35

 ネロとともに自室に戻ると、ファウストさんの言った通り室内はすべて復元され、石を投げ込まれたとは思えないきれいな状態に戻っていた。細々とした物の配置の違いはあるが、ファウストさんは元々の私の部屋に入ったことがないのだから、それは仕方がないことだ。むしろ綺麗に掃除されていることで、なんだか得をしてしまったような気すらする。
「よ、っと」
 マットレスをぐるりと丸め、ネロが麻袋を運ぶ要領で肩に担ぐ。掛け布団と枕、それに着替えなどは私が抱え、これで一応、ひと晩過ごすのに十分な用意を運ぶことができそうだった。
「ネロ、大丈夫そうですか?」
「思ったよりは全然持てるけど、ただ視界がそんなによくねえから先導してもらえると助かる」
「任せてください。万難を排してネロを部屋までお連れします」
「万難を……いや、まあ、うん。そこまで気合入れなくてもいいよ……」
 今になって気恥ずかしくなってきたのと深夜なので、何だか変なテンションになっている。ネロに苦笑されながら、私たちは深夜の魔法舎で布団の運搬作業を行った。
 それにしても、自分が普段使っている寝具をネロに運ばれるというのは、なんだかちょっと照れるものがある。ちょうど今日すべて洗って干したばかりでよかった。こういうのも不幸中の幸いというのだろうか。
 と、私たちがネロの部屋の前まで戻ってくると、そこで思いがけない二人組と鉢合わせた。二人は私とネロが布団を抱えているのを見ると、とことこと近寄り、首を傾げた。
「ネロもナマエも、こんな夜更けに一体何をしておるのじゃ」
「スノウ様、ホワイト様」
「ファウストから事情を聞いて様子を見にきたのじゃが」
「こんな夜更けに模様替えか?」
 ファウストさんから話を聞いているということは、すでに大方の事情を把握しているということだ。私の部屋ではなくネロの部屋を訪ねてきたのも、私が今晩自分の部屋では寝ないだろうと予想していたからに違いない。
「ネロにベッドのマットレスを運んでもらっているんです。今晩寝るところがないので、ネロの部屋を借りることになりまして」
 手短に説明する。しかし双子は顔を見合わせたあと、揃って再び首を傾げた。
 見た目はまるきり子供なので、その仕草は何とも言えず可愛らしい。あどけなさや無垢さというよりは、人形めいた精巧な可愛らしさだ。
 しかしいくら見た目が可愛らしくとも、ひと度口を開けばそこは年長者。
「何じゃ、わざわざ面倒なことをせずとも共寝をすればよいものを」
 半ば呆れたように目を細めて言うスノウ様に、私は年頃の娘のように顔を赤らめて、
「それはその、小さな子供もいる環境ですし……何もやましいところはないとはいえ、公序良俗に反するのではないかと……」
 吃りながらの苦しい声で言い訳した。私の方が健全なことを言っているはずなのに、どういうわけだかスノウ様とホワイト様は「まったくやれやれ」みたいな顔をしている。それどころか私では話にならないと思われたのか、今度は標的をネロに代え、ぐいぐいと尋問よろしく問い詰めてくる。
「ネロちゃん、逆にやましいところないの?」
「もしかして若者の間ではそういうのが流行ってるの?」
「ジジイには分からん楽しみ方とかしてるの?」
「いやらしくないのが逆にいやらしい的な?」
「子供の姿でそういうこと言うなよ……」
 ネロの苦言にも双子はめげない。
「何じゃ、ノリ悪ぅ」
「ちょっとはフィガロを見習ったらどうじゃ」
「フィガロの何処を見習えって?」
「ノリとか」
「テンションとか」
「どう考えても無理だろ……」
 そういえば、と部屋に引き上げる前、階上で手を振るフィガロ先生を渋い顔で見上げていたネロを思い出す。よく分からないがあの時も今も、フィガロ先生と聞くと嫌そうな顔をするネロなのだった。何かあったのだろうか。あまりネロとフィガロ先生が仲良く話している印象もないが。
 そんなことを考えながら、布団を抱えたまま三人の会話に耳を傾けていると、おもむろにスノウ様が私へと視線を戻した。ネロを揶揄って遊ぶのには飽きたのか、大きな瞳には先程までの爛々とした輝きはない。今は穏やかに、詫びるように、私を映している。
 あるいは詫びているように見せるため、そういう瞳の色をつくっているのかもしれない。
「ナマエよ、災難じゃったの」
 優しく慈しむような、それでいて無邪気な子供の声が、耳朶に心地よく染み込む。
