──」
 と、フィガロ先生が嬉しそうに口を滑らせかけた直後、
「おい」
 苛立たしげな声が、フィガロ先生の声を遮った。はっとして見れば、訓練服姿のネロが食堂の入口からこちらを睨んでいた。
「あら、ネロさんまで」
 カナリアさんが挨拶をするも、ネロは不機嫌そうなオーラを纏ったままで近寄ってくる。やがてフィガロ先生のすぐそばまで詰め寄ると、ネロは座っているフィガロ先生を立ったまま、険しい瞳で見下ろした。それはブラッドリーを前にしたときとはまた違う、何とも剣呑な雰囲気だった。
「噂をすれば何とやらだな」
 悪びれた様子もなく、フィガロ先生は飄飄としている。
 思い出すのは、ネロとブラッドリーの睨み合いだ。あの時は素人の私から見ても、ブラッドリーの方が優勢に見えた。しかし、今回はどうだろう。
 ブラッドリーとは違い、フィガロ先生は見るからに優男といった風貌だ。ネロとフィガロ先生のどちらが強いのか、だから私にはよく分からない。ただ、フィガロ先生は怒っている相手をいなすのがうまそうではある。そもそもこの二人の場合、喧嘩にはならないのかもしれない。
 それでも、魔法使い同士の睨み合いは怖い。
 ネロはじっとフィガロ先生を見下ろしている。私とカナリアさんは、ふたりの様子を固唾をのんで見守った。
 暫し、座が静かになる。ネロとフィガロ先生──その沈黙に負けたのは、年若いネロの方だった。
「余計なこと吹き込んで困らすのはやめてやれよ。ただでさえ色々と思いつめてる時期だろうに」
 溜息まじりにネロがそうこぼせば、
「それって、ネロのことで?」
 とすぐさまフィガロ先生が応酬する。
 それは私にとってもけして聞き捨てならない言葉だった。しかし今はそれよりも、これ以上ネロを焚きつけないでほしい。ネロはあまり怒らないが、だからといって怒りを感じにくいタイプではない。
「フィガロ先生は私のことを励まして気分転換させてくれてたんですよ。ほら、私今外出禁止の身の上なので」
 思いつきの口からでまかせだが、ともかくそう言うしかなかった。結果的にはフィガロ先生を擁護することになったのだろうか。本意ではないが、最悪ではないはずだ。ひとまずはふたりの間を取り成せればそれでいい。
 フィガロ先生も、私のでまかせに乗っかることにしたらしい。
「そうそう。ナマエが塞ぎこんでるんじゃないかなと思ってね。医者としてはケアが必要かな? って」
 平気な顔でそう嘯く。カナリアさんがしらっとした目をフィガロ先生に向けていたが、その視線すらも先生にはまったく何の攻撃にもならないようだった。
 ネロの視線も、やはり険しい。ネロは荒事を好まないと勝手に思っていたが、もしかして案外ブラッドリー側の人間なのだろうか。だからブラッドリーとウマがあってしまって、過去に何かあったりなかったりしたのだろうか。
 と、そんなことを考えている場合でもなく。
 私は思考を切り替えると、目のまえの事態の収拾へと意識を戻した。
「フィガロ先生ありがとうございました。でもご心配いただかなくても大丈夫ですよ。私も東の国の人間ですから引きこもるのには慣れていますし」
「別に東に国の国民性が引きこもりってわけではないだろうけどね」
「でも、大丈夫です」
 念を押すようにそう言って。
 さも今思いついたとでもいうように、私は「あっ、そういえば!」と妙に元気よく声を発した。
「私、これから修行場の掃除に行こうと思っていたんでした」
 するとネロが怪訝そうに目を眇める。
「修行場? あそこなら今から俺たちが使う予定だけど」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ、いや、掃除くらいなら別にいいよ。見られて困ることもないだろうし」
「でも、気が散っちゃいませんか?」
「大丈夫だろ。多分。ファウストがいいって言えば」
 この時間はいつもは空いているはずなのだが、今日は東の魔法使いたちが使うことになっていたらしい。掃除を後回しにしようにも、今日は夜に賢者様と本を読む約束をしていた。
「ファウストならもう修行場にいるよ」
「じゃあちょっと聞いてきますね」
「俺も一緒に行くよ」
 自分の使ったカップだけ大急ぎで片づけをして、カナリアさんにひと声掛けてから私とネロは連れだって修行場に向かった。
 食堂を出る際、フィガロ先生がネロに呼びかける。
「ネロ、“暇つぶし”はする気になったかな?」
 にっこりと笑うフィガロ先生は、優男然とした医者の先生であるはずなのに、見ていると何故だか妙に心がざわつく。ネロはぶすりとした顔で一瞬言葉を飲み込んで、それから短く、
「なってねえよ」
 それだけをぶっきらぼうに返した。

 ★

 ネロに続いて修行場に入ると、私に目を留めたファウストさんが色眼鏡の向こうの目をすっと細めた。
「どうして君がいるんだ。また何かあったのか?」
「いえ、そういうわけではなくて……。その、今から掃除をさせていただきたくてですね。でも東の魔法使いの皆さんがここをお使いになると聞いたので、掃除をしてもいいかファウストさんに伺いにきたんです。埃とかはあまり立てないようにしますから」
 そう説明すると、ファウストさんは何処かほっとしたように肩の力を抜いた。平素、ファウストさんと私が積極的に会話することは少ない。東の出身同士でなんとなく同じ輪にいることはあるが、ふたりでとなるとほとんど話をしたことがない。
 だから多分、ファウストさんにとっての私は「呪いか何かで用事があるときに頼ってくる娘」ということになっているのだろう。間違ってはいないが、ちょっと悲しい。
「掃除くらい、別にいいよな?」
 ネロに問われ、ファウストさんは頷く。
「それは構わないが──しかし、それだけならどうしてネロが一緒に来るんだ。君はいつも時間ギリギリまで来ないのに」
「それはその、成り行きといいますか」
「たちの悪いのに絡まれてたから、通りすがりに救出してきたんだ」
 へらりと笑って、ネロが言った。言うまでもなくフィガロ先生のことだろう。どちらかといえばフィガロ先生の標的にされていたのはネロだったような気がするが。
 ともあれ、「たちの悪いの」などという表現でもファウストさんにはちゃんと話が通じているようだった。ファウストさんは呆れたように溜息を吐く。
「きみ、かねがね思っていたが、ちょっと過保護なところがあるよな」
「じゃあ聞くけど、目のまえで人間の女の子がフィガロにいびられてたら、あんたならどうするよ?」
「……なるほど、きみの正当性を認める」
 ファウストさんはやれやれと溜息をつく。ネロが私を見て、ちょっと笑った。
「掃除なら好きにしてかまわない。ただし、手早く済ませてもらえると助かる」
「は、はい。それでは失礼いたします」
 ネロから離れ、私は修行場の隅の用具入れから箒と塵取りを取り出す。そして東の魔法使いたちの邪魔にならないよう、大急ぎで掃除を開始した。

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