「我らが原因っぽい手前、安易に安心せよとは言えんが、ひとまずネロのもとに身を寄せておれば安全じゃろう」
「今宵はあったかくしてゆっくり眠るのじゃよ」
 双子に揃って労わられ、私は考えるより先に頭を下げた。ふたりの声には聞く者を従わせるだけの魔性が備わっているようだ。
「お気遣いいただきありがとうございます。ネロには迷惑をかけてしまいますが、おふたりの仰る通り、安心して眠れそうです」
「ほほほ、それは良い。我らはネロに話があるから、ナマエは先に戻ってくれると助かるんじゃが」
「あっ、これは気付かずすみませんでした。それでは、おやすみなさい」
「うむ、良い夢を見るのじゃよ」
 ふたたび双子に頭を下げる。双子はにこにこと無邪気な笑みを浮かべている。しかし私がこれだけぺこぺこ頭を下げているのに一切何も言わない辺り、やはり彼らは人間を従わせることに慣れた存在なのだろう。ネロとは違う。ネロは多分、人に頭を下げられることを当たり前とは思わない。
「先に戻っていますね」
 ネロにそう声を掛けると、ネロは心底嫌そうに「俺、マットレス持ったままなんだけど……」と呟く。
「男の子じゃろ、何のこれしき」
「就寝前の筋トレだと思えば、ねっ」
「ねっ、っていう重さではないからな」
 ネロの溜息の音を聞きながら、私はひとりネロの部屋へと戻った。

 ★

 ネロが双子から解放されてほどなく、寝支度もそこそこに就寝となった。入浴を済ませ、自分の部屋から布団と一緒に回収した寝間着に着替えると、ネロは早々に部屋の灯りを消した。もぐりこんだ布団は普段使っているものを持ち込んでいるだけあって、特に寝苦しいとかそういうこともない。枕が変わると眠りが浅くなるタイプなので、そういう意味でもネロの布団を借りずに済んでよかった。
 しかし。
 暗闇の中いくらマットレスに横たわっていたところで、ぐうすか呑気に寝付けるはずもない。別々の布団で寝ているとはいえ、私のマットレスはネロのベッドの真横に敷いてあるのだ。ほぼ添い寝みたいなものじゃないだろうか。ただでさえ呪い騒動で神経が高ぶっているのに、こんな状況では気持ちを落ち着けるなどできるはずがなかった。
 幸い、マットレスは床に直に敷いているため、いくら寝返りを打ったところでベッドを軋ませるということはなかった。ネロは身じろぎひとつしない。まるでこの暗闇の中には自分しかいないような錯覚を覚えるが、しかしたしかに、すぐそばにはひとり分の気配がある。いくら呼吸を押し殺したところで、横たわる気配までもをまったく消し去ることはできない。それは私もネロも同じことだ。
 壁に掛けられた時計が、チッチッと規則的に時を刻む音がやけに耳につく。一体どのくらいの時間が経っただろう。時間を確認しようにも、この部屋に時計は壁掛け時計がひとつあるだけだ。灯りをつけられないから、時間も分からない。
 ネロはもう眠ったのだろうか。さりげなく気配を窺ったが、よく分からなかった。寝返りを打ち、また身体を丸める。ネロのベッドの方を向いていると、どうにも気が休まらない。ネロに背を向け、そっと息を吐き出す。

「寝れない?」
 ふいに、暗闇の中で声がした。相変わらず、ネロは身じろぎもせず横たわっている。一瞬、幻聴を聞いたのではないかとも思ったが、背中の向こうのネロが溜息らしきものをついたので、それが聞き間違いでも何でもない、寝たふりしていたネロの声だったことに気付く。
「その……はい……」
「だから同じ部屋で寝るのはやめておこうって言ったのに」
 ネロのことを意識しすぎて眠れなくなっていることなど、ネロには多分お見通しなのだろう。顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、うう、とうめき声が漏れた。今が真夜中でよかった。きっと今の私の顔は、誰にも見せられないくらいに情けなく、さぞ真っ赤になっていることだろう。
 しかし、真っ暗なのだから誰に見られることもない。ネロにだって、私がどんな顔をしているかまでは分からないはずだ。開き直ってネロの方に寝返りを打つと、ベッドの上でネロも寝返りを打ったようだった。ただ床にマットを置いただけの私の位置からでは、ベッドの上に横になっているネロの顔は窺い知れない。どのみち高さが同じでも、この暗さでは表情など見えはしなかっただろう。
 ネロは今、どんな顔をしているのだろう。
 ネロは今、どんな気持ちでいるのだろう。
 まさかそんなことを口にできるはずもなく、私はうう、と呻いたきり、じっと口を閉ざしていた。ネロもそれきり口を閉じたかと思ったが、
「さすがにもうあったかい飲み物でも、って時間でもねえよな」
 と、何となく的はずれな呟きが聞こえてくる。それが私のためを思ってくれてのことだとは分かったが、私の胸中のもやもやとした下心とはいたくかけ離れた言葉の気がして、笑っていいのか悲しんでいいのか、どうにもよく分からない心持ちにさせられた。
 もしかして、ネロは私が横で眠っているということを、少しも気にしてはいないのだろうか。たしかに私が一方的にネロのことを好きなだけなので、意識しているのが私だけであってもそれは何らおかしなことではないのだが。
 しかし、まったく意識されていないとなると、切ないのを通り越して悲しくなってくる。ネロに相手にされていないことは分かっていても、何かの折にその事実を眼前に突き付けられるたび、私の心の中でじっと己を守るため蹲る恋心はひとつ、またひとつとその背に棘を刺されていくようだ。
 泣いてしまうほど痛くはないが、まったく何も感じないわけではない。くずおれてしまうほどつらくはないが、きっといつか限界が来る。今はまだ平気でも。
「私のことはお構いなく。というか気にせずネロは先に寝てください」
 がっかりした気持ちを悟られないよう、努めて平らな声でそう伝える。途端に、ネロが今日一番の深くて重い溜息をついた。そうして、聞こえるか聞こえないかというほどの囁き声で、
「俺だって、寝られないよ」
 ひと言、ぼそりと発する。その言葉に、どきりと胸が鳴った。
 その言葉を、私は一体どのように受け取ればいいのだろう。ネロもまた、私と同じように私の気配を意識してしまうのだと、そういう意味なのだろうか。
 しかし、私はすぐにその期待を打ち消した。ここで変に期待をして勘違いするのも嫌だった。これまで何度も勘違いをしては間違えることを繰り返しているのだ。もうこれ以上、同じ過ちは繰り返したくない。
 ネロはけして神経が太い方ではないから、単に自分以外の人間がそばに寝ていると寝付きにくいだとか、そういう話でしかないのかもしれない。いや、きっとそうだろう。
 うっかりすると浮つきそうになる気持ちをどうにか抑え込み、ネロの呟きは聞かなかったことにした。時計の秒針の音に集中して心を鎮め、どうにか平常心が戻ってきてからようやく、私はまた口を開いた。
「すみません」
「え? なんで?」
「だってネロは朝が早いのに、私のせいで寝不足になっちゃいますよ」
 訓練などで外出でもしていない限り、ネロが厨房に立たない日はほとんどない。聞けば魔法使いたちが喚ばれた最初の頃に「明日の朝食をお願いします」と頼まれて、以来ほとんどずっとネロが食事を担当しているという。
 もちろん、ネロがいなければここの食事事情は各段に低下するだろうから、否が応でもネロには厨房に立ってもらわなければならない。それでも、ネロが毎日厨房に立ち続けるのはきっと、料理人として厨房を任されているという自負があるからだ。カナリアさんが通ってきてくれるようになっても、それは変わらない。
 それを、もしかしたら私のせいで邪魔してしまうのかもしれないと思うと、ネロの料理のファンとしてはやはり罪悪感を感じずにはいられない。
「魔法使いは人間よりは丈夫だから、まあ多少寝不足なくらいでも平気だけど」
「でも、寝不足のせいでネロの舌が働かず、明日のご飯が美味しくなかったらと思うと……」
「おい」
「ふふ、今のは冗談ですけど。でも、申し訳ないと思ってるのは本当です」
 ネロを巻き込んでしまったことにも、こうして迷惑をかけていることにも。本心から、私は申し訳なく思っていた。
 ネロは多分、私がまっこうから頭を下げたとしてもそれを受け止めてはくれないだろう。だからせいぜい、こうして冗談めかして謝ることでしか、感謝の気持ちと申し訳なさを示すすべもない。
 ふと、つい数時間前に見た、自分の部屋の惨状を思い出す。あれがもしも、私を害することを目的とした行為の結果であったとしたのなら、本来ネロは無関係のはずなのだ。たまたまネロが立ち会ってしまったから、だから私は今ここにいる。結果としてネロを巻き込み、ネロの優しさに甘えている。
 こういうことは今に始まったことではなかった。もうずっと、ネロに甘えてしまいたい気持ちと、ネロに迷惑を掛けたくない気持ちとが、私の中では長くせめぎ合っている。どちらも私の本心で、けれどそれを両立させることはできない。だから困っている。

「気休めにもならないだろうけどさ」
 ふいに、ネロがぼんやりとした声音で言った。ともすれば呑気とも聞こえるその声は、多分私を安心させるため、意図的にゆるめた声なのだろう。夜の静けさに溶け込むやわらかな声。それは甘さをほんのかすかに残しながらも、ほとんどが優しさで編まれているようだ。
「呪いのことはファウストや双子に任せておけば大丈夫だから、そう気に病むなよ」
「……はい、ありがとうございます」
 囁きほどの小さな返事をすれば、
「そう言うわりには元気がないな」
 揶揄するように、ネロが笑った。
 ごくり、と唾を飲み込む。ネロにはまるで、私の心の中のことなどすべてお見通しのようだった。
 けしてファウストさんや双子のことを頼りないと思っているわけではない。こうしてネロのもとに身を寄せていれば、少なくとも今晩は安全だとも思う。だから不安を感じている──というのとは、また少し違うのだろう。この胸にわだかまる、形を持たない濃霧のような感覚は。
 ネロは私の言葉を待っている。私はネロに話すべきか悩み、躊躇した。これ以上ネロに迷惑は掛けたくなかったし、この胸のつっかえはあくまでも私の気持ちの問題だ。話したところで、きっと何かが変わるわけではない。現状が好転するとも思えない。
「話したくないなら、まあそれでもいいんだけど」
「そういう、わけでは……」
「どのみちまだ寝れそうにないしな。話し相手くらいにはなるよ。ファウストも言ってたけど、乗り掛かった舟ってやつだ」
 途中で寝ちまうかもしんねえけど、と。ネロは冗談めかして言う。その言葉に、私は心を決めた。
 小さく数回呼吸をして、乾燥したくちびるを舐める。
「呪いのこと、なんですけど……」
 切り出した声は、ひどく強張り緊張していた。
「本当は私、この一連の騒動が魔法使いの皆さんへの悪意が、私に向いた結果だとは思ってないんです」
「……それはつまり、元々あんたが恨みを買ってるかもしれないってこと?」
「はい」
 暗闇の中、そっと頷いた。
 本当はずっと、そうではないかと思っていた。自分に何らかの害が及んだ時、それが誰かの身代わりになっていると思うより、そもそも自分に向けられたものだと思う方が、本来ずっと自然なことだ。
 幼児化のときには害意を感じなかったし、正直にいえば、今もまだはっきりと誰かに悪意を持たれているという意識は乏しい。それでも、実際に石を投げ込まれている。
 ほかの誰でもない、私の部屋に。
「私でなくても、母はああいう性格ですから恨みを買うことも珍しくはないですし……、それに、父は囚人ですから。私だってそうです。私はここにいる皆さんみたいに優れていたり、立派な人間じゃない」
 吐き出すように口にした言葉は、ずっと心の中にあり続けて、しかし一度も口にできたことのない思いだった。言葉にするのが恐ろしくて、胸のうちに秘め続けてきた思いだ。
 誰からも恨みを買わず、誰のことを傷つけることもなく、そんなふうに生きてこられたなんて傲りは少しも持ってはいない。具体的に誰かを思い浮かべることこそなくても、たとえば少しうまくいかなかった人間関係とか、気まずくなったきり距離のできてしまった相手なんて、それこそ数えきれないほどいる。
 そのうちの誰かが、もしかしたら私の知らないところで私への怒りや恨みを膨らませたということだって、まったくあり得ない話ではない。
 ついこの間ネロと共に参加したパーティーでは、父のことで嫌な言葉を言われたりもした。あれは覚悟の上でのことだったから、実際にはそう傷つきもしなかった。しかしああいうことは、きっと沢山あるのだろう。身に覚えがあることも無いことも。
「もしも本当に私がただ恨みを買っているだけなのだとしたら、こうして魔法使いの皆さんのお手を煩わせるようなことになるのは、ちょっとやっぱり申し訳ないなと、そう思うんです。思うん、ですけど──」
 そこで一度、言葉を切った。
 分かっている。もしも自分のせいならば、本来それは自分自身で解決すべきことだ。なまじ不思議の力が絡んでしまっただけに事態が複雑になってしまったが、つまるところは私と誰かの個人的な問題でしかないのかもしれない。
 そんな些末な問題に、こともあろうに世界を救う使命を背負った、賢者の魔法使いたちを駆り出そうなど、甚だ不適切なことではないのだろうか。大袈裟に騒ぎすぎているだけなのではないだろうか。
 そう思っている。分かっている。
 それなのに。
「だけど……、言い出せませんでした。なんだか、私なんかが余計な口をはさむのは差し出がましい気がして。長く生きている魔法使いの皆さんが決められたことに口をはさむのは、分をわきまえていないような気がして……」
 言いながら、違和感が胸の内側をざりざりと擦る。
 違う。それすらも、本当はただの建前だった。
 単に魔法使いだとか人間だとか、そういう立場の違いで言い出せなかったわけではない。言い出せなかった本当の理由は多分、自分が誰かに恨まれているだなんて告白をしたくなかったからだ。
 父のせいでもなければ、枠から外れたものを嫌う誰かのせいでもない。ほかでもない自分が恨みを買っているのだと、そう口にするのが嫌だった。
 人から恨みを買っているような人間だと、ここの人たちに思われたくもなかった。
 ネロに、そんな人間だと思われたくなかった。
 言葉にしたところで、胸のつかえがとれたわけでもない。むしろ言葉は重さを伴い、さらに気持ちを沈ませる。ぐずぐずと痛む胸が苦しくて、寝間着の上からぎゅっと押さえた。
 ふと思い出す。遠い昔、身体が弱い子供だった頃にも時々、こうして胸を押さえながら布団に潜っていた。随分遠いところまでやってきた気でいたが、やっていることは結局、東の国で何の疑問も持たずに暮らしていた頃と何も変わっていない。
 私はずるくて、不誠実な人間だった。

 どのくらい経っただろうか。沈黙が流れていた時間は、随分長かったようにも思えたし、ほんの束の間だったような気もした。
 その沈黙を破ったのは、ネロの静かな声だった。
「多分だけど、双子もファウストも、それに俺も、その可能性はいの一番に考えてるよ。誰かに害が及んだ時、その本人に原因を求めるっていうのが多分一番簡単で、一番正解であることが多いから」
 ネロの言葉は飾り気がない。取り繕おうとしていないから、心の中にすんなり落ち込む。それはスノウ様の声が耳に心地よいのとは別の、まったく違う種類の心地よさだった。
 ただ誠実で、真摯でいてくれること。
 ネロならば私に誠実でいてくれると思えるということは、多分ネロが思っているよりもずっと、私を安心させている。
 その安心が、時々、苦しい。それでも、私はネロのそういうところが好きだった。
「ナマエに何かあるかもしれない、俺たちが知らない禍根があるのかもしれないって、そりゃあそう思うよ。だって俺たちは二十数年分のあんたの過去を、ほとんど何も知らないようなものだから。それでも、あんたの人柄とここでの仕事ぶりを評価して、その可能性は低いだろうって判断してるんだ。少なくとも、俺はそうだよ」
「でも──」
「そもそも、誰かに恨まれてたからって、それはあんたが呪われていい理由にはならないだろ。だからそこは、あんまり気にすることじゃないよ」
 そう言って、ネロがベッドの上で身体を起こした気配がした。ベッドがぎぃと小さく軋む。暗闇の中で、何かが私の額に触れる感覚がした。それがネロの手だと分かったのは、触れたやさしさに覚えがあったから。暗闇だというのに、どうして私の頭の位置が分かったのだろう。魔法使いは、もしかしたら人間よりも夜目が利くのかもしれない。
「ネロ──」
「呪いなんて胡乱で他人頼みなものを頼る時点で、どのみち相手はまっとうな人間じゃない。まともに取り合うだけ無駄だ。だから、あんまり余計なことは考えんなよ」
 ネロの手は、ゆっくりと額から髪へと撫でるように動き、何度か私の頭を撫でた。その手のあたたかさに撫でられるがままになっていると、不思議なことにだんだん瞼が重くなり、やがてそのまま開かなくなった。あれほどまでにはっきりしていた意識が、徐々にまどろみ曖昧になってゆく。
「寝れなくても、目は瞑ってな。そのうちきっと眠れるよ」
「もう……子供扱いしないでください」
 ネロの手の心地よさが、凄まじい眠気を連れてくる。それに抗う気力もなく、私はあっという間に眠りに落ちた。

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